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恋愛はオワコン化してしまうのか?
著者 / 話者

恋愛は「オワコン(終わったコンテンツ)」。そういう空気が近年ますます漂っている。いわゆる「二次元」の萌えキャラクターを「俺の嫁」とみなし、「三次元=リアル」の女性は所詮「ビッチ」で「非処女」だからと見向きもしないオタクたち。あるいは握手券や投票券付きのCDを大量に購入し、「推しメン(応援しているメンバー)」のために無数のお金をつぎ込むAKB48のオタクたち。どれだけお金を投じても、決してセックスすることもできなければ結婚することもできないのに、なぜ彼らは現実の恋愛をオワコン扱いしつつあるのだろうか?
 そもそもこうなる前から、「男性と女性が結婚してお互いに永遠の愛を誓い合う(一生を添い遂げる)」というピュアな恋愛観はオワコンと化していた。フェミニズム研究がさんざん明らかにしてきたように、それはひとことでいってしまえば、近代社会(資本主義+産業社会)にとって都合のいい「イデオロギー装置」にすぎなかったからだ。要は「男性は外で働き、女性は家で子育て」という性的分業を正当化するのに、「永遠の愛」というピュアな恋愛観(「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」)は都合が良かった。だから奨励されたし普及もした。
 だが二〇世紀も後半になると、先進諸国は軒並み産業化(による成長)の天井にぶつかるようになる。後進国のキャッチアップによって。安くて良い物がグローバル市場に出回るので、もはや先進国がモノをつくっても売れなくなるからだ。そこで先進諸国は産業構造の転換を余儀なくされる。大量生産-大量消費の工業社会から、いわゆる情報社会、すなわち情報・サービス業ないしは知識・創造産業へシフトする。特に知識・創造産業は労働集約的ではなくて要はイノベーションを生み出すクリエイティビティが重要だから、雇用のパイはそれほど増えない。しかも日本の場合は自動車・家電といったものづくり産業がまだまだ強いから、そうした企業は競争力を高めるべく人件費をカットしまくり、非正規雇用の採用比率を高めてしまった。こうなると、いよいよ「男は外で働き、女は家で子育て」などと悠長なことは言っていられず、結婚しても皆共働きになる。そもそも非正規雇用の場合、流動性が高すぎて職場での出会いもあまり期待できない。――などなどの理由が重なって、どんどん結婚から若者が遠ざかっていく。少なくとも、昔のような「父は外で働き、母は家で子育て」という幸福な家族モデルは、いまや下部構造のレベルでなかなか実現しがたいものとなってしまった。
 さらにいえば、いまや日本社会自体がオワコンというか、不況が長く続き、近い将来の財政破綻も確実という、全く未来に希望の持てない社会になってしまった。こうなると、子供を産み育てようという気持ちにもならないし、ますます「決まった相手と一生を添い遂げる」などといったピュアな恋愛観は意味をなさなくなる。「どうせ未来は絶望的なんだから、今を楽しもーぜ」という刹那主義が蔓延するようになる。古市憲寿がいうところの「絶望の国の幸福な若者たち」である。今しかないのだから、もはや「永遠の愛」などを信じるのは馬鹿馬鹿しいことである。そんなことなら、適当にゲーム感覚の恋愛を楽しんで「終わりなき日常」(宮台真司)を楽しくやり過ごすのが賢い生き方になる。
 しかもそこに追い打ちをかけるように、インターネットとケータイが登場した。情報技術が何より得意なのは、検索とマッチングである。「出会いサイト」が端的に示すように、いつでも簡単に条件さえ指定すればお好みの相手を検索することができる。特に最近はGPS付きのスマートフォンが普及したので、アプリを立ち上げるだけで近くにいる「暇してる相手」を見つけることが可能になった。もうこうなると、一人の相手を猛烈にアタックしてなんとか落とす、という従来のピュアな恋愛観はコスト的に見て馬鹿らしくなってしまう。
 そもそもかつて恋愛といえば、あえて不可能にチャレンジする情熱――高貴な女性にいかに思い上げるか――のことを意味していた(ゲーテの『若きウェルテルの悩み』しかり、コンスタンの『アドルフ』しかり、近代小説の走りのほとんどのテーマがそれである)。そう考えると、冒頭で触れた二次元オタク(萌え文化)やAKBオタクの隆盛は、ある意味納得できるのである。彼らは、ただコミュニケーションスキルがなかったり現実の女性にビビっているから、恋愛から退却しているだけではない。むしろピュアな情熱を傾けるという恋愛の本来の目標を考えたとき、現実の女性はもはやオワコンなのである。恋愛不可能な二次元だったり三次元のアイドルだったりするからこそ、萌える=燃えるのだ。つまり彼らは、現代における「不可能性としての恋愛」の果敢なチャレンジャーなのである。

