タイトル
道具としての時間学概論
著者 / 話者

時間を科学する

同じ1時間でも友達と過ごす時間ではあっという間なのに、退屈な会議ではずっと長く感じる――このような感覚を皆さん少なからずお持ちではないかと思います。これは感覚であると同時に経験、あるいは一種の知覚であり、「体験される時間」と表現することが可能です。私たちが意識を持っている間に時間から逃れることは出来ず、時間の無い状態を想像することさえ困難であることを考えれば、この「体験される時間」は私たちの生活を構成する欠かせない特性であるとも言えるでしょう。
 そして一方では、皆さんご存知のように「客観的時間」も存在します。「客観的時間」とは公共性のある時間であり、社会で共有している時間、つまり時計の針が刻む「時計の時間」です。物理学や哲学の領域では時間は実在しないとする考え方もありますが、たとえそうであったとしても、私たちの生活が「時計の時間」から解放されることはないでしょうし、「体験される時間」において欠かせない「いま」の感覚も説明することは出来ず、私たちに対する影響力は変わらないでしょう。
 日常何気なく私たちは時間の中で生きているものの、実際には21世紀になっても「時間とは何なのか」という問いに誰もが納得できる答えが得られていないのが現状です。そして、時間の知覚は目や耳のような独自の感覚器官を持たない特殊な知覚であり、その生理学的な基礎についてはまだあまり解明されていない状況にあります。
 ですが、概念的な客観的時間の本質について触れることが決して出来ないとしても、認知科学によって人間が時間を含めた空間をどのように知覚しているか把握することは可能です。「私たちは時空間をどのように体験しているか」、「私たちが体験する時空間とはどのような性質をもっているのか」についてさらに解明する時、私たちは時間が人間や社会に与える影響に関する理解をより深めることが出来るかもしれません。そして、技術が急激に発達しつつある現在、その理解の上で私たちは道具としての時間を再認識し、人間が自身のために時間を道具として利用しうる存在であることをよりいっそう自覚することが可能になるのではないでしょうか。

道具としての時間

ここ最近の社会の変化や動きを見ると、やはり技術の発展には目を見張るものがあります。私自身の仕事を振り返ってみても、10年前、20年前に比べれば一つの作業に要する時間は減っています。一例では論文や発表資料の作成がたいへん楽になっています。これはコンピューターの利用によって可能になった時間の短縮ですが、コンピューターは「文房具(道具)の発展」と表現することも可能です。
 技術の発展と道具という観点で考えれば、時間もやはり人間がつくった道具であり、時代とともに発展してきたと言えるでしょう。現代のような厳密性を持っていなくとも、農耕社会での作業の周期性や大量の労働力を必要とする農作業によって公共の時間は古来より存在し、それは共通の社会を皆で生きるための道具でした。ところが、私たちはまだそれを使いこなせていない、あるいはまだ道具に使われている場合も見受けられ、時間という道具を使いこなすための工夫の余地があるのではないかと思われます。
 道具としての時間について考察した場合、幾つか踏まえなければならない課題や論点があります。まず一つは道具と人間の関係性の問題です。デザインの話でもよく言われると思いますが、一方には人間が道具に合わせる視点で捉え、使いこなせない人間に責任があるという考え方があります。他方には、どのような使い方をしても安全、誰が見ても見た目で使い方がわかるのが「いい道具」という考え方もあります。道具に人間を合わせるか、人間に道具を合わせるかという点では、まだせめぎ合いがあり、これは道具としての時間でも同じことが言えると思います。つまり、社会と技術が要求する時間に人間が合わせるか、人間に時間を合わせるかの問題です。
 また、人間が時間の特性を理解していない点も無視出来ないでしょう。例えば、人間は知覚処理の遅れにより,ひいき目に見ても大体0.1秒くらい昔の世界を見ています。暗い部屋ならばもっと遅れます。しかし、人間はそのような時間のズレや遅れに気付きません。また、スポーツの審判の判定がよく話題になりますが、同時に起こったと見えていること自体が同時ではなかったりします。はっきり見えるほうが先に見えたりするなど、見た目と物理的な時間順序はずれていることが多いのです。
 自分の足で走るのが最速の移動手段だった時代では、わずかな時間のズレによって致命的な問題は起こらなかったでしょう。ですが、現代は車などで常時速く移動し、その知覚処理による0.1秒なり0.2秒のズレが致命的な問題に発展することが考えられます。
 また、人間の知覚処理の能力の時間的限界に関する他の例として蛍光灯の光を挙げることができます。人間は普段蛍光灯がチカチカしているようには見えませんが、昆虫にはそれが見えているものと考えられます。なぜなら,哺乳動物は大体視覚が遅いものの、昆虫は断然速く、チョウやハチは細かい羽ばたきが見えているからです。彼らは,羽の模様などでオス・メスや種を見分けているので、生存のためにも高速で羽ばたく羽根の模様が見える必要があるのでしょう。一方、人間を含む多くの哺乳動物は視覚的に速くなくても生きることが可能だったのでしょう。しかし、生活環境で求められる時間のスピードがいっそう速くなってくると、その能力的遅さがネックになるかもしれません。人間がつくった技術的人工環境の中では、今までなかったような適応問題を人間の肉体が引き起こす可能性が高くなると考えられます。

