タイトル
命を使う。露出させる。
著者 / 話者

自分の食べるものを殺す

虫とりなどは子どもの頃から好きだったんですが、自分の食べるものを自分でとるということは長い間未経験でした。今の普通の子どもたちと同じように、現代社会で生きてきました。
 サバイバル登山をはじめてから、自分の食べるものを自分で殺すという体験を生まれて初めてやってみて、強烈に感じたのは『おもしろかった』ということです。すがすがしいというか、「こっちのほうが正しいな」って思った。で、それと同時に――、おもしろいとか、興味深いとか、自分が喜んでるとかというのと同時に、やっぱり生き物を殺してるっていう罪悪感もありました。その後、釣りを中心としたサバイバル登山から一歩進んで、狩猟もはじめて大物獣を仕留めるようになりますが、今に至るまで、結構ずうっと長いこと、食料調達の興奮と罪悪感という矛盾に関して、考えてきたつもりです。
 「興奮」のほうは単純です、。獲物を追うのは、もう間違いなくおもしろいですから。その面白さについて、まとまった言葉にしようと思って結構努力してきたんですけど、なかなか難しい。歴史上で残ってる文学作品等を見ても、きちんと言語化できているものは少ないと思います。ヘミングウェイの『老人と海』は、今まで僕が見てきた中では、比較的うまく作っていると思いますね。あれは、さすがにノーベル賞だな。
 殺しの興奮と罪悪感を文字化することに関しては、雑賀恵子さんや内澤旬子さんの本なんかも見て、いろいろ考えているうちに、自分の悩みの内容ではなく、悩むこと自体がちょっと違うんじゃないか、簡単に言うと低レベルなことなのではないかと思うようになってきました。おそらく人が何か頭で考えたり、言葉が発生するよりも前から、自分とは別種の生き物を何らかの形で自らに融合させる――我々は『食べる』わけですけど、食べたり、食べられたり、もしくはそれを取り込んで自分と一緒に共存したりみたいなことは存在していたはずだからです。簡単に言えば「食」は言葉の前から世界に存在するもので、あとからできた言葉で説明できないからって悩む必要はないのかなと。
 そもそも「興奮」というのはわかりやすくて、自分がより生き残るための行為を、楽しく感じるようにできてきた、もしくは楽しく感じる生き物がうまく生き残ってきたから、狩猟採取とか獲物を追っかけるとき興奮するってことなんだと思います。
 もう一方の「罪悪感」のほうっていうのは、まだうまい答えが出ていない。でも、経験を重ねたり、考えているうちに、罪悪感は少しずつ軽くなりましたね。どうせ自分の番(死ぬということ)がそのうち来るわけです。実際、この間滑落して、ついに死にそうな目に遭ったわけですけど。死にたくないとか、長生きしたいとか、子どもの成長を見守っていたいという思いはもちろんあるけれども、それと同時に、自分の命に対する何かこだわりみたいなものの質が、サバイバル登山や狩猟をやっているうちに、変わっちゃったっていう感じがするな。

