タイトル
文明の骨
著者 / 話者

新しくないと、いけない。

ぼくたちは、いつから、そんな病にかかり始めたのだろうか。ファッションは新しくないといけない。パソコンの性能は最新でないといけない。いままで誰もやっていないアート作品を作らないと意味がない。科学論文にはノイエス(新発見)がないと価値がない。だから「新しい」もの探しに、日々追われる。そんな欲望で動いているのが、現代の生活だ。

しかし、果たしてそうなのだろうかと、ふと疑念がよぎる。私はいま、解剖学の研究室にいて、目の前に「骨」が置いてある。ヒトの骨だ。白くて乾いている。この骨は、かつて「誰か」だった。生きて、食べて、喜びや悩みも抱えていた人だったのだろう。しかし、いまは、その骨だけが残っている。その骨が、私には、妙に存在感があるように感じられ、しかも見ていて気持ちが落ち着く。

骨は、決して「新しい」ものではない。骨などというものは、昔からあちこちにあった。しかし、新しいファッションや、最新のパソコンや、先端のアートやたちにも駆逐されることのない、存在の強さがある。この骨の存在感は、100年経っても、1000年経っても、きっと変わらないだろう。

研究室で、北に面した窓から、午後の光が淡く差し込んで、骨を照らしている。私は先日買った、新しいiPadを同じ机に置いて、骨と並べてみた。

近く、森鴎外に関する展示をする。鴎外が、医学部の学生だったときのノートがあって、90ページほどの分量だ。その全ページの画像を、iPadにいれて展示をすることにした。展示会場でそれを見る者は、画面に触れてノートのページを進ませることができる。iPadは、現代のノートでもある。それを明治時代の医学生のノートと重ねて見る。そんなデータが入ったiPadだ。

机の上に、ヒトの骨とiPadがある。

「百年後、この骨とiPadは、それぞれどう見えるのだろうか?」と思った。骨の価値や意味は、変わらない。「新しいもの」を求める人間には、骨はとくにパッとした存在感もない。しかし骨は骨である。リアルな実物である。いろんな思いや感触を、ヒトは骨から得るに違いない。いっぽうのiPadは? もうそこに「新しさ」を感じる人は誰もいない。新しいものは、次の新しいものによって、古くなってしまう。

新しいものと、変わらないもの。もちろん、どちらも大切だ。芭蕉は、それを不易流行と言った。

私は、解剖学とともに、美術を専門とする。美術には、二つのやり方がある、と考えている。具体的にいえば、絵画や彫刻などの「芸術」と、もう一つは「デザイン」というようなものだ。

デザインの使命は、即座に人の心をつかむ、ことにある。たとえば駅に貼ってあるポスター。それを見た人の心を、3秒でとらえないといけない。この作品の価値は、何年か後に、きっと理解される、などという広告は、その役目を果たしていない。

いっぽう、芸術は、即座に理解されることが、必ずしも必要とはされない。それより大切なのは、変わらない価値、のほうだ。たとえばピカソの絵を見ると、これを千年後にもう一度見てみたい、と思うことがある。きっと、変わらない風格と崇高さがあるだろうなと思う。芸術は、すぐに理解されなくてもいい。受け入れられなくてもいい。

おそらく、「芸術」に出会ったとき、そこにあるのは「真空」の感じだ。それを、どう受け入れていいのか分からない。いきなりの感動もない。しかし二度、三度と見るうちにじわじわと心をわし掴みにされ、もう離れることもない。すぐれた芸術には、そんな感触がある。

私たちが「芸術」から学ぶのは、そういうことだ。「新しい」ものだけが全てではない。普遍的なものや、歴史に根ざしていないものに、長い命はない。現代的なものは、現代では華やかではあるが、それが「現代」が終わるとともに、終わってしまう。

3秒で華やかさがやってくるデザインと、100年経っても変わらない芸術と、たとえばクリエーターは、どちらに自分の人生を賭けるか。もちろん個人の価値観は自由だし、人生の成り行きというものもある。ともあれ、表現には、どうやら、そういう二つのタイプがある。

ここで話は、骨に戻る。骨を見ていると、なぜ落ち着くのか。「それは、あなたが変わっているからだ」と、私自身が批判されるかもしれない。骨が好きだなんて、変な趣味だ、と。しかし忘れてはならないのは、あなたの体の、その真ん中にも骨はある、ということだ。骨は、汚いものでも、忌まわしいものでもない。まず、あなた自身なのだ。

その骨は、3万年、ほとんど変わっていない。発掘された骨と、現代人の骨を比べても、ほとんど違いはない。骨が同じであるということは、たとえば頭蓋骨の中にある、脳の形や大きさも同じ、ということだ。骨と筋肉と神経がつくる手の動きも、顔の表情も、何万年も変わっていない。目が合って、にこっと笑う。3万年前のクロマニョン人も、きっとそんな表情をして、他の人と心の交流をしていたはずだ。

骨を見ていると、そういう「変わらない」という感覚にリアルに包まれる。芸術というものには、その感覚に触れる何かがある。

新しくないと、いけない。

たしかに、その通りである。しかし世界には、もう一つ、「変わらない」という何かがある。机の上に置いた骨は、そのことを教えてくれる。