タイトル
ことばからこぼれ落ちちゃうもの(をことばにすること)
著者 / 話者

作家 島田雅彦と語る
非言語ゾーン

ことばから
こぼれ落ちちゃうもの
(をことばにすること)

聴き手
『広告』編集長|市耒健太郎

非言語、超言語、脱言語、無言語、反言語。

本号のテーマは、
「非言語ゾーン|言葉にならない感動が世界をつくっている」である。

このテーマを編集部内で
討論すればするほど、
「言葉にならない領域を、
言葉で探している」という
あけすけな矛盾が襲いかかる。
まるでゲーデル不完全性定理の
「私は嘘つきです」のように、
「非言語ゾーンの魅力とは、
そもそも、これこれ」と
言語化されてしまうこと自体、
どうもおかしくなってしまう。

ならばいっそのこと、言葉から逃げずに、「言葉の大家」に企画自体を
お話させていただき、
きたんないご意見を頂いてみては
どうかと考えた。

お呼びしたのは、文学界の奇才かつ
天才、島田雅彦
小説から美術、食、エロス、そして
大学でサブカル論の教壇に立つなど、
知の領域を縦横無尽に
駆け巡ってきた島田氏を、
博報堂赤坂本社『広告』編集部
お招きし、本号企画のスライドを
見ながら、お話をいただいた。

島田雅彦『広告』編集室入室
2013年10月31日午後5時

『広告』編集部(以下、編集部)│今日はお忙しいところをありがとうございます。突然ですが、もう「広告」っていう時代じゃないと僕たちは考えています。広告って広告代理店と呼ばれている会社やテレビ局が、大手メーカーをスポンサーに、マスと呼ばれるひとびとに一気になにかを伝えるというモデルだったんですが、それってすでに時代の構造から二、三歩おくれていると思っていて。この雑誌は一九四八年から続いているのですが、『広告』という誌名に「恋する芸術と科学」という再解釈をつけて、ちょっとした業界の概念の解体作業をしているところです。
そんな中、今号は「非言語ゾーン」をテーマに、いろいろ考察を加えています。その背景には、「メール」や「LINE」や「SNS」や「検索」やら、最近は「ビッグデータ」なんて言葉もあり、「ことば」や「記号」による世界の体系付けが過度に進んでいるなあというのがあって。本当にこのようなシステマティックな整理が「世界のみずみずしさ」を全部つかんでいるだろうかという疑問が大きくあります。
たとえば、ひとが恋に落ちる瞬間の心の動きって、本当に言葉にできるのだろうか。あるいは、その夏にはじめて裸足で川に入ったときの、あのみずみずしさ。聞いたことのない美しい音楽の旋律に、脳を巻き込まれたときの心のしびれ。簡単に、他人が「いいね!」とか「リツイート」できないようなレイヤーの事象が、僕らの生活にあふれていることを再確認したい。むしろ、そういうことこそが、世界を魅力的なものにしているのではないか。その辺りを、島田雅彦さんにお伺いしてみたいんです。