狩りはぶつかりあいではなく寄り添うこと

異性に対してアプローチすることに対して、よく「狩り」は比喩として使われるけど、実際似てるんです。触りたい、手に入れたいっていうのと。――そう、狩りって、しない人からよく「残酷だ」とか反発受けたり批判されたりするんですけど、(彼らが思っているのとは違って)実は、狩猟のほとんどの要素は、ぶつかり合いじゃない。寄り添う方向なんですよ。憎しみをぶつけてやるとか、殺してやるみたいなことで臨んでは、うまくいかないです。少なくとも効率はよくない。ケモノと意識や行為のベクトルをそろえて、寄り添ってやるっていう方向のほうがうまくいくし、肉も、実はそっちのほうがおいしいんです。
 寄り添うとなると、恋愛と一緒で相手のことを何でもいいから知りたくなる。常に相手のことを考えている。どうにかして会いたい、手に入れたい。で、狩猟行為がうまく進めば最終的に求めるものが死体になって手に入るわけですが、最後の最後では、どうしてもやっぱりベクトルはぶつかることになる。相手のケモノはもちろん、殺さないでくれと思ってるんで。それは魚もケモノも間違いなく思ってますね。「いやだ!」って。目を見ればわかる。最終的にはぶつかり合いがあるから、最初に言った罪悪感みたいなのが、もしかしたらあるのかもしれない。手に入れるはずのものが、結局そのものを手に入れるんじゃなくて、その死体を手に入れるということになる。相手のことを考えて寄り添った結果として死体を手に入れるというところに、狩猟という行為に含まれる矛盾があるわけです。
 女性との恋愛のように、うまくいった最終形が相思相愛になれればいいんですけど、やっていることは、一方的なストーカーのようなものです。そもそもストーキングっていうのは、においや足跡を追って、そうっと寄っていくという意味の狩猟の言葉ですから。どんな場合であれ狩られる側が狩る側を愛することはないんですよね。でも――もう1歩、もしくはもう3歩ぐらい引いて全体を見るとどうなのかなって思います。1つの大きなサイクルの中で共存してるんじゃないかと。まあ僕ら、人間は一方的に殺す側が多くて、ほとんど何かの餌になるってことはないんで、我々が言うとちょっと動物たちに失礼というか、おこがましいところがあると思うんですけどね。

鹿に電話して何考えてるか訊きたい

鉄砲も釣りも、虫とりでもそうなんですけど、やればやるだけ、ひとつの生物を単なる種としてとらえなくなってきて、一つの固体として見るようになるんですよ。というのは、それぞれやっぱキャラクターが微妙に違うから。あいつ、こいつみたいな。ある一頭のシカの周辺を観察すれば、性格もわかる。魚でも、慎重なやつと結構大胆なやつと、まあいろいろいて、そういう個体の個性や性格なんかを見てると、人間とほかの生き物との境界は低くなる、というよりほとんどなくなっちゃいますね。
昔、人間は動物になれた、動物は人間になれたみたいな、インディアンの、北米の先住民の言いまわしがありますけど、実際にヒトが動物になることはなくても、立場逆転ってことは普通にあったんじゃないですかね。僕自身はまだ熊に襲われるとか、立場逆転した経験はないですけど、でも、何か命というものの存在として、軽いも重いもないとは思う。彼らは彼らで彼らの戦略で存在している生き物で、我々は我々で我々の戦略で存在してる生き物で、多少大脳皮質がでかくなったから、いろいろ考えて何か意思表示するようになったけど、それはお互いの戦略が違うだけで、存在としての重さは変わらないんじゃないかな。
 なのに、何で人間は、自分たちのほうが偉くて存在する意味が深いんだと考えて当たり前のようになってしまったのか。どっからその奢りが生まれるのか。ほかの生き物を下に見て、それが当たり前で正しいとなんで思い込んでしまえるのか。
 実際に他の生き物と接する機会があるかどうかは、とても重要なことだと思いますね。自分の家に猫がいれば、つきあっているうちに個性を理解して、ただの種としての猫じゃなくて、タマとかトラになるわけですよね。知っているか知らないかの違いということもできる。知りもしない他人より知っている犬のほうが大切という感覚は特別じゃない。
 狩猟をしていると本当に相手のことを考えるんですよ。鹿に電話していろんなことを聞いてみたいです。「この気温は寒く感じるの?」「昨日、どこ行ってた?」みたいな。「何でこんなことしてるの?」「今日、どっち斜面にいるんだよ?」なんてね。「ほんとに夜は暗いのか?」とか「色は見えるのか?」とか「音ってどういう感じなの?」とか「人間をどういうふうにとらえてるの?」とか「ほかの仲間をどういうふうに考えてるの?」とか、聞いてみたいことはごまんとあります。でも、聞けないから、一生懸命足跡を見て、はみ跡を見て、樹に身体をこすった跡とか、寝てた場所の跡とかを見たりして、それと天気と見比べながら、予想と情報と結果を重ねてって、「今日、あの辺にいるんだろうな」と想像して行ってみて、いれば撃つし、いなければ「どこ行っちゃったのかな?」って考える。それは、おもしろいですよね。

