タイトル
知性とはなにか? 人間と自然のこれからを粘菌に訊く
著者 / 話者

人間には知性がある。大気圏を出て月に降り立ち、遺伝子を操作してクローン生物をつくり出すほどの知性が。そして、この知性の存在、知性の深さこそが、人間と他の生物を隔てているのだと考える人は多い。一体、人間らしさの根幹とも思われる「知性」とは何なのだろうか?領域によっては人間を遥かに凌駕する情報処理能力をもつコンピューターの存在が大きくなることで、ますます重大な意味を持ち始めているこの問いに対して、「粘菌」という奇妙な単細胞生物が、驚くべきヒントを与えてくれている。

一点突破の全面展開

粘菌。その名前を日常生活で耳にすることはほとんどないので、なんとなく遠い存在のように思うかもしれませんが、実際にはちょっとした薮や都会の植え込みにも潜む身近な生物です。その性質はとても変わっていて、変形体と呼ばれるアメーバ状の栄養体が動物のように動き回って微生物などを摂食したかと思えば、植物のように動きを止め、環境が悪化すると子実体といわれるキノコのような姿に形を変えて、胞子によって子孫を残す。標準的な生物の区分「五界説」には納まりが悪い、シンプルでありながら謎深い単細胞生物です。
 数億年前からほとんど姿を変えることなく地球上に生息している粘菌は、その不思議な性質と姿形の美しさで、人を惹きつけてきました。明治期を代表する圧倒的鬼才、南方熊楠は日本における粘菌研究の第一人者ですし、スタジオジブリの宮崎駿監督もまた、代表作「風の谷のナウシカ」の原作漫画のなかで粘菌を物語の根本に関わる重要なキャラクターとして描いています。
私自身もこの粘菌に魅了された一人というわけですが、その最大の理由は、「粘菌には物質的な匂いがまだプンプンしている」ということです。森の木や石や実験室の寒天の上に広がった変形体は限りなくモノのような姿なのに、でもやっぱり生きていて、情報処理能力や問題解決能力をもっている。生き物と死んだもののちょうど境目のような存在だからこそ、その能力をニュートンの運動方程式のような物質世界の法則性で理解していける可能性があるわけですが、そこには研究を続けるごとに驚くような発見があり、どうにも惹かれるのです。
 単細胞生物のおもしろさは、なんといっても「単なる物質が集まることで“生きたシステム”に化ける」ということです。そして、私たち人間もまた根本的には単なる物質からできているということを考えると、粘菌に関する研究の先には、生物とは何か?人間とは何か?モノとココロの関係とは?といったとても深遠なテーマが広がっています。
少し古い表現に「一点突破の全面展開」という言葉がありますけども、「粘菌を覗き窓にして、生き物全体の普遍的なからくりがどうなっているのかを知る」こと。それが、私の目指していることなんです。

粘菌に潜む「原始的な知性」

2000年9月に、私たちは英国の科学雑誌「ネイチャー」で「アメーバ状生物である粘菌が迷路を最短ルートで解く能力がある」という趣旨の論文を発表しました。粘菌を迷路一杯に広げた状態で二つの出口それぞれに餌場をつくると、粘菌は次第に餌場へと集まっていき、半日ほど後には二つの餌場を繋ぐ最短経路だけに管を残して二つの餌場を繋いだという実験が、この発表のもとになっています。
「単細胞」という言葉を『広辞苑』で引けば、「考えの単純な人」という意味がでてくるように、脳も神経も持たない単細胞生物には高度な情報処理能力はないと思われてきました。しかし、私たちはこの実験を通じて粘菌に「原始的な知性(primitive intelligence)」と呼べるものがあることを示しました。どうやら英語圏の人達にとって日本語の「知性」にあたる言葉「intelligence」は、「神様が人間だけに与えたもの」という捉え方をされているため、この表現には少なからず反論もありましたが、私たちは、その後10年に渡ってこの「原始的な知性」が何なのかを研究してきました。
迷路を解く鍵となった複数の餌場を繋ぐ粘菌のネットワークは、驚くべきことに「①コスト:全長の長さ ②保険:断線に対する連結補償性 ③効率:連絡距離」というトレードオフの関係にある三つの性質を、バランス良く満たすものになっています。この性質を使って、都市の交通ネットワークを粘菌に構築させるという実験では、粘菌が人間のつくった実際の鉄道網を看破してくれることをちょっぴり期待していましたが、結果は驚くほど似通ったものになりました。単細胞生物である粘菌が出したネットワークの答えと、様々な事情や思惑が入り混じるなかで作られたであろう実際の鉄道網が似ているということには、考えさせられるものがあります。