島田雅彦(以下、島田。敬称略)│迷っていらっしゃるんですね(笑)。
ゲーテが言うには、人間というのは、生きている限り迷うものだそうです。
編集部│島田さんは、迷っていらっしゃらないんですか。
島田│もちろん、迷っています。迷っていなきゃおもしろくないというか、迷わなくなったら、死ぬときなんで。
さっきの言葉のラベルの話しは面白いですね。たとえば、最近「リベンジポルノ」とかいう言葉が走り出していますけれども、関連では「ストーカー」という言葉が二十五年くらい前から定着しています。社会では「名前」が与えられると、その言葉のほうに「現象がすり寄っていく」感じがあります。実際には、ストーカーという言葉がない頃から、ストーカーみたいな輩はたくさんいたわけです。でも、何か錯覚が起きますよね。ストーカーという言葉がつくられて、それが一般に流布してから、ストーカー人口が一気に増えたみたいな。「セクハラ」もそうです。言葉があたえられたことで、その行為を確信を持って行ったり、被害を訴えたりしやすくなった。この明確な定義がなされる前は、それらの行動を曖昧に、あるいは無自覚にやったり、「いいじゃないか、減るもんじゃなし」で済んでいたところもあったのでしょうが、名前がつくことで「商品化」されたので、非難しやすくなりましたね。
編集部│言葉が現象を引っ張るって面白い。「チョイ悪」とか「なになに系」とか、日本人ってラベリングが好きですよね。
島田│社会学者や心理学者や編集者が風俗批評を始めると、そうなりますね。店や人の名前もキャラ起てを意識すると、「ラーメン二郎」や「Candle JUNE」(キャンドル・ジュン)となりますね(笑)。森の石松みたいですね。ところで、キャンドル・ジュンの店というのが代々木上原にあってね。知らなかったんですけどね、ここ、なんだか気味悪いなあと思って勇気を出してのぞいてみたら、ジュンさんがじかにロウソクを売っててね。1日に客三人ぐらいしか来ないだろうっていう感じで。ロウソクって、ふだんあんまり使わないですよね。僕は一時ロウソクをよく使っていたんですけど。
編集部│ロウソクを…… 何にですか?
島田│竹を曲げるときに使ってたんです。
編集部│竹を曲げる?
島田│実は、竹細工が趣味なんです。
一時期ハマっててね。
編集部│なにを一体おつくりになっていたんですか。
島田│茶杓です。一年に何本もつくって、わりと出来のいいのを人にあげたりすると、すごく喜んでいただける。僕は一切、お茶はしないんですが(笑)。何年か前に、クリスティーズで、利休が削った茶杓というのがオークションに出ていて、最終落札価格は、六百万円ですよ。あんなの、竹を、さっと曲げただけなのに。六百万もしてたのはびっくりしましたけどね。数グラムの竹のへらがですよ。
で、あれはずっと洗わないんですよね。ご存じでした?
編集部│あ、そうなんですか。
島田│水洗いとか絶対しない。拭くだけ。だから、これって、もう病的ですね。これ「五百年洗ってないですよ」っていう。そこだけに思いを馳せると、とてつもなく偉大な小汚さというか、得も知れぬ存在感がありますよね。まあ、門外漢からすると、汚いだけかも知れないですが。
で、実際削ってみると、生えている竹の段階から、もう竹の見方が変わっちゃうわけですよ。どんな竹を見ても、その瞬間から、「これは茶杓向きか、どうか」というふうに見るようになってしまう。だから、もう竹林を歩くと、疲れちゃいますよね、茶杓判定ばかりで。茶杓って、ちょうど竹の節のところをはさんでつくるんです。蟻腰と言って、節のところがちょっと盛り上がるんですね。そこばかり見ちゃう。
編集部│自然の湾曲を利用する。
島田│ええ。だから、いい茶杓をつくろうと思ったら、そこの形のいい部分しか使えない。一本の竹を採っても一個しかできない。だから茶杓が一番面白い。他にも竹の風鈴とか、パンフルートとか、徳利とかね、いろいろ作ってみましたけど、あんまり面白くない。すぐできちゃうから。
すみません……こんな話でいいのかな(笑)?
編集部│いえいえ、偉大なる脱線ということで。そのような話が、本当は一番面白いので。茶杓というそのかたちと素材のシンプルな関係に魅き込まれてしまうという感じはよく分かります。非言語のまさに端的な例だとも思います。実際に、その利休の茶杓はごらんになったんですか、写真か何かで。
島田│写真では見ました。
編集部│やっぱりさすがという感じですか。
島田│いいかたちですよ。茶杓って、基本、どのようにつくってもいいんですけど、後世の人間は、やっぱり千利休のかたちを踏襲しちゃっている。だから、茶杓の形は五百年間そんなに変わってないんです。ちょっとアーティストを気取りたいタイプが、大きめのやつとか、変な曲がり方をしているやつとか、いろいろ工夫をして違う形のものも削ったりしているんですけど、やっぱり利休が削った茶杓が結局勝ち残って、オーソドックスになった。結局、利休が原点というか、定型みたいなものになっているような気がします。
茶杓って、ひとつずつ、銘をつけるんですよ。やはり竹で作った共筒に銘を入れて、完成するわけです。最近、私がつくったのは、お茶をいっぱい入れられるように、すくう部分をすごく大きくしたもので、その銘を「スコップ」としたんです。
編集部│(笑)それを、どなたかにさしあげたんですか。
島田│クリスティーズに勤めている方に差し上げました。出品はされていないでしょうけど、お茶会では使ってくださっているそうです。
編集部│無理やり非言語ゾーンに結びつけたくもないんですけど、僕らの人生の長さを超えた圧倒的な時間の流れや歴史を超えて選ばれたものには、否応がない非言語的なふくらみを感じますよね。たとえば僕(市耒)は日暮里の寺町に住んでいるんですけど。
島田│オー、素敵なところに。
編集部│日暮里には中学のときからいるのですが、そのときからでさえ基本的な景色が一切変わらないんですね。建築規制で高層が建てられないですし、昔からお寺ばかりで土地の流動性が圧倒的に少ない。谷中霊園なんかにいると、これって江戸時代から変わらないんじゃないかって思うような景色が一面に広がっています。そんな景色の中で、一日ごとに変わりゆくテクノロジーや広告媒体を相手に仕事をしていると、一体、なにやってんだろう、僕?、みたいな感じにはなりますよね。過ぎ行く日常と、まったく変わらないものの狭間にいるのは、なんていうか、得も言われぬしあわせな浮遊感があったりして。
それで、そのエリアには、お寺が一〇〇くらい集まっているんですね。お寺さんって一般的には世襲じゃないですか。税金も優遇されているし、安定的に檀家さんがいらっしゃって、都市設計的にも景観を守るのにも、ものすごく貢献している。みんなの愛する変わらない伝統。でもその一方で、プライベートの住職さんが、イタリアンレストランで酔っぱらっていらっしゃったり、自販機でタスポが使えないと怒っていたり、それこそハーレー・ダヴィッドソンにまたがっているお坊さんもいたり。お寺って、冠婚葬祭以外の日常で普通に接触していると、なんだかちょっとコミカルな様相も呈していると感じられます。まあ、ルックスで職業が分かっちゃうっていうのも可哀想なんですけど。
土地柄、お寺の跡取りの同級生とかが多かったのですが、昔はその「世襲」っていうのも自分で将来を選べずになかなか可哀想だなあって思っていました。でも、今はちょっとうらやましい部分がある。「守る部分を、軸にできる」ということが。
島田│「型」があるというのは素晴らしいことです。型があるからこそ、それを崩したり、破ったりもできるわけで。最近亡くなられた中村勘三郎さんは、踊りもすごくうまかった。いわゆる型どおりにやっても、ちゃんとすごいし、他分野とコラボレーションして、ちょっと型破りで創作的な歌舞伎もやってみたりということを結構自在にやっていた人ですよね。型があると、そこにはめられるのはなかなかきついし、退屈だけれども、それを押さえておくと、いつでも逸脱できるという自由があるようですね。違う言い方で言うと、守る部分があるから、自由にもなれる。
狂言師でも歌舞伎でも、なかなか「破天荒なご子息」が多いのは、ある意味、当然だと思います。でも、よくわかっている親だったら、わりと若いうちから遊ばせると思うんです。ある程度年とってから遊びを覚えちゃうと抜けられなくなるから、若いうちにそういう逸脱を散々させて、逸脱自体に飽きさせておくという教育方針がありますね、伝統的に。それこそ、保守というもののスタンスでしょう。
保守というのは、基本、前例を踏襲して、その伝統をずっと維持するスタンスです。だから、自分たちの本質は変わらないんですね。でも、ずっと変わらないではいられない。だからこそ、革命とかが起きないように、マイナーチェンジを繰り返していないといけないんです。そうしないと保守は維持できない。
