タイトル
映画と原作をめぐる恋愛関係
著者 / 話者

我々が見ている映像というものがおしなべて「知覚したものを自分なりに解釈した主観的な産物」だとするなら、同じものを見ていても、脳を通して解釈を経た映像はそれぞれ違うはずで、そうであるなら映像とは共同幻想でしかない。

ある映画監督が例えば小説を読んでそれを映画化する時、それはその映画監督の主観的な解釈を映像で具現化した産物だと言える。むしろその解釈の豊かさこそが映画の完成度を左右する。では、原作と映画にはどのような相関関係があり得るだろう。どのような解釈のメソッドがどのような映像表現を立ち上げるのだろうか。

音楽家・文筆家である菊地成孔氏に、原作と映画の恋愛関係をひもといてもらった。

類型1 原作忠実型

なるべくそのままやってみました型

  • 『風と共に去りぬ』(1939)
  • 『砂の器』(1974)

いくら原作に忠実につくろうとしても、どうしても違和感が出てしまう例が多いですよね。まず、人それぞれ読む時間も一定ではない紙メディアに対して、有限時間である映像メディアに閉じ込めるといったことは、原理的に、本来相当無茶なことです。その上、「その通りにやります」となれば、逆に原作との粗が目立ってしまうでしょう。上手く映画化されること自体がはるかに奇跡的なことです。例えば『風と共に去りぬ』なんかは、キャスティングも理想的で原作のマーガレット・ミッチェルも大喜びでした。っていうか、原作者がキャスティングを設定し始めている時代でしたんで、そこの歯車が噛み合うと嬉しいですよね。原作と映画のマリアージュがうまくいった珍しい例です。松本清張の『砂の器』とかね。ただこれ、原作者と読者、監督や制作者、そして映画の観客、と、関係者全員が喜んでいるので、最高の結末に見えますけど、事例自体が最高な幸福を意味しているかどうかは別です。単なる多数決に過ぎない。もしこれを原理的に最高としたら、他のタイプは減点法に成ります。

類型2 脱構築型

原作あったんだ? 型

  • 『軽蔑』(1963)
  • 『メイド・イン・USA』(1967)

原作なんかないだろうと思われているジャン=リュック・ゴダールの作品も意外と原作を持っていて。換骨奪胎という言葉がありますけど、原作はどこにいっちゃったの? というくらい、バラバラにして脱構築するわけですね。どうして原作を欲しがったのか。例えば『軽蔑』もモラヴィアの有名な小説ですし、前衛過ぎて原作の存在などかえりみられない『メイド・イン・USA』なんかも実は原作があるんですよね。要するに映画化権という権利に対価を支払って、かつ上記第一例的な見返りを拒否している訳ですね。第一例が原理的な最大幸福でない事の傍証とも言えます。いずれにせよ、ゴダールほどの極例でなくとも、原作を換骨奪胎する。というのは、右翼に対する左翼程度には拮抗した勢力に成っています。基本的にこの2例を両極に、以下変形に留まります。一番重要なのは対価とその回収なんですが、今回はパターンを一覧するだけだそうなので、そこは追求しません。でも、その視点(対価と回収)で見るといろいろ解ってきます。ヒッチコックみたいに、必ず原作を使って、時には原作者に脚本書かせて、時には原作者と話し合って、原作とちょっと変えたりといった豊かな営みが無限に生み出されます。対価に対する豊かさですこれは。対価の時代の豊かさとも言えます。

類型3 結末改変型

結末だけ変えちゃった型

  • 『ロング・グッドバイ』(1973)
  • 『座頭市』(2003)
  • 『椿三十郎』(2007)

おおむね原作どおりにやっているんだけど、オチだけ違うというような、原作への抵抗と言うか、奇をてらっただけと退けられるか、見事な批評精神と美意識と言われるか、賭けの側面が大きいですね。すごくうまくいった例だと、ロバート・アルトマンという監督が、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を映画化した際、ずっとストーリーをなぞっていたけれど、エンディングだけは大きく違っているというものでした。未だに賛否両論とともに崇拝されている名作です(焚き付けたのは女性脚本家で、この人は「本家」の脚本もやっていた人なんですが)。一方、北野武監督の『座頭市』みたいに(実は目が見えていたという)驚天動地のオチがあって、まだちゃんとした評価は出ていないというか、滑ったのか当たったのか、当たり滑りなのか、滑り当たりなのか、博打としての配当がぜんぜん解らない。北野監督の映画は、総て盲滅法の博打でありながら、総て配当が解らないという、物凄いメディアですね。森田芳光さんが撮った『椿三十郎』のリメイクも黒澤明版だと数秒で済んでしまう有名な決闘のシーンを延々とやるという。これもアンチデプスが痛いような、これしかやりようがないような、ラストまではかなり忠実な写しになっていて、ここだけ別次元に飛ぶような映画でした。シンプルな構造ですが、深みのある処理法だと思います。「導入だけ違う(後は忠実)」というのがネクストだと思うんですが、難しそうですし、面白そうですよね。