死ぬのは本当によくないことなのか

ケモノが、ほんとに狩られたくないと思ってるのかっていうのは――もちろん局地的に見て、「いま」狩られたくないという意味では正しい見解だろうけど、その一生のなかでという意味ではすこし違うんじゃないかな。それは、例えば人間がほんとに死にたくないと思っているかというと、違うんじゃないかと思うからです。最終的にはだれもが絶対死ぬ。死にかけてるお年寄りは、ダイレクトに「もう死にたい」と言う人ももちろんたくさんいるし、そうでなくても自殺する人も少なくない。
 僕は登山が専門なわけですけど、登山も、安全登山とか、遭難してはいけない、山で死んじゃいけないって一般には言われるんですが、僕、それウソだと思ってるんですよ。本当は登山って危険なものを求めて山に行ってるんだから、そこに危険な要素とか、リスクを超えた自分へのチャレンジがなかったら登山にならない。こうしなくてはならないとか、これを持っていかないのはだめとかそんな約束は登山にはないんです。行きたいって気持ちだけが必要で。なのに「死んじゃだめ」とか「遭難はだめ」などという表現がまかり通っているのは、何かちょっと勘違いしている。本来は気づくべきことに気づいていないんじゃないかな。登山は死んでもいいっていう前提で山に行って、死なないように努力するというせめぎ合いでできている行為というのが正解だと思うんです。
 鹿とイノシシも、熊もそうですけど、死にたいとは思ってないけど、野生動物はすべてを受け入れて生きてる。狩られる可能性も受け入れてそこに存在している。そのことに関して何か特に反発もしない。反発しようと思っても、実際に自然環境には反発できないというか、そんな選択肢は存在しないから検証することがナンセンスですよね。
 野生動物を保護したほうがいいって言う人たちは、僕ら猟師を批判するんですけど、彼らは、野生の動物たちの意思みたいなものを人間の理屈で考えている気がします。まあ、僕の考えが正しいのかどうかっていうのは証明はできないんですが。登山者も、死ぬ確率、死ぬリスクを含めて登山があるわけで、絶対死にたくないんだったら、登山に行かなきゃいいわけです。心のどこかでそれがわかってるはずなのに、登山は安全でなきゃだめだとか、死んじゃだめだって言うのは、何かその本質的なものを見失っている。
 何でそうなっちゃったのかなっていうのを考えるのが、一つの僕の大きな命題なんですが、たぶん何か、まあ、みんな勘違いしてるんだな。あるいは都合の良いように考えることで思考停止しちゃってるか。