自民党なんかで、小泉元首相もそうだったけど、ちょっと主流ではない、いわゆる保守とは違う流れがときどき出てきます。それで、基本的には変わってないんだけれども、表面的には変わっている、変革しているように見えるという。まあ、こすいんですが、そこがうまい。
編集部│元東京大学総長の蓮實重彦さんのご自宅に、「芸術と科学の融合」をテーマにお話を伺いに行ったことがあります(『広告』2012年8月号p.68)。そのときにおっしゃっていて印象的だった言葉が、歴史を見るといつの時代でも、人間はなにかひとつのことが長く続くと、必ず「変革」を求めるということ。無意識的に「変化」というものを求めるのが人間なんだよと。
自民党の例じゃないですけど、一回変えさせて、異分子みたいなものも含ませながらまた戻して、飽きたら、元に戻すみたいなことがあって、そういうのって体制維持のための常套テクニックですよね。
政治という劇場にしろ、あるいはドラマやスポーツにしろ、人間はつまるところ「驚きたい」のではないでしょうか。そういう「非連続に対する欲求」が、言葉とか説明を超えてあるような気がしています。
島田│多いにあるでしょうね。「旅」なんかはその最たる例だなと思います。日常じゃない、ここじゃないどこか別のところに行きたい。予定調和から飛び出したい。それを旅というレベルまで構えなくても、仕事をして、まっすぐ家に帰りたい人って、正直、あんまりいないと思うんですよね(笑)。
人間は、なにかいろいろ理由をこじつけて「ほっつき歩く」ということをしたい。それこそが、基本的な本能だと思う。文学なんかは、古今東西のあらゆる作品の共通点を探ると、大体「主人公がほっつき歩く話」ですよ。家に帰りたいなとも思っているんだけど、帰れないとかね。そういう話ばかり。
古代ギリシャの英雄叙事詩の『オデュッセイア』をさかのぼっても、早く帰りたいんだけど、一〇年間戦争していたし、とっとと帰りたいんだけれども、ポセイドンの怒りを買っちゃって、もう一〇年帰れないという話です(笑)。
要するにほっつき歩くのをやめたら、偉大な世界文学は成立しない。ちなみにペルシャ語ではほっつき歩きのことを「チャランポラン」といい、文化に根付いています。遊牧民は都市生活をしても、ほっつき歩くものなんです。人間の本能に根差しているといっていい。
編集部│たしかに意図せずにしちゃうことってありますよね。からだには、言葉を覚える前に埋め込まれた直感的欲求がたくさんあると思う。ほっつき歩きもその一部なのかも知れませんね。
島田│人類の遠い先祖はみんな狩猟採集民だから、基本的には定住しないで、食料のあるところをほっつき歩いて、大型動物の狩りに成功すればシメシメみたいな感覚がベースにあると思うんです。現代社会から見ると、彼らはかなり賭博的な生き方をしていて、もちろん食料を獲得するというのは非常に重要なポイントだけれども、やっぱりあっちへ行ってみると、なにか面白いことがあるんじゃないかという好奇心に基づいて、かなり遊んでいたと思うんですね。
そんな中で、たまたま恋のパートナーを見つけることもあるわけでしょう。新しい食べ物を見つけることもあるかも知れない。そういう本能があるからこそ、農業を始めて田畑に縛りつけられていても、冬に農閑期が来ると、僕たちはどっかへ行きたい。自分のフィールドを離れて、よそへ行ってハジけてくるという。旅の恥はかき捨てってね。これも本能だからもうしょうがないんです。
そうやって考えると、日本人はだいぶ旅慣れてきた。いわゆる観光というのは、経済成長の産物ですよ。昔の日本は、自然も経済環境も厳しく、そんなに自由に旅すらできないんですね。だから、江戸時代の旅を考えてみれば、基本、旅する人というのは幾つかのパターンしかない。一つ目は「参勤交代」。これは江戸幕府恒例の「お勤め」です。あとは「お伊勢参り」ですね。巡礼といいますが、それは名目で、本当は物見遊山だったと言われていますけれども、とにかく、みんなよく伊勢参りに行っていたわけですね。信仰登山などもこのカテゴリー。最後は、芸人や文人の旅。文化人が、その行った先の名士の家に招かれて、そこで句会につき合ってあげれば、ごはんと幾ばくかのお金をもらえた。芭蕉は一句詠み、歌舞音曲の人は自分の芸を見せて、その日の宿と食料はゲットできる。それから、逃避行ですね。平家の落人とか明智光秀とか、近松の心中の道行とか。日本の旅といえば、伝統的にはこの四つくらいしかなかったと思う。
それが、経済成長すると、平均所得が上がって一気に中産階級が増えるから、その分で三種の神器みたいなものを買います。テレビ、洗濯機、それに冷蔵庫とか。そのうち車や家を買う。その後が旅行なんです。国内旅行に、海外旅行。そして、海外旅行にだれもが行くようになる頃には、実は、経済成長は終わりなんですね。もう成長のポテンシャルを使いきっちゃうから、果てちゃう。だから経済成長は大体三〇―四〇年しかないわけで。今の日本を見ても、中産階級はこれ以上増えてなくて、むしろ、貧民が増えている。今、中国がちょうど、日本人が円高で海外旅行に行きまくっていた時期に当たりますかね。だから、当時、誰もが海外旅行に行くようになった頃の日本人は、かなり評判悪かったわけですよ。でも今は、ものすごくマナーが良いと言われるようになって、その代わりに評判が悪いのが中国とか新興国からの旅行客らしいんです。
編集部│ちょっと皮肉なことに、文化的に成熟したときには経済成長そのものが終わっちゃっているという。文化の成長と低温化が相殺しちゃっているというか。
いただいたキーワードで「ほっつき歩く」というのはすごい興味があって。最近、偶然島田さんの『彼岸先生』を読み直して、インテリ文学者と若者の交錯の話なのですが、やっぱりずっとほっつき歩いていますね。最新作『ニッチを探して』でも、かなりほっつき歩かれてますよね(笑)。島田さんは小説と同時に、いろいろなルポやノンフィクションも書かれていて、それも本当にぶらぶらしていて面白い。島田雅彦ご自身の「ほっつき歩き偏差値」はメーターを振り切っている。それで、ほっつき歩きに「飽きる」ということはないんですか。
島田│まったく、飽きないですよね。私も最近は、下町というか、さらにディープな北区とか葛飾区とか墨田区とか、そっちにばかり、吸い寄せられるようにほっつき歩いていますね。うちは川崎市なんで、全然逆方向なんですが(笑)。ある日気づいたんですけど、東京に住んでいる人も、たいがいは、自分の職場と家とを結んだ通勤沿線でしか飲まないんですね。そして、帰巣本能がありますから、二軒目、三軒目と、だんだん家の近くに寄せてくるというのがある。中央沿線に暮らしている人というのは、おおよそ六本木とか品川方面へ行かないし、また逆もしかりですし。だから、基本、東京に住んでいると言っても、ごく一部しか知らないひとがほとんどで、東京通ぶってるんです。よっぽど観光客の方々のほうが、あちこちに行っていますよ。
それで、ある日僕も勇気を出して、新宿駅から家とは逆方向の埼京線に乗っちゃったわけですよ。そうしたら、赤羽が割と近いということが判明した。赤羽で降りて、一番街に降り立ったら、「何だ! ここはすごいじゃないか!? こんな近場に、秘境があるじゃないか!?」ってなってしまった。まあ、以来、降りたことのない駅に降りるのにハマっています。
編集部│最近の情報環境は「ほっつき歩きにくく」なっている部分もあります。たとえば、もし島田さんを飲みにお誘いするとしても、メールで地図を送るときにどうしても飲食情報サイトが便利なので使われがちですよね。そこには勝手に「評価3・2」とか採点スコアが書かれていたり、意図しない下馬評みたいなのがバンバン目に入ってきちゃうし、駅を出たらGPSのガイドに沿って行くみたいな。ちょっと昔までは、東京の夜は、一種の余裕というか、路地に迷い込むとか、知らない人と合流しちゃうとか、心地よく酩酊しちゃうとか、そういうふわふわした文脈を歓迎する空気で満ちあふれていたような気もする。最近はそういう部分が若干減っているというか、情報が合目的に進化しすぎちゃって、「線」がもう一回「点と点」に戻っている感覚もある。テクノロジーは線を面に進化してほしいのに、本当は。
島田│実際、情報の検索がしやすくなって、ちょっとそれに頼り過ぎている感じはありますよね。たとえば、京成電鉄の立石なんて、十年前まで誰も行かないようなところだけど、今は違います。そう、あそこは最近「食べログ」とかスマートフォンを片手に、明らかにジモティーじゃないお洒落な連中が徘徊していますよ。中央線に住んでいそうなちょっと情報感度の高い方々が結構来るようになった。ほっつき歩きにくい時こそ、むしろほっつき歩きたくなったりもするのかも知れません。
編集部│島田さん。それでは、早速というか、やっと本題に入らせていただきます(笑)。