粘菌カーナビゲーション

粘菌がネットワークを形成するアルゴリズムを解明し、それをカーナビゲーションシステムに応用するという試みも行っています。通常、現行のカーナビシステムで使われているダイクストラ法といわれる方式では、あらゆる可能性をしらみつぶしに検索し、最短のルートを探し出しますが、この粘菌によるアルゴリズムは、私たちが地図を見渡したときと同様に、「まず使わないだろう」という選択肢から次第に消滅していきます。「大雑把ではあるがすばやく答えを導ける」この特徴は極めて生物らしい解きかたです。もうひとつの特徴は、途中で事故が発生したような場合、その状況にすばやく適応して別のルートを出すことができる「動的最適化」という性質です。この適応性の高さもまた、生物的な知性の特徴ということができます。

粘菌の「記憶」

さらに驚いたのは、生物の知性といって真っ先に思い浮かぶ「記憶」や「学習」の能力についても、粘菌にその芽生えがあるということです。粘菌に対して一時間に一度の定期的な刺激を与えていくと、粘菌はやがて次にくる刺激を「予測」し、実際には刺激が与えられなかったタイミングで、動きを止めたのです。脳も神経ももたない単細胞生物になぜそんなことができるのか?私たちは、粘菌の運動の中にある振動が刺激を受けて振り子のように共振することによるものではないかという仮説から、物理的なアプローチによるモデル化を試みています。

粘菌の「ためらい」

そして、今私がもっとも興味を持って取り組んでいるのが、粘菌が「ためらい」ともとれる行動をみせるという事実です。細長いレーンの途中に、粘菌が嫌うキニーネという化学物質を微妙な濃度で置いたとき、このキニーネに近づいてきた粘菌は数時間もの間、その前で立ち止まったあと突然に動き出し、乗り越えるか、引き返すか、二つに分裂するかという異なった行動を取るのです。この振る舞いを見た私は、粘菌に「ハムレット」の姿を重ねてしまいました。行動を選択するまでの間フリーズする粘菌の姿は、まるで「To be or not to be , that is the question(生きるべきか死すべきか、それが問題だ)」という有名なセリフとともに逡巡するハムレットです。同じ条件下の実験で逡巡の結果が全く異なるという事実からは「個性」というものの存在も考えてみたくなりますが、私たちが「人間らしい」と思うようなこうした振る舞いや「知性」の芽生えともいえるものが何なのか、粘菌という生き物を通じてほんの少しずつ、そこに近づいている感覚があります。

自律分散型の問題解決へ

こうした粘菌の知性に関する研究を続けながら、フッと私たち人間のことを振り返ると、粘菌から学ぶべきではないかと思うようなことがあります。例えば、私たちはあまりにも「物事を中央司令的にコントロールしようとし過ぎているのではないか?」ということです。
粘菌は単細胞生物ですが、その細胞を小さく切り刻んでもそれぞれが一匹の個体としてちゃんと生きていける。そういう意味でどの部分も自律しています。そして、それぞれの部分が自分のところの流れだけに反応して、いわば身勝手に振舞っているにもかかわらず、それが全体として見事に機能して、例えば迷路を解いたり、優れたネットワークを築きあげたりするわけです。このような方法は、「自律分散方式」と呼ばれ、生物の問題解決方法の著しい特徴です。
 一方で人間はといえば、例えば、経済をコントロールしようとして金利を上げ下げしたり、税金を投入したりします。それは、1ヶ月とかそれぐらいのスパンでは多少影響が出るかもしれませんが、結局は殆どの場合コントロールできていないですよね。常に「何かをしなきゃいけない」というのは変な強迫観念で、ちょっと危ないと感じます。改善をしようとして制度に手をいれると、それまで気づいていなかった良かったものも一緒に壊れるので、結局落ち着くところは似たようなものだということになる。人間が作りだすシステムも粘菌と同じで、「残るべくして、残るものが、残る」。本質的にはそうそう変わらないからです。
大学入試に関しても、日本中で、何十万人という人が一斉に受けるセンター試験を、一秒のズレもなくやろうという流れがあります。世の風潮としては、自分という単位をピッと明確な線で切って、事細かに何かを公平にしようとか平等にしようという話になってきています。そういった議論はわかりやすくて通りがいいですが、でも、本当にそうすることが一番なのか?というと必ずしもそうじゃない。例えば15秒、1分の誤差は許しましょうということにすると、いろいろなことが楽になるわけです。完全にコントロールしようとするよりも、多少問題があっても平均点でよしとする。その方がずっと「生き物らしく」て「生き生き」してくる。「物事はコントロールしきれない」ということをあからさまに皆が知っていること。そのことがとても大事だと思います。