命を使う。露出させる。

死ぬリスクを受け入れながら山に行くことを説明するのにギャンブルにたとえることがありますね。僕も使うことがありますが、イメージとして合ってる部分もあれば、ちょっと違うなっていう部分もある。他にいいたとえがなくて、命を賭けるっていいますが、個人的には、命を『使う』とか、『露出させる』というほうがイメージに近いですね。
 例えば、いい道具を持っていても、せっかくのいい道具だから使わないでしまっておこうと考えてしまう。気持ちはわかりますが、ナンセンスですよね。それじゃ、その道具が何のために存在してるのかわからない。そのいい道具を使うことでしかできないことや感じられない何かがもしあるんだとしたら、その道具を壊しちゃったり、なくしちゃったりするかもしれなくても、使ったほうがいい。そこで感じられるものとか手に入れられるものを掴んだほうがいいんじゃないかっていうのが、僕の根本的な考えの一つですね。それは、たとえ命でもそうです。命を、その自然界とか何かの行為に『使う』とか、『露出させる』というか、そこに突っ込んでいく、そうすることでしか感じられないこととか楽しめないことがあって、それを実際やってみると、「あっ、これが生きるっていうことなんじゃないの?」とわかってしまった。突っ込んだ分、何かが返ってくるっていうか。
 都市文明の中で生きる人たちは、動物園のオリの中にいる動物みたいなイメージが僕の中にはあります。実際に、種による最高年齢、たとえばキリンだったら30年、象だったら20年っていう、その最高記録を延ばすのが大抵動物園の動物だっていうのは、興味深い。それって、確かにずっと心臓は動いてて何年もそこに存在したのかもしれないけど、「おたくたち生きてるの?」って考えてしまう。動物園にいる動物は、もちろん連れてこられて、そこで生きてるっていう、かわいそうな面もあるのかもしれないですけど、それと同じような生活を我々はしちゃってるのかもしれない。
 ただ単に長生きするのは、いいこととは僕は全く思っていません。人工的な安全を手に入れて長生きするよりも、どこかで自分自身も早く死ぬ覚悟みたいなものが必要になってくると思っています。でも一方で、もし僕が80歳になったら、「じゃ、死にましょう」っていうのは、理性的にはなかなか難しいんじゃないかな。まあ、80歳では生き過ぎですね。実際、どんどん寿命が長くなって、みんなが長生きするようになった一方でほとんどの人が病気持ちみたいな社会です。昔は、40、50で死んじゃうけど、病気持ってる人はほとんどいなかった。病人はあっという間に死んじゃうから、生きてるほとんどの人が健康という社会だった。この2つを比べて、生きるっていうことに関して、その質や意味みたいなものを考えたときに、どっちのほうがいいのか、どっちのほうが楽しくて、生きてると言えるのかは、建前を取り除いて本質的に考えたほうがいいと思う。

結局炭素は循環している

山の中で死にたいっていうか、自分の肉体を火葬場で燃やしちゃったらもったいないとは思います。自分だけでなく、すべての人間に関してそう思ってます。人間の死体は肥料にしたほうがいんじゃないかなって思いますね。
燃やすとしても、二酸化炭素になって出てくだけで、炭素そのものが消えるわけじゃないですけど、エネルギーの無駄ですよね。我々を構成する物質は、地球の大気圏や、我々の生活圏から出て行くわけじゃなくて、結局、循環してるんですよね。我々の体って我々が食ってきたものにほかならない。当たり前なんですけど。いろんなところに命があって、死んで、食われて、死んで、食われてみたいなのを繰り返している。地球上に存在する原子、例えば炭素の元素は、もう量は決まっていて、それを命っていう、まだ我々が理解してない秘密のエネルギーみたいなものが、秩序立って運営してるのが生命体だと僕は理解しています。その生命体同士が、物質をやりとりしながら何となくサイクルが全体的に回っていくっていうのが、この大きな地球の中の生命体の存在だと思う。
 人間は火葬場で燃やされて二酸化炭素になって、またそれを植物が光合成で取り込んで、それをまた昆虫が食べて、それをまたケモノが食べて、それを我々食べたりするわけで、結局、地球上に存在する原子そのものの量は変わらないから循環はしているんだけど、燃やしちゃうのは効率はよくないですね。せっかくいい感じでアミノ酸の結合ができてるわけだから、その結合をもっと、うまく、使えたらなとは思います。