本号は非言語ゾーンに対するアプローチということで、以下の章立てを考えています。それらについて、考えとか経緯も含めて、こちらからご説明いたしますので、きたんないご意見とか、そうだねとか、いや、そうじゃないんじゃないかとか、そういうお話も含めて、お伺いさせてください。それでは行きます。

01|脳からつばが出る
02|感情はからだから生まれる
03|集団的恍惚の発生メカニズム
04|テクスチャー 記憶を触る
05|時間泥棒
06|恋に落ちる瞬間って(イラスト・アンケート)
07|一次情報と二次情報の間で破裂するもの
08|ひらめき
09|言語が喪失する視点
10|出汁の写像
11|言語と非言語を超えて Feat. Shing02

島田│はい。

ーー

島田雅彦と語る

01│脳からつばが出る

編集部│まず一番最初に「脳からつばが出る」というゾーン。これは巻頭として、つべこべ言わずに気持ちよいことや、問答無用に魅力的なものを、なるべく直感的に探してみました。
たとえば、これは「食」。非言語っていろいろ考えられるけど、食こそまさに、つべこべ言わせずにすごい!というか、「総合芸術の最高峰」じゃないかと編集部で話したんですね。食は、匂い、見た目、色気、味、音、空間設計、文脈、すべてが掛け合わされたまさに非言語体験の頂点ですよね。図版は、「エル・ブリ」という世界一予約の難しいレストランを率いて、分子料理で一躍有名となったシェフ、フェラン・アドリアさんとその料理です。
これは「マカンコウサッポウ」。先週も湘南の七里ヶ浜に行ったら、女子高生が一斉ジャンプして、iPhoneで撮り合っているんですよね。何をやっているかというと、この「マカンコウサッポウ」というのがとても流行っているらしくて、ありていな言葉で言うと、青春の1ページなんだけど、このなんだかすごい瞬間という、ドラゴンボール的なカーッという瞬間を定着させるみたいな。これもつべこべ言わず、何か楽しい気分がするなと。
次はバタフライ。こういうことを習得して、このレベルで泳ぐ人というのは、たぶん「これ、どうやってやるんですか」と言われても答えられないというか、「それが言えたら苦労しないよ」というゾーン。十年や二十年越しの習練を経てきたものがあって、自分の過去の体験や身体性が複雑に絡まって、やっとかたちを成しているもので。
これは、川の恵みと人間の話。この画像は日本一美しい川と評されることもある四国・仁淀川の流れです。初夏の暑い日にこういう清流に足を踏み入れるときに、僕らの心に流れるみずみずしさ、それはもう遺伝子の中にインプリントされてるのではないかと。
こちらは伝統工芸。宮大工さんの道具を見せていただくと、さきほどの習練を重ねた継承みたいなお話がありましたが、代々法隆寺を直してこられた西岡常一さんという亡くなられた宮大工の方は、もう何代も世襲で寺社建築を支える技術を磨き続けてこられました。言葉でどうこうではなく、世代を超えてしみ込ませて行く身体性のようなもの。
こちらは漫画の世界で、五十嵐大介さんという方が描いている『リトル・フォレスト』という漫画なんですけど、単純な田舎暮らしではなく、匂いとか思い出とか、手のひらに感じるものとか、ある種のだれもが無意識に求めている桃源郷みたいなものを描いているような気がしています。
などなど。最初はテーマをあえて絞らずに「脳からツバがでる」事象を感覚的に選んでみたんです。こういうことで、感情の波立つ構造を探ってみようと。さて、そこで、島田さんにご質問なのですが、どう、思われましたか? と聞かれても困るとは思うんですけど、どう思われましたでしょうか。
島田│そりゃ、困りますね(笑)。
まあ、文学者は、あるいは、小説を書いている者というものは、つべこべ言うのが商売なんですね。まずは、言語と非言語の関係で、漫画の話からさせていただきますと、昨日偶然、漫画の原作業界で第一人者の小池一夫さん(『子連れ狼』や初期の『ゴルゴ13』などの原作者)とお話をする機会があって、彼は要するに、才能にあふれていて昔は小説も書かれていらっしゃったのですが、結局は、小説の言葉で描写をするのが面倒くさいんだそうです。ごく短いセリフで先へ進みたい性格なんだそうで、まあ、なにしろ「僕は漫画向きなんだ」とおっしゃっていました。
漫画って、物理制約上、1コマに盛り込める文字数はすごく少ないし、あとは擬音語、擬態語のオノマトペも絵柄の中に盛り込んで表現していますからね。漫画の読者というのは、そういうコミュニケーションや、言外の表現に慣れているから、逆に文字で説明してしまうと、「この漫画家はダメ!」だということにはなります。つまり、「つべこべ言っている間」はろくな漫画じゃない。
じゃ、そういう漫画の命でもある絵とかオノマトペの世界が非言語的だとしたら、日常生活の中で、自分がそういう非言語的なところにハマっていると思うのはどんなときかというと、一つは「ため息」をついているときかなと。私は、よくため息をつくんですが、ため息つくと次は息吸うので、結果として「深呼吸」になるわけです。大体深く息を吸うと落ち着いたり、新鮮な酸素を取り込むことで、もう一回気を取り直して、何とかしようということになるわけなんでね。ちょっと困ったときには、一回ため息をつくということが意外に良かったりして、人間ってうまくできてるなと思ったりしてますけどね。
あと、かなりストレスがたまっているとか、イライラが募っているときは、脳が詰まっちゃって、意味のある言葉がなかなか出てこないもんなんです。なぜか濁音が増えますね。「ガギグ……」みたいな濁音をともかく発音したくなるというか(笑)。ひとり言なんだけど、なんらかの濁音を「グギジボゲ……」とか言い放ち続けるんです。そうすると何となくストレスが少し軽減される感じがします。誰かと会わなきゃいけないとか、会議に出なきゃいけない前でストレスのたまっているときは、一応そういうふうに濁音を発音してガス抜きしておかないと、実際に会議の場で罵詈雑言を言っちゃうかもしれないから。
編集部│(一同笑)罵詈雑言という言葉自体、濁音が多いですね。
島田│そういえば、そうですね。そうやって、濁音を自分からちょっと抜いておくんですね。そもそも、私は外国語とか、外国語の響き自体がわりと好きでして。最初にロシア語を学ぼうと思ったときも、濁音に惹かれた部分がありまして。
編集部│こんにちはが「ズドラーストブィチェ」でしたっけ。
島田│そう。ズドラーストブィチェ。ロシア語は、とにかく濁音と破裂音が多いんですよ。子どもの頃に、母親がどこかからもらった琥珀をくるんでいた新聞紙、これがなぜか『プラウダ(かつてのロシア連邦の新聞)』か何かで。私は小学生のときに初めてそのキリル文字を見たわけです。「n」の逆さまになっているやつとかね、いろいろ見慣れない文字があって、それを読めたらかっこいいだろうなと、直感的に思ったんですよね。今、思い出すと、ロシア語にはちょっと縁があったのか、中学一年のときにスタンリー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』という映画を見たんですよ。冒頭いきなりレイプシーンから始まるような映画ですけど。その頃はまだR指定がございませんでしたので、それを13歳で見て、ある一定の衝撃を受けた。近未来のイギリスが舞台になっていて、役者は英語をしゃべっているのですけど、ところどころ隠語風にロシア語が使われていることがわかったんです。かっこいいな! ロシア語と思っちゃって。
そこで初めてロシア語というものに触れて、それから独学で少しずつ。まず文字が読めるようになったのと、幾つか言い回しが言えるようになっていくわけですよ。そうすると、今まで単なる音声でしかなかったもの、単なるわけわからない記号でしかなかったものが、「突然意味を持って立ち上がってくる」んですね。その感覚が忘れられなくて。そのときに、言語というものに目覚めちゃったというか。言語発祥の瞬間の快感みたいなものを疑似体験しちゃったのかも知れません。
今でも、全くわからない言語は幾つもありますから、旅先で自分の学んだことのない言語に触れるときは、とりあえず耳をすましているんだけど、なかなか真似できないんですよね。日本語にない音はいっぱいあるし。それで、ずっと聴いていて、商店街とかを繰り返し歩いていると、地元の人たちがよく使っている音が、頭に残っていくわけですよ。それをちょっと真似してみたりすると、物を買えるんですよね。知らない言語でなんだか買物ができるようになる。
アラビア語のマグレブ方面をひとりで旅していたときに、バザールへ行ってみんなが買物をしている瞬間に何て言っているのか聞き耳をたてて、たばこ屋に行って、それを言ってみた。そうしたら、たばこ2個が出てきたの。それで一つフレーズを覚えたんけど、たばこ買うときも、何買うときも、2つしか買えなかった。「1つくれ」が最後までわからなかった(笑)。
編集部│島田さんがおっしゃる中で、「音声から意味が立ち上がってくる瞬間」っていうのは、すごく肉感的な表現ですよね。特に「立ち上がる」という感覚に興味があります。「脳からツバが出る」というのは、まさに「意味が立ち上がる瞬間」ですし、もっとディープな状態だと「意味が立ち上がっているのに、それをどう呼んでいいかすらわからない状態」とも言えるのではないでしょうか。