からっぽになる時空間

現在の日本は24時間が開発された状態になっています。それは治安の良さという背景もありますが、世界とくらべても日本はかなり極端な印象を感じます。深夜営業のお店で皆が利便性を求め、その便利さを享受する――。それは、社会として欲求をかなり極端化して表現した状況なのかもしれません。そして、その現実に体や心がついていかないと睡眠障害や体内時計の乱れ、代謝異常などの健康上の問題に発展する可能性があること、人間に身体的制約があることは念頭においておくべきではないかと思います。
 さらに,技術進歩によって生活空間の拡張が続き、一昔前とは明らかに人々の生活する時空間が加速度的に変化しています。この時空間拡張の時代においてそれらを使いこなすにあたり、自分を知ることと道具を知ること、その2つが重要です。
 例えば、冒頭でも述べましたが同じ1時間でも、長くなったり短くなったりする特性について日常的に皆さん感じていると思います。やはり退屈な時間は長いけれど、楽しい時間はあっと言う間に過ぎたり、行き道に比べると帰り道のほうが少し早く感じられたり。その体験的特性についてもある程度要因がわかっているので、近い将来に感じる時間を長くしたり短くしたり制御できるようになることも十分考えられます。
 また、人間は時計のように心の中で時を刻まないので、人によって傾向や個人差が生まれます。自分は同じ時間を長く見積もりがちだとか、1時間の予定で仕事をしても1時間20分かかってしまう特性があるなど、自分の癖を知っておくと時計の時間の使い方がうまくなるかもしれません。さらに、個人の特性として、喋ったり歩いたりするテンポや間合いが人それぞれ決まっています。自分が早めなのか遅めなのか知っておくと、他の人との共同作業がスムーズになることがあるかと思います。それらのテンポについては標準的範囲の値がわかっているので、自分の感覚が標準範囲に収まっているのか、極端な領域にあるのか知っておくといいかもしれません。
 加えて,現在の日本では朝・昼・夜の24時間が均質化したばかりではなく、1日や季節単位においても同様に均質化が進んでいます。正月にしても季節の行事にしても、農耕など社会生活に裏付けがあってはじめて成立したと言えますが、今の日本は急速に都市化が進んで農村から人が出てきてしまった状態です。都市生活では季節は特別な意味を持たなくなり、正月も含め特別な日が日本ではどんどん失われているのではないでしょうか。
 さらに、インターネットや放送を通じて他のエリアと情報をやりとりするようになると、その土地の時間の特異性も失われることになります。グローバル化が進み、生活の場面において人間の欲求が時間の特異点を隠し、特異点をもたない均一な時間へ変化しつつあるように感じます。
 しかしながら、人間はその身体的制約から、均一で延々と続く時間を生きることは難しく、何らかの形で特別な時間の結節点や特異点を設けることが必要になってきます。何もイベントがない時間は退屈で非常に長く感じますが、後で思い出すと「空虚な時間」という短い記憶になってしまいます。
 共同体が解体し、家族も解体して核家族というユニットになり、さらに都市ではユニットが単身者という個人になってしまうと,共同体で行事を行うこと自体リアリティがないかもしれません。ならば、個でかかわることが出来る行事を自分で選択し、関与することが必要でしょう。例えば,個人の誕生日や、特別なイベントを意識的にでもつくらないと、本当に均質な時間だけになってしまうでしょう。生活していく上で「いい時間を過ごした」という充実感を得るには、何か特別なイベントを自分なりに設けていくなど、個々人で努力しなければならないように思います。特に祭りも共同作業も少ない都市生活者の場合はそうです。
 生活上のイベントとは,別の言葉では生活のメリハリとも言えます.クリスマスやハロウィンなども,宗教と結び付いている海外とくらべればずいぶん違うものになっていると思いますが、多少のメリハリになっているかもしれません。また、スポーツイベントやサッカーのサポーターなどもその機能を一部果たしていると言えるでしょう。いずれにしても、時間を均質化し、特異点をなくしていく生活パターンが、一期一会の今しかありえない「いま」という時間性を見失わせることにつながっている可能性があることには留意した方がいいと思います。

