タイトル
生命と全体の舞踏
著者 / 話者

一瞬たりとも止まることなく動き続ける、生命というシステム。
着々と、ときに特異に動き続ける、生命というシステム。
このシステムは何故、こんなにも躍動的なのか?
それでも、現代を生きる人間やそれを取り囲む社会が躍動的でないとすれば、
一体それは何故なのか?

今をときめく生命科学には恐らく、その答えはないだろう。

一方で20世紀後半、二人のチリ人生物学者が突如発表した生命システム論「オートポイエーシス」。生命をパーツに分解するのではなく、その営み全体の作動原理をえぐりだそうとする試みは多くの領域に影響を与えてきた。
哲学者・河本英夫は、そのオートポイエーシス理論をアートやリハビリテーション臨床という現場を踏みながら独自のアプローチで更新し続けている。

編集部

本誌では「エコ・エロ・エゴ」を俯瞰的・連関的にとらえて、全体を一つの空間にマッピングした上で、一つのダイナミズムみたいなものが語れないかなと思っています。オートポイエーシスは、個々の細胞は、全体を意識してないのに、トップダウンで見るとシステムとして閉じているとか、全体として閉じた系を成している。厳密にマトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス論は、細胞レベルからの自己維持という特性と神経システムにおける自己言及性、さらに有機体としての認知機能から論を展開しています。オートポイエーシスの持つ考え方をうまく用いることでエコ・エロ・エゴを一つの空間で捉えられないでしょうか。

河本

基本的にはたぶんこれが一番最初の錯覚なんですよね。例えばエロならエロがあって、細胞レベルがあって、それから自己レベルがあって、それから社会レベルがある。上・下というのは、上と下があるでしょう。それをまた外から見ているでしょう。だから、どっちから制御をかけたら動くかみたいなところが、外から見ていたのでは配置しかできないという問題がある。それはシステム制御の問題で、制御をきっちりやるのはものすごく重要なやり方だけど、その場合、どこで制御というものが限界に当たるのかという話を一方ではずっと考えておかなければいけないんですよね。
制御が必ず限界に当たるところがあるんですよ。制御が限界に当たるところ、つまり、逆にそれを制御しようとすると、何かがしょっちゅう生まれている場所なんですね。全部制御をかけたはずなのに、きっちりこれでやれるはずなのに、予想外の結果がいつも出ちゃうとか、あるいは、こんなことは考えてなかったのにこっちのほうがいいなみたいなことが起こるというのは、制御の効かない部分なんですね。
外から見る視点を使うときには、必ず制御が効かない部分、ゆらぎとかすき間とかいろんな言い方をされるのですけど、それがどこにあるのかというような発想から出てくるんですよね。もう一つ、これを外から見ないんだったらどこから見るのか。基本的には、上下関係、上も下もないわけですから、そうすると、細胞は細胞で勝手に動いている。エゴはエゴで勝手に動いている。エコはエコで勝手に動いている。何かこういうふうに多重に重なってて、フラフープみたいになってて、これがただ動いているだけ。オートポイエーシスでエコ・エロ・エゴを捉えるとこういう風に捉えられる。

エロだったら、ますます何か快適なエロに向かわなきゃいけないんです。エコだったら、ますます快適なエコに向かわなきゃいけないんです。この「ますます」というところを常にねらっているはずなのに、結果としては、目標はちゃんと到達できる。この二重のやり方を使わないといけないんですよね。ここが難しいんです。目標設定をするときは、「括弧入れ」という言い方をするんです。「括弧入れ」でこういうふうに目標設定しましょうね、こんなふうにやってみようと言って目標を立てるでしょう。そうすると、直接そこに向かうやり方は、あらかじめ描いた見取り図に合わせるのと同じだから、転換されるべきパラダイムをあらかじめ先取りしてそれに合わせようとしているだけなんですよ。こんな選択肢ではなくて、その場その場のプロセスの中に創造性がないようなやり方では絶対に目標に行き着かないんですよ。そうなるとどうやるかというと、基本的に目標設定をやって、最終的にこんなものが得られればいいねという、そこに向かうやり方を一回全部括弧入れするんですね。それぞれシステムは自分の動きを続けていくわけです。それぞれシステムは自分の動きを続けていって、それぞれは勝手に動いているように見えながら、結果としては、ここのあらかじめ設定した目標に到達できる。