味で人とケモノはつながっている

殺しについてはいろいろ考えて悩みますけど、そんな僕を救うのは「味」ですね。「旨い」という感覚が殺しを肯定するんです。味に関して、僕の中で大きな転機だったのは、狩りの方法で味が違うことを知ったときです。狩猟集団の仲間に入れてもらって、犬に獲物を追いかけさせて撃って食べていたんです。その頃は、鹿って、やっぱり鹿臭いものなんだなと思ってた。そう、最初の頃食べていたのは結構鹿臭かったんですよ。
 それが、仲間とではなく、一人でウロウロするようになって、何頭か自分ひとりで仕留められるようになっていったら、単独猟での獲物のほうがおいしいんです。最初は自分が仕留めたからかなとか、撃ったあとすぐ丁寧に解体したからかなとか思っていました。仲間で撃つと、山から下ろして、解体場に持っていって解体するから時間がかかる。あとは、血抜きも自分なりに研究したからかなとか。でも、そうじゃなかった。
 現時点での結論は、犬が追いかけ回した鹿は臭いってことなんです。ただ草をはんでいる鹿を見つけて仕留めた、死ぬ直前に走り回ってない鹿はうまいんですよ。筋肉に血が入ってなくて、しかも、精神的なストレスがかかってないからというのが、おそらくその理由だと思います。
 いろいろ食べ物には味があって、うまい、まずいがある。その味そのものが、何か我々と食べられる側とのつながりを象徴するものなのかなと思います。そういえば、鹿にもやっぱり好き嫌いがありますよ。カモシカはウドが好きです。ウドがあるなと思って採りに行くと、カモシカに一番いいところを食われていたりとか。連中もいろいろ考えて、仕方なくまずいものを食っているときもあれば、いいものを食っているときもありますね。味のえり好みが巡り巡っている。

美味そうかどうかは見た目でわかる

鹿やイノシシなどのケモノをはじめ、サバイバル登山中に殺して食べるカエルなんかも、かわいい。――本当にかわいいと思うし、殺すときは本当にかわいそうだなと思う。でも、一番最初に言ったように、生きるということは、物体のやりとりであって、一対一だとかわいそうだけど、三歩退いたら、もう、そういうシステムなんだというふうに自分に言い聞かせている。言い聞かせていることが今の僕の限界です。それを考えないでできるようになることが、いいのか悪いのかというのもわからないし。
 かわいいと美味しいというのは、繋がっていると思います。食べちゃいたいほど好きという表現は普通に使いますよね。赤ちゃんを見ていても「ウワ~、これ食べちゃいたい」と思う。きれいな女の子、アイドルでもいいんですけど、モテる人たちはやっぱり健康的なんだと思います。肌がきれいというのは、その人が健康で、内臓がきれいで、おそらく繁殖能力も高いことを示している。体のバランスがいい、スタイルがいいというのも同じだと思います。
獲物も全部そうです。うまそうなのは、見た感じから美しい。仕留めれば、当たりか外れかというのは、すぐわかります。見た目の予想が外れることはほとんどない。「これはハズレだな」というのが、実はうまかったねということがほとんどないです。「毛並み」という言葉が性質や育ちを表すことに使われたりしますが表面に出るんですね、残念ながら。やっぱり若いひとは肌もツヤツヤきれいでおいしそうなんです。
 最近はないけど、5シーズン目とか4シーズン目ぐらいに、毛並みに関してちょっと考えていたときは、人間を見て、あ、こいつはおいしい、こいつはおいしくないと分析していましたね。こいつはあんまり脂のってないなとか、ちょっともうそろそろ終わってるなとか(笑)。