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02│感情はからだから生まれる

編集部│現代の日本、特に都市型生活においては、生の身体表現に触れる機会がどんどん減っているのではないかと考えています。まずは卑近な要素ですが、音楽ライブやバレエ公演のチケットの値段が高すぎて、若者はなかなか触れられないという事実。若い世代こそ感性を育む時期なのに、そういう世代が生感に触れる機会がどんどん減っていく。圧縮されたiPodの曲数だけは増えていくのに。その一方で、サントリーホールでの数万円するクラシックコンサートが年輩の層に飛ぶように売れたりする現実もあります。
身体体験に関して、映像やネット、ゲームなどを通じて、自分の実体験を経なくても会得したような気分になる、つまり二次情報化しちゃっている部分も多いと思います。こうした身体性や体験の生々しさについては、どうお考えになりますか。
島田│感情の由来というようなことを考えると、喜怒哀楽は言葉にすることもできるけれども、そもそもはどんな文化も身体性と深く結びついていますよね。イタリア人などは、手足縛るとしゃべれなくなるみたいな。それはジェスチャー(身振り)表現ができないから。一方で、日本人はそういうジェスチャーとか感情を、感情を抑えて静かにしているほうがいいという妙な美徳があると思うんですよ、文化として。ストレートに感情表現するようなラテン系の人たちからすると、そういう侍的な節度というか、それがクールとかいうことになるんでしょうけど。
でも、それも結局かなり飼いならされているわけでしょうね。ある程度のトレーニングの結果、そうなっているはずです。だから、自然状態に置いておけば、普通に出始めると思うんですね。自然に、手とか足とか動き始めると思うんですよ。踊り出したり。赤ちゃんだってなにもしなくても踊りまくるし。実際、徳島の人は、うれしいと踊るでしょう(笑)。見たことあるんですよ、甲子園で試合に勝った選手が阿波踊りをやっていたのを。
編集部│本当ですか?
島田│やっています、球児が。「ヤッター!」と言ってバンザイするのもいるけど、徳島の子はこうやって(阿波踊りの真似をしながら)、踊るんです。まあ、青森の子は、ねぶた流に、ハネるのでしょうね。つまり身体とは、その原始的な雰囲気を持ちながら、文化的背景にインストールされている部分が大きいのが分かる。
その点、イタリアの子どもも観察していると面白い。アイスを食べたら、それが溶けてドテッて道路に落っこちたとしますよね。すると、あまりにも悲しいので、こうやって片手で頭を抱えて雄叫びを上げ、ノドをかきむしる。まるで「魂の慟哭」みたいなジェスチャーをしていたりする。日本人から見ると、たかだかアイスごときでなぜここまでこの世の終わりのような格好をするのかわからない(笑)。でも、ああいう身体表現こそ、文化そのものとも言えるのでしょう。