例えば、ゴルフで青木功さんという人はプロから一目を置かれている教え方をするんですよ。何か最近調子が悪い、スコアが出ない。そうしたら、「じゃ、ちょっと振ってみて」と言う。「振ってみて」と言うときも、例えばアメリカから日本への帰りの飛行機の中で、その座席でちょっと振ってくれと言う。で、振らせて、4~5回見て普通は重心が前に突っ込み過ぎるとか、重心をもっと後ろに残しなさいとか、こういうことを言葉で言うと、つまり、全体像を直そうとしちゃっているんですよね。ところが青木さんの言うのは「ああ、これ、前に重心が少し出過ぎている」そうすると、「前足の後ろ側の親指に力を入れて」とか、別のことを言うんです。そうすると、前側の足の後ろのほうの親指にクッと力を入れると、後ろ側に重心が残るんですよね。だから、全然違うことを言っているのに、結果だけはちゃんとそのとおりになるわけです。

たくさん作品をつくるアーティストも同様で例えば、芸術と科学を両方ともやっていた人って、歴史上実はたくさんいるんですよ。本当に両方とも大変な才能だったというのはダヴィンチ。絵を描かず、10年以上科学技術をやるわけですから。人工的な飛行機をつくるとかね。芸術のための絵なんて、そんな枚数多くないんですよね。ゲーテなんかもそうです。小説は書いているんだけど、一方では自然学という。色彩論なんて35年やるわけです。全然別なことをやっているんです。ここがものすごく問題で、幾つかのことをやっておいて、彼らには一挙に最後までつくろうなんていう気はないんですよ。ゲーテの『色彩論』は35年かかるんだけど、間にいろんなものをやるわけです。例えば『ファウスト』なんて20年以上かかるんですよ。書いておいて放ったらかす。こっちも手つけておいて放ったらかす。

オートポイエーシスの一番の定義で定式化としては、「ダブル・オペレーション(二重作動)」と呼んでいるものがあります。複数の観点から物を見るというのがダブル・アスペクトで、これにみんな慣れちゃっているわけです。ところが、ダブル・オペレーションというのは、何かをやっているのに、それとは別のことが同時にシステムとしては実現されていく。それがダブル・オペレーションなんですね。
例えば線を引いて、境界を引く。線を引いただけなのに、これは左右を分けたように見えるんだけど、実は、浸透圧の落差とか、それから、引いただけでこうやって何かいろいろなものの交流が出てくるとか。つまり、何かをやると、それと同時に、そのことに含まれていないものが、逸失性が同時に出現してくるという仕組みが二重作動なんですよ。この二重作動の仕組みがオートポイエーシスの中にたくさん入っていたわけです。
オートポイエーシスというのは、基本的にはシステムの仕組みや単なる形のことではなくて、どうやって行為とか経験を動かしたらいいか。行為や経験を動かすときに、自分自身を結果としてつくっていくシステムだから、結局のところ、創造性が常になきゃいけないんですね。

気がついたら自分自身はできていなきゃいけないんです。気がついたら自分自身はできていなきゃいけないようなシステムなんだから、自分ができた後の結果のところから語ることができないわけで。オートポイエーシスの場合は、そのために二重の仕組み、二重作動と言われているものと、もう一つは、いわゆる常に結果のほうを手がかりにしながら前に進むという、いわゆる予期とか目標とかという、これは古くからの考え方ですけど、そこのところに対して違う回路を出していくようなやり方を見つけることをやったわけです。

ただ目標に合わせるようなやり方にも無理がある。つまり、そのやり方の中に時間関係で目標を決めて、出発点を決めてというこのやり方の中に、どうも、人間に本来的な自由ということが含まれたような自在な状態、自然状態になってない。それは無理をしてつくっているだけで。会社の成績とか何とかいろいろなこともあるし、それはあっていいんですよ。だけど、成績があるから、外の基準があるから、だから不自由になる必要はないんです。外の基準に結果として合えばいいわけですから、別の合わせ方が必ずあるんですよね。そこのところについては、非常に不自由なやり方をとってきたというのが、これまでのやり方で。世界で見てみると、ゲーテだのダヴィンチだのああいう天才でなくたって、もっと職人的な工夫をする人たちの中には、単に工夫しているだけで、結果としてちゃんとした結果が出るような人たちがいっぱいいるんじゃないか。
そうすると、問題なのは、いわば自由な自然性みたいなものが発揮できなくなっていることのかなり大きな要因の一つが、いわゆる知というものを少し狭く取り過ぎていること。必要なのはむしろ職人職人の側のほうをモデルにして進んだほうがいいんじゃないか。職人なんかしゃべりはしないわけですよ。うちの近所に、宮大工で腕のいい人がいますけどね。釘を1本も使わないわけです。家建てるときに釘を使わないわけですから。カッカーンと合わせるようなものをつくって、どうやっているといったら、「そんなのはわからん。できているだけだよ」とかと言って、何もしゃべらないわけですよ。しゃべったら嘘になると思っているからしゃべらないんですよね。