かわいいスィーツがおいしそうというのもそれの延長だと思います。健康的なものと融合したいというのは、間違いなくそのどこかにあると思うから、そういう無意識をもうちょっと意識したほうがいいのかもしれないですね。いわゆるファストフードの肉とかってやっぱりヤバイから。それこそ毛並みの悪いものからつくっているんじゃないかとか。100グラム58円とかで売っている鶏肉とかも、どうやって育っているかわからないんで、そういうことにもう少し敏感であったほうがいいと思う。
 だから、エロの話じゃないですけど、人間性に惚れるという以上に、自分の子孫を健康的に産んでくれて、健康的に育ててくれそうな、いい肉体かということが、第一の魅力だと思いますね。そして、その産んだ子どもを、その子が自立するまで安定的に育てられるかどうか。それはその人の能力とか、頭のよさももちろん含まれると思うんですけど、そういうものが、第二の魅力だと思います。大きくその2つが合わさってその人間の魅力をつくり出しているような……というか、僕が異性にひかれるときは、その2つをやっぱり知らないうちに意識しているんじゃないかなという感じがしますね。
 結局、食べることも、エロも、求めるという点では同じです。もちろん食べるということでは人間性みたいなものとか、その人の能力はあんまり求めないと思いますけどね。食べるということでは、肉体的なうまさとかよさを求めているんだと思うんですけど。食もエロも、健康的なものを求めるというのは間違いない。そこに魅力を感じるのは間違いないと思いますね。

言語の生まれる前からある、「食べる」ということについて

子どもの鹿はやっぱりうまいですよ。大人の鹿よりうまいんですよ、肉が。かわいそうというのは、僕も感じるんですけど――こんな残酷なことが世の中にあるんだなというぐらい感じますけどね。でも、うまい。うまいという思いが、勝つ。残酷さとか、自分への責めとか悔恨よりも、味が勝つ。食った瞬間に訪れる「うまい……」でもうすべてがオッケーになっちゃう。もううまいんだから、こっちのほうがいいやとなる。
 食というのは、残酷とか、感謝とか、犠牲とかそういう言葉とか思想とか哲学を超えたものなのではないかと感じています。繰り返しになりますが食という行為は、思想とかが誕生する前にあるものだから、分析が後に来て、分析のほうが重くなっちゃうということはあり得ないし、本末転倒で意味がない。生殖に関してもそうですよね。食べる、融合する、生殖するというのは、行為がほとんど存在と同じ意義になるから、後から来た文化とか何とか、礼儀とか、宗教とかは、後付けの分析で、やってもいいけど、それより「命の存在」の前に来ることはないですよね。たとえば何か頭でっかちになって、食べることとか融合することを自己規制するのはどうもちょっと不自然な感じがします。別に菜食主義者を否定するわけではないのですけど。
 菜食主義で思い出した。販売されている肉に関してちょっと言っておくと、同じレベルの肉をこれだけの量供給する世界や日本の畜産業はすごいとしか言いようがない。どれを食っても、豚を食ったら豚の味、牛食ったら牛肉の味がして、それにちゃんとランクがあって、値段をつけて、しかも、消費者の大多数が納得するぐらいちゃんとぴったり合っているというのは、それはどうやっているのか想像もできないぐらいすごいと思います。野生肉だとそれはできないですから。今日はオスの年寄りだ、仕方なく食おうとか、今日は子どもだから絶対うまいぞとかという状態を見ていると、同じランクのものを1年間ほぼ変えずに提供し、値段もほとんど一つの幅に入れ込むというのはすごいなと思います。どうやってるんですかね。