ということで、ここまで大変にざっくりではあるが、いかに現代において恋愛がオワコン化しているかを概観してきた。もちろんとはいえロマンチック・ラブは物語装置として大変優秀なので(なにしろ近代文学といえば恋愛をいかに物語的に描くかの歴史といってもそう間違いではない)、そう簡単にオワコン化したりはしない。現にいまもドラマや映画ではピュアな恋愛が描かれない日はないからだ。
 しかし、確実に現代資本主義社会は、恋愛をオワコン化するばかりか、ますます「オルタナティブ」なものへと奇形的に進化させていっている。その一例として、本稿では残る紙幅を使ってAKBについて分析してみることにしよう。いま筆者がちょうどハマっているということもあるのだが、AKBはまさに現代社会における恋愛とアイデンティティの問題を考える上で、実に重大な問題を含んでいるように思われる。そこで以下では、AKBを支える基本的な仕組みである「劇場」「握手会」「総選挙」の順に見ていくことにする。
 まず第一に、「劇場」である。よく知られているように、AKBの劇場は秋葉原のドン・キホーテの上にあって、そのビルの制約上もあり、極めて狭く設計されている。その結果何が起こるのかというと、「メンバーと目線があって、一目惚れしてしまう」という経験が起きやすくなっているのである(これをAKBオタの用語で「レス」をもらうなどという)。それこそ少女マンガなどでは、この「目線があって一目惚れする」という瞬間がよく描かれる。ちょっと気になる異性のクラスメイトをじっと見ていたら、思わず向こうとも目があってしまって、急いで目をそらしつつ「いま目が合ったかな? もしかして向こうも、自分のこと好きなのかな?」などとときめいてしまうアレである。ここからも分かるように、「一目惚れ」のポイントは「一目見た瞬間に惚れてしまう」という点も大事だが、「向こうと目があってしまう」というまなざしを受容する経験が組み合わさって、なおさら「惚れやすくなる」ところにある。まさにAKBの劇場は、こうした視線の衝突にともなう「一目惚れ」が起きやすい環境デザインが実現されているのである。
 第二に、「握手会」である。AKBはCDを発売するたびに日本中で握手会をやっている。だからちょっとでも「一目惚れ」して気になったメンバーがいれば、すぐに握手会で直接話をすることができる。そしてこのAKBの握手会というのは、非常にハマりやすい「ゲーム」にもなっている。AKBオタクの間で使われる言葉に、「良対応」というものがあるのだが、これはメンバーと握手したときに、とてもうれしくなるような対応をしてくれることを指す。CDを買って握手会にいくのだから、どうせならこの「良対応」を相手から引き出したいと考える。だが、握手会ではCD一枚あたり、たった数秒程度しか握手できないという「制約」が存在する。だから握手会に行くにあたっては、この数秒間にいったいどんな話題を詰め込めばメンバーから「良対応」を引き出せるのか、知恵を絞って考えざるをえない。それゆえにメンバーの更新しているブログやGoogle+などを普段から念入りに読み込んでいくことになる。これがまさに、ゲームを攻略する感覚なのである。
 実際に「良対応」を引き出せた時の興奮は、それはもうすごいものである。握手会の会場を見渡すと、まさにこの握手対応をめぐって友人同士熱く語り合っている若者たちでいっぱいである。メンバーの名前と「握手レポ」で検索してみると、ネット上には無数のこの握手対応の話が転がっている。たった数秒間アイドルの女の子と会話をするということが、ここまで人を興奮させるゲームになってしまうということが、大変に面白い。
 そして第三に、「総選挙」である。つい先日も第四回の選抜総選挙が行われたが、それはもう大変な盛り上がりであった。しかしなぜあれだけ総選挙が盛り上がるのかといえば、普段からAKBにおいてはメンバーとファンの関係性が握手会を通じて親密に構成されているからだ。ファンからすれば、普段から握手会で面と向かって話しているメンバーのためである。総選挙の順位は、たかがアイドルの人気ランキングを決めているだけとはいえ、そのメンバーが夢を叶えていくにあたって重要な指標となりうる。だからAKBのファンたちは、できる限り推しメンの順位を上げようと奮闘する。逆にメンバーからすれば、いつも握手会に来てくれるファンがこれだけ自分のために票を入れてくれたということに感激させられる。その一票一票の背後には、握手会で来てくれたファンの思いが詰まっている。大島優子が第三回の総選挙で言ったように、まさに「票数は愛」なのである。だからこそ、メンバーは順位と得票数が発表されると、感動のあまり涙ながらの迫真のスピーチを繰り広げる。それが見る者の心を打つ。