類型4 原作希求型

原作がほしかったんだろうな型

  • 『スター・ウォーズ』(1977~)
  • 『パイレーツ・オブ・カリビアン』(2003~)
  • 『E.T.』(1982)
  • 『EUREKA』(2001)

『スター・ウォーズ』って原作がないんですけど、原作が欲しかったんだろうなと。まあ、『デューン』(有名なSF伝記小説)が欲しかったんですよね。お金がなくて原作を買えなかったもので、オリジナルに挑戦する羽目になり、シリーズに一貫して、あたかも原作小説があるかのような感じがする。『パイレーツ・オブ・カリビアン』も、ディズニーのただのアトラクションである「カリブの海賊」を膨らませたわけですが、特に初期の3作目まではすごく優れていると思うんですけど、いかにも優れたファンタジー小説が原作にありましてといったような顔つきですよね。フロイドでは「補償」って言って、手が無い人が、足でキーパンチしたりとか、ああいう能力の心理版ですが、強い補償作用が働いて大成功という例でしょう。「スターウォーズ」の良い孫が「パイレーツ」だとも言えます。

あと「ノヴェライズ」がありますよね。逆コース。『E.T.』にしても、青山真治監督の『EUREKA』にしても、「原作」が欲しかったフォルダに入れて良いと思います。映画には原作があってナンボだということを一つの風格だと考えているような、これも原作と映画を巡るいろんな関係から生まれてきた豊潤な例ですよね。これには監督(脚本家)が書く場合と、ノヴェライゼーション職人みたいな人が書く場合がありますよね。後者の仕事をカラオケ作る人位に思ってると足下掬われるとか、昔は言われてましたけど、最近はほとんど見ないんで、足下掬われようも無い感じですが。ワタシは全然知りませんが、アニメとラノベとかで頻繁な例のような気もしますね。

類型5 国境超越型

国境を越えちゃった型

  • 『天国と地獄』(1963)
  • 『蜘蛛素城』(1957)
  • 『荒野の7人』(1960)
  • 『神の子どもたちはみな踊る』(2008)

黒澤明の『天国と地獄』は、『キングの報酬』というアメリカの小説を日本を舞台に翻案したんですよね。シカゴかどこかの話を東京~横浜に移していて、まずそこに基盤の置き換えがあるんで、逆にストーリーラインはきれいに押さえられたと言うか、すごい忠実にやっている。黒澤明には同傾向として、シェイクスピアの『マクベス』を原作にした『蜘蛛素城』などがありますが、同じ効果ですよね。なので逆に、黒澤作品でも、時代劇の『7人の侍』を西部劇にした『荒野の7人』も有名ですし、村上春樹さんの小説作品は、例えば『神の子どもたちはみな踊る』は日本からアメリカに舞台に移しています。そういう様々なインターナショナリズムがあります。最近、日本のマンガや特撮を、『ゴジラ』だ、『鉄腕アトム』だと言わず、ハリウッドに輸出する例は多いですけど、迫力に欠けますよね。地球が狭くなった結果ですが、そんな時代において村上春樹作品というのは古典的な集合無意識というか、どの国の話にも成っちゃう力というのが凄いですね。

類型6 翻案型

映画を映画で翻案してみた型

  • 『ディーバ』(1981)→『FRIED DRAGON FISH』(1993)
  • 『イヴの総て』(1950)→『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999)

そうと謳っていないけれど、明らかにある映画と映画をマッシュアップしているというような例も映画史には連綿とあって、それらは原作の映画化権を買った、それに対する見返りという制限から自由であるがゆえに、成功している作品が多い。完全な「翻案」ですよね。著作権なんて最近の概念だけど、我々はもう飼い馴らされていて、本来、生み出されたものは、すべて次の時代の素材になるはずですからね。

ただ、これは大変な技術とイマジネーションが必要で、映画化権も買ってないのに、買ったがごとくそのまま制作すると単純に訴訟されます(「ライオンキング」みたいな)。その点、岩井俊二監督の『FRIED DRAGON FISH』というテレビドラマは、『ディーバ』という映画の完全な翻案で、一回でき上がった映画を愛して愛して、喰い切って喰い切って、それでばらばらに壊して、再構築したような形にしてつくって、しかも物凄くよくできている。登場人物をシャッフルしていたり、非常に手が込んでいます。「ディーバ」との相関図を作ったら、映画学校の教材に成ると思う。リスペクトとか換骨奪胎とかではない、映画自体を素材に還元してしまって再構築する。

ゴダールもこれがやりたかった訳ですが、時代と資本主義に負けて、或は、換骨奪胎している事を明示するために、一回映画化権を買っています。しかし岩井俊二やアルモドヴァルは買ってない。特に前者の翻案能力は物凄い。パロディや替え歌、ヒップホップや動画サイトといった、連綿とした流れの上にある文化のありかたですが、単なる小規模の剽窃とかではなく、がばっと一本取り込んで素材にし、別の映画にしてしまう。著作権法には絶対に触れないけれども、明らかに翻案な訳です。権利とか共有とかフリーとかいった、現代的な社会性も孕んだ、いま可能性のある領域だと思います。