狼と鹿は最期の瞬間に会話する

実は、こっちに全く気がついてない鹿を、僕が撃てるようになったのはこの前のシーズンからなんです。こっちに気がついてないやつを撃つのはちょっと難しい。あれはタイミングというか、呼吸みたいなものがあると思うんですよ。こっちにも向こうにも。そのことを自分で意識してから、こっちに気づいてないやつを撃てるようになりました。それまでは何で撃てないんだろうと悩みました。結構近くてもあたらないんです。20mぐらいのところで、ヨシヨシ、こっちに全く気がついてないぞと思って、バーンと撃つんだけど、外しちゃう。銃声に驚いた鹿が、何? 今の音どこから? あ、俺狙われてんの? と気づいてから、もう一回撃つと当たるというのが多かったですね。というか、それしかなかった。
 狼に関する本を読んだときに、「狼は、獲物と最終的に対話するらしい」ということを知ったのが、撃てるようになったきっかけです。
狼の狩り方というのは、獲物をずっと追いかけるというものです。そして狩りの終盤には、獲物のほうが、今回はもうダメだ、逃げ切れないとあきらめて立ち止まったり、最期の抵抗をしたり……といったいろんな終わり方があるんでしょうけど、そんなとき、狼がトドメを指す直前の瞬間に、実は狙われるほうと狙うほうが見つめ合って、何かちょっとした「意思疎通」をしているんじゃないかという研究が、ある狼学者の本の中に書いてあったんです。
 ちょっと話は逸れますが、狼って、本来は「よけいな殺し」はしないんですね。なのに、現実には、何故か狼が家畜を突然皆殺しにしたり、村中の犬を全部殺しちゃったりという事件が存在している。しかも、そんなに珍しいことではなかったようです。野生の獲物を追うときは、1つ2つ殺して、自分たちが十分な肉を得たらそれ以上はやらないのに、食べるわけではない家畜を狂ったように殺しちゃったり、村中の犬を全部殺しちゃったりするのはなぜか。
それが、先ほどの最後の「意思疎通」の有無なのではないかというのが、その学者の方の仮説でした。もしかして家畜や犬は、狼と意思疎通する野生の言葉みたいなものを失ってしまっているのではないか。意志が通じない獲物(家畜)を前にした狼が、言葉が通じないことに混乱して、よけいな殺戮をしちゃうんじゃないかということですね。そして、それが僕は直感的に正しいような気がしたんです。
 僕の射撃と繋がっていると部分もそこにあります。自分の狩猟行為を考えたときに、確かに何か呼吸が合うと当たる、もしくは、当たる前に、あ、これは当たるというのがピーンと来ることがある。北海道で狩猟が上手な人が書いたものを読んでいると、わざと音をちょっと立てて向こうに気づかせてやるとかいていある。ちょっと足元の枝を踏んでみて音立ててやって、向こうがパッと気づいた瞬間に撃つみたいな。その知識と、経験と、狼の話と、考えているうちにいろいろなことが結びついて、おそらく狩る側と狩られる側にも呼吸というものがあるということが分かった。それを強く意識することで、こっちに気づいてない鹿を撃てるようになったんです。撃つ前に、こっちに気づいてない鹿だから、呼吸が合わないぞということを確認してやると、当たる。本当にその意識で、実際に撃てるようになったので、僕の中では確信に近いですね。

文明と自然を対比するのには限界がある

我々は、現代社会というか、都市文明というか、自然とは全く違う環境をつくり出して、その中でほとんどの生活をするようになっちゃった。だから自然と今の文明的な生活を対比せざるを得ないところもあるんでしょうけど、その対比がそのまま限界になっている気がする。宮崎駿の作品も面白いんだけど、人間対自然という対比が「もののけ姫」みたいになっちゃうと、人間という生物の限界がそこに来てしまうような気がするんですね。
 何で突然そんなことを言い始めたかというと、子どもと狩猟に行ってから、自然と子どもの教育について考える必要性を感じたからです。上の子が小学校5年生のときに、初めて狩猟に一緒に連れて行ったことがありました。何も獲れなかったんですけど、結構バンバン撃つチャンスはあって、息子も鹿が走っていって、それを僕が狙って撃つところとか見たりとかはできて……。
それは、麓から4時間か5時間ぐらいの山奥の中だったんですが、焚き火の前で一緒で飯食って、ボーッとしてるときに、俺がここで突然心臓マヒでウッて死んだら、この目の前にいる息子はちゃんと家に帰れるのかな、とふと考えたんですよね、上の子はちょっと甘えん坊的なところがあって、もしかしたら、死体になった俺の横で、しゃがんだまま何もできなくて、そのまま死んじゃうんじゃないか、冷たくなっちゃうんじゃないかみたいなイメージがわいてきて、それは僕にとってはすごい残念なことだと思ったんですよ。そうではなく、父親が突然死んでも、それはそれとして認めて、立ち上がって、山里に自分の力だけで下りて行けるような人間になってほしいと、そのとき結構強く思ったわけです。
 それには一体どうすればいいのだろう。どうすれば息子が強い意志を持てるんだろうみたいなことを考えたときに、結局、今やっているような、狩猟に連れていって、焚き火をして、飯を食うという、こういうことを一つひとつ重ねていって、いつか生きることは何かということを自分で考えるようになってもらうしかないのかなという結論に達しました。
 もし、今回の話の核である、生命体ということ自体がもしエロスなんだとしたら、自然の中での教育というものが何か力を持つ可能性があるのかなと思います。自分の生活圏じゃないところとは何なのか。自然界というところが自分の生活圏じゃないところになってしまったということは一体どういうことなのか。