そこのところ、つまり職人が能力発揮する。つまり、行為とともにつくられている知識ですけど、職人は大体勉強してないから語らないんじゃなくて、今の言葉で語ると嘘になるから語らないんですよね。そうすると、職人たちが自分たちのやっていることを語れるような表現形式をもっと開発してあげないと、彼らの知識が入ってこないということになっちゃうわけです。この辺のところがなかなか難しい問題が入っていることは確かなんですよね。

そこのところ、結局は知の問題です。知そのもの。知というのはどうやってできているかというと、意識も知もそうなんですが、終わった後の結果を知るのにふさわしくできているんです。反転図形というのがあるでしょう。ある視点から見て、対の別の視点から見てこういうふうに見える。反転図形。どんな図形でもいいですけど、反転図形というのがありますね。一番簡単な反転図形ってこういうものですよね。どっちが前に出るかという。ここのところは、瞬間的には移動できない。0.5秒とか1秒ぐらいかかる。視点の変換をやって別の図形を見ることができるんですね。だけど、わかるのは視点の移動を行った後の図形がわかるだけであって、視点から視点の間に飛んでいる間のそれが何なのかということはわからないんですよ。そこのところで飛んでいるはずなのに、その飛んでいることが何なのかがわからないんです。落ち着いた次の図形、別の図形というところに落ち着くと、それで、ああ、今度はこれが見えるようになったんだというのはわかるんです。

だから、知とか、それから、特に意識はそうですけど、終わった後の結果を知ることにふさわしくつくられている。何かを自分で実行するということにふさわしくはつくられてないんですよね。そうなると、一番簡単なのは、何かに直面したときに、選択に直面することはよくあると思うんですが、そのときに、大きく分けて考えているのは、認知的選択と行為的選択の区別。認知的選択と行為的選択の区別がすごく重要で、何か選択しなきゃいけないと思ったときに、これとこれを2つ見比べて、でも、こっちのほうが今おもしろいよねと言う。これは認知的選択なんです。例えば、行為的選択はどういうのかというと、カレーライス食べたことありますよね。食べますよね。カレーライスの味はどれに近いですか。

編集部

難しいですね。これですか?

河本

ねぇ~。これが行為的選択なんですよ。味と図形の間には共通の座標軸はないんだもの。全く共通の座標軸はないんだけど、何かの似つかわしさの度合いってあるんですよ。どうも、こっちのほうが近そうだとか。共通の座標軸の中で比較して選んでいるというのが認知的選択なんです。自分で選択しなきゃいけないんです。選択することが一つの行為なんです。

結局のところ、そこの場面で何が問題になっているかというと、現実の世界の中では、共通の座標軸の上に配置できないものって無数にあるんですよね。座標軸の中にないわけですから、それでも似つかわしさとか何か似合うものとか相性とかというものがあって、それを選びながら前に進むしかないんですよね。そこのところは、例えばこれを選んだら後で理由を言ってくださいという話になると、理由は出せるんです。これを選んだ場合も、後で理由を言ってくださいと言ったら出せるんです。これを選んだ人は、こういうのはわかりやすい、「まろやか」とか言葉で選んでいるんですよ。つまり、結局のところ、後で理由をつける、それは終わった後の結果に対して、それを吟味している場面はいいわけです。ところが、そんなことの前に、理由に合わせて選んだわけじゃないんですよ。何かパッと選んじゃったわけです。ここのところがものすごく重要なんですよ。ここの部分がオートポイエーシスの中ではものすごく重要なことなんですね。だから、行為とか触覚とかというふうに言い続けるというのは、そこら辺にかかわっている。動くことによって二重作動が働きこれによってゴールに近づいていく。認知的な知識の影だけを追ってもそれは影であって、そのものではない訳です。
オートポイエーシスは、一番簡単なキャッチフレーズで言うと、「毎日新たな一歩を踏み出すために」という理論なんです。それは言葉では言えるんだけど、どうすることなのかがわからないんですよ。僕だって、朝目覚めると20個ぐらい思いつきがあるわけです。大半は捨てなきゃいけないわけですよ。思いつけば前に進めるかというと、進めてはいないんですよ。何かパッと出てきたときに、それがバーッとシステムの系列になって動き続けなければ、動き続けるという回路まで載せることができなければ、単なる思いつきを言ってみただけですよね。言ってみただけみたいなことをいくらやっていたって、これは、まあ、言うのは自由ですから。アドバルーンをパーンと上げておいて、現実の形になるまでにはアドバルーンとは別の回路をつくって進んで見せなきゃいけないところがあって、こっちのほうが本当は大変なんですよね。それをやるための仕組みがオートポイエーシスだったということなわけです。