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集合知とデザインしていく方法

集合知と、社会をリデザインしていく

NOSIGNER 太刀川英輔

横浜に居を置くソーシャルイノベーション・デザインファーム、NOSIGNER。プロダクト、グラフィック、空間デザイン、プロジェクトモデレイションなど、手段やツールは限定せずに、社会をよりよくするプロジェクトに特化する集団。創業者の太刀川英輔氏にその独特なデザインプロジェクトの進め方を訊く。

NOSIGNERの仕事は、社会にすでにあるリソースの関係をつなぎ直す、つなぎかえることで、社会に価値を生むという仕事が多いです。たとえば、社会起業家と一緒に仕事をしてモノに落とし込むことを手伝ったり、Mozilla Japanと一緒にオープンソース・オフィスを設計したり、今、状況がよくない伝統工芸を別の市場に紐づけて、そこに未来のマーケットが残るようにする、というような。

その一方で、完全にノンプロフィットの領域においても、意義を感じてやるべきだと思ったことは、積極的に行動しています。

たとえば震災復興のために起動した「OLIVE」というプロジェクトがあります。まず、3.11の震災の40時間後に、簡易モノヅクリを支援するWikiを立ち上げました。そこにたくさんの人が「ペットボトルから皿をつくる」というような身の回りのものを生活の基本用品にするアイデアを、一気に投稿してくれた。そうすると、その週の3月19日にはもう100以上のアイデアが集まっていて、Webページは3ヵ国語版に翻訳され、Wikiの内容をまとめたフリーペーパーも被災地にまかれ始めていきました。

厚生労働省が被災地で配っていった情報の中に取り入れられたり、朝日新聞に取り上げられたり、フリーペーパーが壁新聞的に避難所に貼られたりして、OLIVEの存在を何となく知ってくれる方がわっと増えて、その月の終わりには100万PVくらいになりました。推測ですが、トータルで500万人ぐらいにはリーチしたのではないかと思います。

デザインプロジェクトを集合知にドライブさせる「問いかけ」

OLIVEのようなデザインのプロジェクトに集合知を入れるにはコツがあります。

前提として、人は例えばどんなものが正しいとか、優れているといった事前情報、リテラシーが同じように得られたときには、大体同じように働くということがあります。なので、もしクオリティの高いデザインを作りたいのだとしたら、「クオリティが高い」という状態を定義したらいいんですね。

それで、参加する人たちが「これがクオリティが高いという状態で、これがクオリティが低いという状態である」ということを十分に理解したら、ある程度までは、できあがるもののクオリティは高くなります。問いかけ自身が求められているクオリティとは何であるかを含有している、ということがとても大事です。

OLIVEの場合は、投稿してくれる人たちに対してデザイン上、クオリティが高い必要はないって言ったんですよ。ただ、自分で試してちゃんと使えたものだけを投稿する、ということをまず、設定してこれがクオリティラインとして機能しています。

もうひとつコツを挙げるとすると、参加の方法を段階に分けることです。

アイデアを考えて文字だけで投稿する人もいていいし、文字だけで書いてあるわかりにくいアイデアにイラストだけ描く人がいてもいい。わかりにくい日本語を校正するだけの人がいてもいい。そういういくつかの参加の方法がある中で、有用な情報にアップデートしていきましょうっていうことが、OLIVEの場合、何となく約束事としてあったんですよ。

クオリティとオープンさって、すごく簡単に反比例するんですよね。オープンにすればするほど、クオリティは下がる。なぜかというと、クオリティは大体属人的なものだからです。特にプロフェッショナルはその人が持っているクオリティラインで戦っています。だとすると、高いクオリティで戦う部分っていうのは、その専門性に任せるべきなんですね。

例えばデザイナーはデザイン、構造家は構造の計算、エディターは編集という専門的な技能を持っている。ただ、その専門性を広い状態で囲うのではなく、分解されたスキルセットとしてみることで、それぞれのスキルに対して個別にクオリティラインを決めることができる。そうすると、おまえはこれが得意だからこれだ、みたいな感じで、人に任せられるところが割と出てくる。

十分な制約から生成されるデザイン

デザインの語源は、デジナーレというラテン語です。英語にするとメイキング サインで、記号を作る、かたちを作る、という意味ですね。でも、日本には図と地や、余白みたいな考え方がありますよね。デザインだってかたちを作るぞっていって作ることもできる一方で、かたちができちゃった、このかたちにしかならなかったということがあります。特に、自然界はそういうかたちで満ちている。

そのかたちになる制約条件が十分に発見されていたから、そのかたちにしかならなかったっていうデザインを、僕はやっぱり普遍的だし美しいと思っていて、だからこそ喜んで制約を発見しにいきます。そして、制約の必然性を担保に、個人的な確信を超えて、その必然性にこそ核心があるっていう状態にまで問いを煮詰めたら、多分デザインとは勝手に浮かび上がっていくものなんだと、どこかで信じています。