第一近似を粗く取る

人間が無意識にやっているようなことは、粘菌とある程度似ている面があります。例えば、粘菌が鉄道のネットワークのようなものをつくる時、最初はびっちりと全体に広がった後、要らないところが段々と落ちて行く。そうやって残るところが「何か良い形」なわけです。先ほども少し触れましたが、細部を一つ一つクッキリと抑えるのではなくて、全体の霧が晴れて行くように答えに向かうこのような解法は、「生物的な問題解決」の際立った特徴で、「大雑把ではあるがすばやく答えを導ける」ということと、突然起こった問題に対しても自在に適応する「動的最適化」ができるという利点があります。そしてこれは、人が物事を理解したり発想したり、誰かに伝える時にも、とても大事なことなんです。
 例えば、富士山の形がありますね。それを三角形で表したとしましょう。実際の富士山は直線ではないし、デコボコしているから三角形とは全然違う。だけど、大きい傾向としてはやっぱり上手く捉えている。人が物事を理解するときに最初にやるのは、こうやって小さいところには目をつぶって「第一近似を粗くとる」ということです。どんな世界でも、本当のプロやすごい人というのは、大枠ではこういう方向だという「大局観」をきちんと持っているので結局外さないのですが、それは「第一近似を粗くとる」ことに優れているからといえるかもしれません。
第一近似を粗くとることが大切なのは、人に対して自分の意見を伝える時にも言えます。細部をひとつずつ高い解像度で描写していってもなかなか伝わらないけれども、伝えようとしていることの全体像を、一度ザックリと見せることができると、ずっと伝わりやすくなります。反対に、人の話を聞く時にもこれは言えます。話をしていて、すぐに「それは違う」と言う人がいますが、それでは話が弾みません。長いこと人と話していれば、ちょっとくらい違うことは必ずある。でも、それを逐一指摘するよりも、「何かあなたが言おうとしていること、それには同調できます。」という風にした方が、話がずっと深まるのです。

学問の究極は人との共感

人間の「知性」ということで言えば、研究や学問はまさにその現れのひとつですけれども、学問の面白さというのは、究極的には「人と共感する」ところにあるのではないかと思っています。学問は世界中、そして時代を超えて普遍的で、例えば2000年前のアリストテレスがやっていたことと、今自分がしている研究はつながっています。だから、直接話すことはできなくても、「あぁ、アリストテレスはそういうことを考えようとしていたのか」と追体験できる瞬間があるんです。ひょっとすると、私が死んだ後1000年くらいして「あぁ、なるほど、この粘菌研究はこういうことを言いたかったのか」というように感じる人が出てくるかもしれません。そんな風に思うと、とても愉快ですよね。社会学にしても哲学にしても、どんな学問にも、どこかで何か全く違うところにいた人と共感できる瞬間があるものです。そういう時に「あぁ生きていて良かった」とか「一人じゃなかった」という感じがする。学問は、人間の孤独を癒す慰めだというような気がするのです。これは、「できる限りひとつに繋がっていよう」とする粘菌の姿にも少し重なることかもしれません。

中垣俊之

Toshiyuki nakagaki
1963年愛知県生まれ。北海道大学薬学研究科(修士)。製薬企業に勤めた後、退職。名古屋大学人間情報学研究科修了(学術博士)。理化学研究所に勤務していた2000年9月、「アメーバ状生物の粘菌が迷路の最短ルートを解く」という論文を「ネイチャー」に発表、話題を呼ぶ。北海道大学電子科学研究所准教授を経て、2010年4月より公立はこだて未来大学情報科学部教授。2008年イグ・ノーベル賞(認知科学賞)受賞。著書に『粘菌 その驚くべき知性』(PHPサイエンスワールド新書)

<図キャプション> 粘菌の生活環
出典:岩槻邦男『生物化学入門コース8 多様性の生物学』(岩波書店)
<図キャプション> 粘菌による北海道の交通ネットワーク
各街の場所に餌場を置いた北海道の模型に粘菌を移植すると、広がった粘菌が餌場同士を繋ぐ見事なネットワークを構築した。粘菌が嫌う光を地形に合わせて照射するマスクフィルムをつかうことで、地形情報も加味したネットワークとなっている。