ーー

島田雅彦と語る

03|集団的恍惚の発生メカニズム

編集部│個人だと冷静なのに、集団になるといつの間にか螺旋状の興奮に乗せられて、言葉を失うような恍惚感を覚えたり、時間があっという間に過ぎちゃうことってありますよね。
これはまず、「Kumbh Mela」のインドの宗教的祭典の様子。年に一回 一千万人規模で参加するらしいです。こちらは、おなじみバリ・ウブドゥのケチャ。
こちらは郡上踊り。一ヵ月近く踊り続けるという岐阜県の歴史的お祭りです。
こちらはハーモニー・コリンの『スプリング・ブレイカーズ』の映画の1シーンです。若者のドラッグ&パーティで、みんなここに所属するのが悪いとわかっているんだけど、何かこの熱狂についていかなきゃまずい感じがするというような退廃的青春の1ページ。
これはさきほど話した「ラーメン二郎」的なもので、今一番行列ができているらしい「千里眼」というラーメン店の「豚ラーメンの麺マシ、野菜マシマシ、ニンニク・油からめ」というものです。「並ぶのも食事のうち」らしいのですが、こういったソウルフードに何時間も並ぶというのも一つの集団的熱狂かと。
これはNEET株式会社というニートが集まった会社。先日の「ニコニコ超会議」もそうですが、今までオンラインでつながっていた方々がリアルに集うという流れが強まっている。
加えて、政治運動家の三宅洋平さんにもお話を聞いてきました。先日の参議院選挙でツイッターで、一時期安倍総理よりも彼の動向の方がツイートされたという。ものすごい瞬発力を日本中の若者の間で作り上げた。
島田│すみません。まず、私はそういう集団的熱狂というのはあんまり体験したことがなくてですね。
例えば、サッカーを見に行ったことはもちろんありますが、ああいうふうにウェーブに参加したこともないし、何か「不愉快なほう」が先に立ってしまうというようなことはあるんですけどね(笑)。うーん。
ただ、もし我を忘れてというか、そういう集団の渦の中の一部になることの快楽というようなことを感じられるのであれば、自分が仮に不幸であっても「自分を代表して別の人がハッピーになってくれているからうれしい」ということになるのかなとか思ったりします。でもそういう感覚が、僕には本当にありませんので、想像の世界になってしまいますけど。ごめんなさい。
編集部│そういうお答えも、ありかと思います。次のテーマ、お願いします。

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島田雅彦と語る

04|テクスチャー 記憶を触る

編集部│ここでは「テクスチャー」、つまり触感の話しをしています。そういうものに対して、人の気持ちは問答無用に動くのではないかと。チクチクしている、ふわっとしている、ねばねばしている、皮膚感覚、鳥肌が立つ、色気を感じる。これらのことに対して、まず僕たちで出した仮説は、テクスチャーは、なんらかの記憶をデコード(解凍)するような価値があるんだろうなということです。
島田|感覚器官の中では、視覚が一番、情報化されちゃっているわけですね。見たものが脳の中でちゃんと変換されて。だけど、味覚とか嗅覚は分子そのものを取り込んじゃっているわけだし、触覚に至っては、そのものをなでたり、噛んだり、触ったりということで得られる感覚ですよね。一番即物的なのは、やっぱり触覚です。そのものズバリに触れているわけですし。
そういう原始的な感覚ほど、つまり言語化しにくいわけです。視覚はあらかじめ情報化されているから、言語に翻訳しやすいんです。だから、描写するときは、8割以上は視覚情報です。だけど、言葉で、味や匂い、あるいはテクスチャーを語るのはなかなか難しいし、なにしろ語彙が少ない。もともと言語から離れていて、もうちょっと感覚的に存在できていること、ダイレクトなものと触れ合っていることの喜びが、ここでいうテクスチャーだと思います。
目で見て鑑賞する、愛でるというやり方もあるけど、頬ずりしたり、なめたり、さすったりというような愛し方が一番その対象と触れ合っているわけでね。最終的には、みんな、そこを目指したいんじゃないかなと思いますよ。
犬なんかは、もう食べられないものをよく噛んでいるでしょう。あれはすごく気持ちいいんででしょうね、触覚的にものと戯れていて。

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06|恋に落ちる瞬間って

編集部│次は「恋に落ちる瞬間って」と題したパートです。恋だとか愛だとか後付けでいろいろ定義はできると思うんですが、その始まりの瞬間は、まだ肉体も、心も、利害も定義できていない、まさに言葉にならない感情で世界が染まるような感覚ではないか、と。年も性別も関係なく、恋に落ちる瞬間を考えようとしました。
編集員の女性がこれ(壁面の写真)を出してきたんですけど、やっぱりまずオノマトペが出てきて、まずは「トクン」という感じが、恋に落ちる瞬間なんじゃないですかね、と話していて。まあその表現自体がかなり言語的なんだけど、まずは、その方向で彼女の感覚を話してもらったんです。すると「トクン」と来たその後、「ストン」と安定的に来るのは結婚なんだそうで、「キュン」という不安定な状態がつづくと本当の恋なんだみたいな話をしてて。ちょっとメルヘンチックな話なんですけど、でも、何かわかるよね、みたいなことを話していたんです。
その次に、いろいろ歴史的な恋のクロニクル・スタディしようかと思ったんですけど、非言語がテーマなのにどうしても説明的になりそうだと思って、やめました。だとしたら、恋をしちゃった瞬間の気持ちを、老若男女にイラストにしてもらうのはどうだろうということで、みなさんにお願いして描いてもらったのがこちらなんです。
このイラスト自体は、みなさんにたくさん描いていただいて本当に興味深いものばかりなのですが、一方で、正直言うと、ちょっとした失策だと思っています。つまり、恋をイラストに表してくださいという行為自体がものすごく言語的で、自己表現的なものになってしまったんですね。
島田│生物学で言うと、恋に落ちるということは、すなわち「ホルモンの分泌」なんです。すべて、それで説明しますよね。要するに、オノマトペで言えば「ジュン」みたいなね(笑)。
編集部│なるほど。シンプルでいて、深い。
島田│まあ、出るわけですわ、なにかが。恋をする瞬間には、なにかを分泌する。それが要は、求愛のパートナーというか、子づくり相手への生態的反応なんだそうでね。まあ、別の意味でも濡れた感じがあるわけでしょう。結局、女子も男子も、心も体も、濡れるわけでしょう。