 ここで重要なのは、「劇場」→「握手会」→「総選挙」と段階を踏んでいくにあたって、当初はメンバーへの「一目惚れ」に過ぎなかったものが、だんだんと「メンバーの夢を叶えるために投票する」という奉仕・貢献活動にすり替えられている、ということである。これが恋愛と比較した際の興味深い点である。恋愛というのは、旧来のロマンチック・ラブの定義でいえば、はじめは「一目惚れ」などで衝動的な「恋」に陥ったあと、結婚などの形で永遠の「愛」を貫いていく、ということを意味していた。つまり、短期的・突発的な「恋」の衝動を、長期的・永続的な「愛」の契約へと結びつけること。これが恋愛だったのである。それを具現化する制度が結婚や家族だったのである。
 これに対しAKBは、入り口こそ普通の恋愛と同じで、ちょっとした「一目惚れ」からメンバーが気になりはじめる。これは極めて短期的で突発的な経験にすぎない。しかし、それがきっかけとなって握手会に行くようになり、はじめはゲーム感覚で楽しんでいるうちに、どんどんメンバーとの関係性は親密になる。毎日その子の出演する番組などもチェックするようになっているので、だんだん成長していく姿を見守るのがとても幸せになっている。もはやこうなってくると、子供の成長を見守る親の心理に近い。そしてファンとしては、ぜひその子の夢を叶えたいと思うようになる。それを叶えてあげるためにファンができる行動は何か。選抜総選挙での投票である。もし選挙で順位が上がれば、次の握手会でメンバーと喜びを共有することもできるだろう。その顔を想像しただけで、投票しないなどという選択肢はありえない。こうして、最初は単なる一目惚れにすぎなかったものが、いつのまにかメンバーの夢を叶えるために総選挙で投票するようにと、行動の導線が引かれているのである。
 劇場や握手会や総選挙を通じて、メンバーと夢を共有し、それを実現できるということ。それは実に甘美な経験である。恋愛がオワコン化した現代において、AKBはもはや恋愛に匹敵するほどの機能を持ってしまっていると筆者は考える。もちろんAKBは、結婚や家族に比べれば、実にちゃちなお遊びにすぎないと思われるだろう。確かにそのとおりかもしれない。しかし、そもそも結婚や家族をつくるのが難しい現代状況において、AKBの場合は、わずかCDを買うだけのことで、メンバーとファンの間で夢を共有するという長期的なプロジェクトに参加できるのだ。ロマンチック・ラブのように「永遠の愛」とまではいかないが、「数年・十数年単位の夢」くらいは共有できてしまうのである。これほどまでに参加の敷居が低く、誰にも開かれていて、かつ長期的な夢をみんなで見ることができる「物語の容器」(プラットフォーム)というものを、筆者は他に知らない。それは流動化した現代社会における奇跡といっても過言ではないのである。
 さらに興味深いのが、従来の恋愛は「一人の相手を永遠の愛する=恋愛相手を独占する」という私的所有《ルビ:、、、、》のモメントが働いていたが、AKBにおいては「皆でメンバーの夢を共有する」という形でシェア《ルビ:、、、》のモメントが働いているという点である。誰もアイドルを独占することはできない。それはコモンズなのである。しかもAKBの場合、決して一人のメンバーだけを応援する必要はない。何人ものメンバーを応援するのは、通常の恋愛でいえば「浮気」に相当しそうなものだが、AKBにおいてはむしろ「推しは変えるものではなく増やすもの」(指原莉乃)といって推奨すらされている。実際AKBにハマると、最初は全く可愛くないと思っていたメンバーも、次々とその良さが芋づる式に分かってきて、ますますハマってしまう。「自分は○○系がタイプ」というアイデンティティ(自己規定)すら、AKBにおいては溶解していってしまうのである。つまりAKBにおいては、シェアと多様性と自己変容とが自然な形で重視される文化が育まれているのだ。それは私的所有/ロマンチック・ラブ/近代的自我(アイデンティティ)を是としてきた近代社会に対する、ある種の「批判」として読むことだってできるだろう。
 このようにAKBは、単なるアイドル文化の域を超え、「総選挙」のように政治的制度まで取り入れることで、実に異様なまでの進化を遂げている。それは近代社会/産業社会の移り変わりにともないオワコン化する恋愛にかわって、オルタナティブな恋愛的システムとして適応進化を果たしたのである。こんなものが一大ムーブメントになっているのは日本だけであり、まさに恋愛の「ガラパゴス的進化」の一例といえよう。筆者としては、それを否定したり敵視したりしても始まらないと思う。いまさらAKBがなくなったところで、決して若者は普通の恋愛や結婚に戻ったりはしない。むしろこの異様な進化を遂げたシステムから、何か横展開的に使えるものはないか探すほうが、よほど生産的だと思うのである。