技術による時間チューニング

人間と社会、そして時間の関係の変化を歴史的に見た場合、日本についてはこの150年前後の大きな変化が指摘されています。以前ならば日の出から日が沈む間の中で過ごし、大阪の時間と東京の時間も日の出が異なったので違いました。現在では、時間はどこでも同じように流れているという考えが定着しています。それは正確な時間を公共の社会で共有するだけの技術力が発展してきたことと裏表の関係にあります。明治の初期には「日本人は時間に正確じゃない」と外国人が嘆いていたそうで、おそらく1920年代から30年代の間に急速に技術力の発展があり、むしろ時間を守らないことが道徳的にも受け入れられないように日本の社会も大きく変化し、社会全体が時間を道具として少しずつ厳密に扱い始めたのだと思います。
 そして現在は急速な時間に関する技術進歩が人間と社会に与える負荷的な影響を無視できない時代になっています。昔ならば「分刻みの生活」だったものが、今では「秒」、さらには「秒以下」でしょうか。例えば、「ミリセカンドオーダー」の株取引などは秒以下の単位で処理され、機械で自動的に判断させていますが、企業もそうしなければ生き残れない時代です。実際、人間は時間的にはかなり不正確な生物で、瞬時に正しい判断をすることは知覚的にも不可能なので機械に肩代わりさせるしかないでしょう。このように時代が要求するスピードに技術で対処することが可能ならば人間に対する負荷は減るものの、社会全体ではまだかなり負荷が高い状態ではないかと思われます。
 ですが、「道具としての時間」の今後を考察する上で、携帯電話を使う若い人たちの待ち合わせ方法の変化は示唆に富んだ事例かもしれません。今の若い人は「渋谷に大体5時ごろ」という曖昧さで待ち合わせしているようです。昔ならば「5時にハチ公前」と決め、その時間にいなければならないのですが、現在は携帯電話のおかげでおおよその時間を決めておくだけで十分なのです。これは厳密性からやや緩やかな方向への変化です。やはり人間が正確に分刻みの時間に合わせることは困難であり、技術的なサポートさえあれば、人間の身体的制約に適したありかたへ再び戻っていくのではないかと思います。
 利便性や経済性を追求する技術進歩が人間にストレスを与え、さらなる技術進歩がそのストレスを緩和する――。
だから、時間とはもっと楽につきあっていったほうがいいのです。時間とは,時代とともに変化するものであり,皆さんが絶対的と感じている時間も暫定的なものなのです。