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07|一次情報と二次情報の間で破裂するもの

編集部|たとえば、これは、うちの伊藤君という編集員が撮ってくれたカツオの心臓部のチチコというところの写真です。
ものすごく新鮮でないと食べられないそうなんです。それを土佐のここの港で漁師と一緒に食べたとか、こういうところの秘境へ行ったんだとか、自分が生でつかみ取ったレイヤーの一次情報がありますよね。その一方で、東京に戻ってから、「旅行、どうだった?」と聞かれたときに、「すごく、うまかったんだよ」と安易な形容詞で答えざるをえなかったり。フェイスブックなんかを見ていると、そういった一次情報が、「いいね!」ボタンの連鎖で、どんどん二次情報として広がっていく時代です。
一方で、二次情報は、言語化されたり、記号化されたりして、共有および複製されやすくはなっているんですけど、感動の解像度はどうしても低くなりますよね。どんどん薄まっていくというか。「食べログ」の話もそうですし、一般的な旅行記もそうですが、あるいは、僕らが赤坂でこういうことを話していること自体が二次情報化に加担しているとも言える。
島田|ことごとく悩んでいてうらやましいですね(笑)。若いときというのは、初めての経験が多いわけですね。ある程度年を重ねると、デジャヴが増えます。過去から想起されてくる視覚が増えてくる。
初めて海を見た人の感動と、海辺に暮らして日常的に海に接している人の感覚はだいぶずれているのはそれでしょうしね。たぶんそういう風にデジャヴに襲われる機会が増えてくる人にとっては、時間の流れは急に速くなるでしょう。年をとると、若い頃よりも時間が早く過ぎるような気がするということはあるけれども、それは感動の価値というか、感動の度合いがどんどん下がっていっていると思うんですね。感覚が色あせるというかね。
編集部|すべてが初めてじゃなくなってしまうから。
島田|ええ。そういうところがあると思います。だからみんな、二次情報に触れて、一応下調べをして、それを現場にわざわざ確認しに行ったりしていますよね。今は、順番が逆なんです。グルメと言われる人も、観光客も。一度何かのメディアで触れてから、ああ、なんだ、こんなものかということを本物で確認しているのでしょうね、きっと。それこそ、年をとった人のやや色あせた感動の構造にも、似てきているのかなという感じはしますけれども。
ただ一方で、わざわざその場所に行ったということの手間、その分だけありがたみは増すというのはありますね。たとえば、行くのにものすごく遠いところに何時間もかけて歩いて行ったこと。そのプロセスが一種の巡礼みたいなものになっていて、そのことに意味がある。行為の文脈によって感動が増幅されるということもありますよね。
編集部|作家・島田雅彦は、膨大で芳醇な一次情報でその人生が満たされているように感じるんです。誤解を恐れずに言うと、読者の立場からすると、少しいつも高みから笑われているような気もします。「この本を呼んでいる君たちにとっては、僕の話しはどうしても二次情報になっちゃうんだけど。ごめんね、こっちの世界は、ものすごくみずみずしくて、生々しくて、匂いとか温度とかがあって、この魅力は絶対伝えられないんだけど、まあ二次情報に落とすとこんなものだ、ワッハッハ!」みたいな。それがまったく悪い気がせずに、魅力につながっているのが不思議なんですけど。
島田|結局、すべての二次情報では、他人の話を信じるしかないわけです。だから、疑り深い人は自分で確かめるしかないということはあるんですね。たとえば、イスラエルの死海ってあるでしょう。「浮く」というのは伝聞とかで、みんな知っているんだけど、どのように浮くのかは、行って、実際浸かってみないとこれは、分からないですよね。で、気になって、僕は行ってきた。
つまり、誰もが知っている「浮く」ということを、自分の一次情報にしてきたんです。
それで実際にやってみると、死海に浮くというのは、僕にとっては「腰の上ぐらいまで水に入って行くと、強制的にお姫様抱っこされる感じ」だったんです(笑)。立っていられないというか、ふわっとすくい上げられるように。だから、腹筋に力を入れて、そうならないようにすると、今度は急にバランスが垂直になっちゃって、体が「釣りのウキ」みたいになっちゃうわけです。
さらにガイドブックになかったことと言えば、死海はものすごく塩分濃度が高いから、とにかく、顔のひげそり跡が痛いんですよ。それも僕としては大きな発見だった。
編集部|そういう個人的な感覚って、JALの機内誌とかではなかなか伝わってこない情報ですよね。死海では、お姫様抱っこと、ひげそり跡に気をつけろみたいな(笑)。
島田|そう。それで、いい状態で浮いているから、新聞を広げて読めるんですけど、これを広げるとヨットみたいになっちゃって、新聞紙に風受けて進んじゃうんです。これは行ってみないと絶対にわからないですよ(笑)。
編集部|(一同笑)

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09|言語を喪失する視点

編集部│この章は、三者に対する取材から成立しています。ひとつは「プラネットアース」などを手がけているBBCの映像ドキュメンタリーチーム。もうひとつはベルンハルト・エドマイヤーさんという、地質学者を経て地球俯瞰のカメラマンの世界第一人者になられた方。そして最後に関野吉晴さんという一橋大学の探検部を経て、僻地の原住民を助けるために自ら医者になり、いまだアマゾンやアフリカの秘境探検を繰り返されている探検家の方です。
地球の絶景に触れますと、「はっとする」などという言い方をしますが、そういった瞬間の視点の浮揚や、自分と地球といった主客体の関係が無化されてしまう瞬間みたいなものを探っています。
島田|秘境へ行って、誰も見たことのないような風景を撮るとかいうことも一種のハンティングなわけです。よく「撮影」を「シューティング」と呼びますけれども、要するに、撮影と狩りは性格が近いものがあるんですね。狩りというのは人類の一番古い営みですけれども、人間的な能力を最大限に発揮しないと成功しない営みです。優れた狩人は、プラニング、天候計算、戦い、調理、きっと何でもできたんだろうと思います。その後、農業社会になり、さらに産業社会へと移行しますと、みんな分業していくので、一人で何でもやらなきゃいけないという時代が終わります。つまり、今の社会は、自分が得意なところを専門的にやっていけばいいのですが、狩人というのは総合力が必要なんですよ。総合力で人を測る。でも、それが実は一番人間の古い存在形態というかライフスタイルだとは思います。ですが、もともと持っている潜在能力は産業社会に移行してくると、みんな失われてしまっている。
編集部│ばらばらにされたり、閉じ込められたり。
島田|ええ。だから、現代の人間は、リハビリでもしない限り、探検家になったり、冒険家になったり、狩人になったりはできないでしょうね。だから、そういう負い目というか、もっと激しい言葉で言えば、退化してしまったものの代わりに、現代の冒険家の方々はその能力をもう一回磨き上げて、誰も行けないようなところへ行って、写真とか映像を撮ってきてくれる偉人だと思うんです。それは物理的な危険を冒した分だけでなく、そういった人間の総合的な凄みの一面も見せてくれるというか。
編集部│ BBCドキュメンタリーチームでも、関野さんでも、エドマイヤーさんでも、もしも昔の狩人の時代に生きていたら、まさにリーダーというか、そういった総合力のある方々なのかもしれないですね。現代ですと、ちょっと希有な人として捉えられる可能性もあるのですが。
島田|まさにそうだと思いますね。先駆者ということでいうと、私は「道」という漢字が好きでね。よくよく考えると情景が興味深いんですよ、この文字は。「首」が入っているでしょう。何で「首」なのかという。どうやら「道」というのは、人が踏み跡をつけてできる。だから、全く踏み跡がついてないところは「魑魅魍魎」の領域なんですね。その魑魅魍魎を抑えるために生贄が必要で、だから新しい道を切り拓くには、生贄としての首が必要なんだと。だから、ある種、道を切り開くということについて回る大いなる犠牲という意味があるらしい。