我が家は横浜の郊外にあって、自然には相当恵まれています。樹に囲まれていて、セミの声が近いし、バッタを庭でつかまえたりなんか普通のことで、階下の虫入れにもカブトムシがうじゃうじゃいる。そういうことが家で充分できるのに、それでも子どもたちを山に連れていくと、「ものすごく面白い」と興奮する。はたから見れば「家の庭にテント張って寝ても同じだろ」と思うんですけど、子供にはとっては違うみたいです。人間がいじくってない自然というフィールドに何か力があるのかもしれないし、そういう力が自然界のフィールドにあるのだとしたら、それを否定するような感じで我々が都市文明の中にいて安穏としているのは一体どういうことなんだろう。どちらにせよ登山という行為にはなにか力があるのかもしれないと、あらためて感じています。

誤解を恐れずに言うと、天災で死んじゃうのとかも、地球の生命体としては、本当は正しい死に方かも知れない。災害で死んじゃうことに対して、残った遺族の方々が、こういう思いをする人が二度と出てこないように、って言いますけど、僕はそういう言葉を聞くたびに、同情すると同時に、「それは違う」って思います。それは地球の循環の中での出来事であり、もうしようがないというか、そういうことを生命の内側に取り込んで生きていく、もしくはすでに取り込まれているのではないか。じゃ、おまえの息子が水に溺れて死んでもいいのかと言われると、すごく複雑ですけど、最終的には、身内とか自分の子どもとかが死ぬ、自分がその死を体験することを覚悟してないと命と一緒には暮らせない。命というのはそういうものでしょう。

最初に「登山とは何か」でも言ったけど、死なないという前提では何もできない。というより、死なないという前提では「生きてない」。生きるということは、いつか死ぬということと同じことなんで、そこを否定して、絶対死なないように気をつけて、全員大往生で、ベッドの上もしくは畳の上で、90歳になったら死にますというのでは、世の中がうまく回らないし、おそらくとんでもないことになっちゃう。実際、とんでもないことになりつつあるんじゃないですか。かといって、「おまえ、今死ね」と言われてもきついのだけど、少なくとも僕はそういうことを考えながら、ぼちぼち山に入っている。
 僕も近い将来死ぬかなぁみたいなのを考えるようになったのは、登山を本格的に始めてからですね。みんなも近い将来死ぬかなぁと思いながら生きているほうが面白いというか、僕が本質だと思うことに近づける気がします。でも、生き物は防衛規制で近未来に死なないと考えるようにできているので、死を意識するのはなかなか難しい。みんな本気で登山をしたらいいかもしれないです。
 人間は科学を手にして力を持ちましたよね。自分は近い将来死なないと簡単に、平気で誤解できる。死なないのが当たり前で、さらには自然に死ぬということまで理不尽だと考えちゃうという感覚は僕には理解できない。何でその誤解が生まれちゃったのか。人間が力を持ったからですよね。実際、力を持っているんだから、そう考えるのは誤解じゃないと言うひとがいるかもしれない。でも、限界があるし、おそらくうまくいかないだろうなと、僕は思う。だって人間は自然の生命体であることから逃れることはできませんから。