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10│出汁の写像

編集部│冒頭で「食」は五感を駆使した総合芸術という話をさせていただきましたが、その中でも「出汁」を研究しているのがこの章です。出汁って、物を言う必要がない、「うまい」という感覚が走って、なにか言えと言われれば「うまい」と言わなきゃいけないんだけど、そんな言葉が追いついてないぐらいの解像度で、五臓六腑指先まで快感が走りますよね。そんな出汁というものを、逆に徹底的に科学的に見てみようということでやっています。これは電子顕微鏡で見た出汁の拡大図です。知らなかったけど、何かがあるんだねということを視覚情報化してみた。
料亭の「菊乃井」が東京・赤坂に出店して来たときに、どうしても出汁がうまくいかずに、同じ材料を使っているのにどうも本店の味は出せないということで、京都の水を取り寄せたらうまくいったという話があります。ならば、僕たちも出汁の研究を発端に、京都中の水系をもう一度洗い直そうと。京都の地形図をみながら、鴨川、三条、四条、五条…… 祇園がここら辺にあって、川がこのように流れて、等高線がこうなっていて、井戸があってということをスタディした。すると実は「京都の地下に広大に広がる湧き水」こそが京の食文化のキーになっていることが感覚的に分かってきました。
野菜はある種、地下水のコンテナとも言えるわけで、そういう意味での京野菜と、京都の日本酒、そして京都の出汁。出汁そのものでも完結しているうまさが、地下水で料理と連動していく豊かさ。京文化はまさに時空を超えて、そういった現象を結実しているわけで、そんじょそこらの形容詞では追いつかない感動があることを確認したわけです。実に楽しくて、うまいリサーチでした。
島田│うまみと言えば、アミノ酸とイノシン酸なんだけど、そういう意味では、「人間」も、これだけうまいものを食べているから、きっといい出汁が出ると思うんです(笑)。お風呂に入ると、そのお風呂のお湯が出汁になっているような気もするんですよね。だから、好きな人が入った後の風呂のお湯はうまいんじゃないかと思ったことはありますよ。まあ、湯せんにかけているようなものだからね。
そもそも、エキスの違いがわかるというのはかなり鋭敏な味覚であって、こうした出汁とはあんまり関係ない外国の食文化に触れると、なんて残念な味覚しかもっていないんだろうって思ってしまいますよね。この食文化なんて、甘いか、しょっぱいかしかないじゃんって。
アメリカとかイギリスの食文化なんて、「禁欲」が隠れテーマなんじゃないかと思うくらい、まずいと思う。

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11|言語と非言語を超えて

編集部Shing02さんというラッパーの方がいらっしゃいます。彼は日本人で、カリフォルニア大学バークレー校を卒業されて、その後もアメリカと日本を同時に行き来しながらラップをやっている方で、最近、壁面にリリック(歌詞)をバーッと書きなぐるという展示をしました。この世界ではすごくカリスマ的な方。
すべての歌謡曲もそうですが、特にラップは、そもそもメロディやリズムといった非言語的部分と、民族や政治主張というきわめて明解な言語性を帯びたその真逆の部分を併せ持ちます。そこで、「言語は非言語たりうるか、あるいは非言語は言語たりうるか」というテーマで話しました。
実際、この設定自体がものすごくあまりに言語的で、自己矛盾している部分もあります。つまりゲーデルの「ぼくは嘘つきです」的な機能不全が、言葉を使って「非言語ゾーン」を論じることにはつきまとう。ただし、一方で、言葉にできないことをつかまえるためにこそ言葉を生業にしている人も実はすごく多いと思うんですよ。ちょっと島田さんのご職業に近過ぎて、答えにくいかなとも思うんですけど、何かコメントを。
島田│言語は非言語たりうるかということについてですか。
編集部│はい。あるいは、今日のお話を総括してでも結構です。冒頭に島田さんがおっしゃられたことでかなりの刺激を受けたのですが、「言葉からこぼれ落ちちゃうもの」あるいは「言葉からこぼれ落ちちゃうもの、と分かっていて言葉にすること」と呼んでもいいかもしれない。
島田さんは冒頭で、言葉にすることで立ち上がってくることがあるとおっしゃいました。また僕たちは、意味が立ち上がっているんだけど、言葉にできないこともあるというスタンスで、今号の企画を始めました。僕たちは応援したいと思っているんですよ、世の中の「言葉というラベルからこぼれおちている」ものを。
島田│言語というのもある種のソフトウェアですから、やっぱり共有していて、あるいは借用しながらやっているわけですけれども。しかし、ときどき「バグ」が出るというか、今まである意味合いで使われていた言葉がまったく違う意味合いに変わる瞬間とかというのはありますね。あるいは、あまりにも使い古されて、もう耐用年数を過ぎて、まあ死語というか、流されていく言葉もありますね。だから、それ自体固定したものではなくて、すごく流動的なものだし、変化しやすい。まずは言葉自体が、一種のナマモノなんだという認識がとても大事だと思う。
だから、ソフトと言いながらも、実は生きている。生きている者が使うんでね。ある種の生命に近いものが宿っている感じはしますね。まあ、言霊なんていう言い方が昔からありますけれども。言語を操る能力は、人間に備わった自然の恩恵です。だけど、言語自体が、自然界に存在しないものをつくり出す力でもあるので、言語能力は自然の産物だが、言語能力を使ってつくるものは自然界に存在しないものだったりするという、この矛盾。この矛盾に相当悩んでいます。
また、言語の基本的な機能は何かということを聞くと、多くの人が「コミュニケーションの道具」って言いますけど、でも、言語の機能として最大のものは、本来「分ける」ということなんですね。つまり「分類」、そしてそこから来る「理解」。
だから、言語能力ができると、生きているものと死んでいるものを分ける。この世とあの世というふうなものができる。あの世というのは自然界には存在しませんけれどもね。
たとえば、エスキモーにとっての氷というのは1種類じゃないという話。この氷は夏の間は消える氷、これは人間が歩ける氷、これは歩いちゃいけない氷とかね。そういうように分ける。分ければ、分かるので。そうした世界、自然の認識というか、その情報化ということが最大の基本になって、そのことで飛躍的に文明が発達した。自然に手を入れたり、自然界にないものをつくったりというところに発展していっているということなんでね。私たちがもし言語を持たなかったとしたらどうなっていたかというと、それを想像するのは簡単だと思うんですね。犬のように暮らしているだろうと。
編集部│分ける、分類、定義するということで、分かるというのもあるけど、分けられないとか、分からないとか、一筋縄でいかない、みたいな現象も世界にはある中で、僕らはどう立ち向かっていけばいいのでしょうか。
島田│分けたり、分かったりとかということはやりながら、そういう言語を使っている限りは辿りつけない領域が確実にあると思う。決定的な答えは最後まで見出せないので、言い換えるとか、いろいろ迷ったりして、生き続けていくしかない。でも、それが面白いんですよ、きっと。言葉でたどり着けない場所で、その悩み方を探すことが。別の人の言葉だけど、人間は決して悟ることはないし、悟った頃には死んでいるというか、死ななきゃいけないみたいな、そんな感じがしていますね。
要するに、「より精密に言葉を駆使しようとすればするほど、本質から離れていく」という、そういう矛盾を抱え込んでいると思いますよ、言語は。
だから、結局はね、僕たちは、ため息つくしかない(笑)。

島田雅彦『広告』編集室退室
2013年10月31日
午後7時15分