タイトル
映像と音についてのインタビュー
著者 / 話者

映画とテレビとMTV

映像作品の音楽という意味では、僕はドラマとアニメは一本ずつしかテレビはやってなくて、映画は4本やりました。それで、テレビの連続ドラマをやったときにびっくりしたんですが、映像は何も見ずにつくらされるんですよ。まず、音楽のオーダー表だけがある。「サスペンス1~5」「コミカル1~5」「ブルージー1~3」とか言うわけ。脇にオーダー内容が書いてあって、「エレクトリカルな感じ」とか、「アコースティックで、メロディーはあまり感じさせず」とかね。そのオーダー表に沿って納品するだけなんですね。映画だとあり得ないですね。映画は、ラッシュ・フィルムが上がってから音をつけるので、音楽は後づけになるので、音楽が偉いような、下のようなね。ミシェル・シオンの言った<映画における音楽というのは頭が良くて貞淑な妻>のような、マリアージュというか夫妻の関係みたいな権力構造が生まれているわけですね。映画の場合は、音楽によってシーンを開発することはできないので、権力構造としては強いような弱いような。それがテレビと映画の違いですね。

映画には、アンダー・スコアという言葉が残っていて、セリフをまず聴かせなきゃいけない。つまり音のほうは従属物。もともと音は映画史から見ると、サイレントだったので、適当なレコードを流したりしてしたんですね。再生機の音がガタガタうるさ過ぎたので、ごまかすために。だからトーキー初期の20~30年代の映画って、サイレントの記憶が残っていて、ずうっと音が鳴っているんですよ。そのうち映画は沈黙を覚えて、間を覚えて、当たり前ですけど、機械がガタガタいわなくなり、無音でも成り立つようになった。そういうような形で、歴史的には音は従属物としてくっついてきたんですね。けれども、MTVになって、楽曲の原作に対して映像が説明を加えるというような形が初めてできたわけです。映像をつくる人たちが、言葉は悪いですけど、勝手に同期させたんですね。映像が従属している。完成された映像に音楽を付けるのは、何か後から粉飾するようで気持ちいいんですけど、こっちの影響で向こうが変わってくれないという意味では下僕なのよね。

シンクロと脱シンクロ

映像と音楽について考えると、今はとにかくシンクロの時代なんです。キャメラには必ずマイクが付いてきます。ホームビデオみたいな感じで、絵と音を同時に撮っちゃっている。元々は別に録って、合わせていた。機材のデジタル化とハンディ化によって、シンクロが前提に成っています。ただ、前史として、シンクロ率100という極例がディズニーなんですね。100って言っても、そもそも計測できる値ではないので、「まるで100」といった意味ですが。音楽と映像と効果音が全く一致しているというシンクロ100という状態はアニメーションで先ず可能になったんですよ。アメリカは、アニメならシンクロ率が100になることをディズニーで知ったんです。あれは一コマ一コマ描いていくわけだからとにかく労力さえかければ100になる。例えば、『白雪姫』は恐ろしいシンクロ率で、白雪姫の髪が風でちょっとなびくと、オーケストラがそれに反応するの。だから、とんでもないシンクロ率になって、見るともう異様なんですよね。数分間の映像で、もう全能感というか、何か自分が神様にでもなったような気分というか、現実性が全くないですよね。絵と音が100%合っちゃうとそうなっちゃう。現実では、作曲された音楽とモノの動きというのはずれているのが当たり前なんで。オーケストラが演奏している映像だって厳密にはずれてます。リアリティ/アンリアリティの問題は、思っているよりベーシックな事、つまり、視聴覚の関係のありかた、ズレのありかたひとつでグッと動く訳です。

なんで、欧米では、ミッキーマウシングと言って、シンクロし過ぎでバツが出るんですよね。車がぶつかった瞬間に音がガシャーンと言うと漫画みたいでダメと言われる。ちょっとずらしましょうよと。そもそも音楽にはBPMというのがあるんだけど、映像にはBPMはないんで、いずれにしてもずれるんですよ。テレビをつけて、クラブミュージックをかけているのと一緒ですよね。ただ、オーケストラみたいな形で夢のようにどんどんテンポが変わるような、無限にテンポが変わるようなものをつくっちゃうと、どんどんシンクロ率が上げられるんです。テンポが無いような、所謂アンビエントな音楽もそうです。でも、アンビエントな音楽というのは、視聴覚のシンクロの事を考えるとイージーです。時間VS時間という両立の妙味は、取りあえず無いので。

一方脱シンクロに関して考えると、ゴダールは早かったと思いますよ。スーッとフェードインした音が、切れるときはブチッと切れるとか、そうすると、びっくりするわけ、あ、音が入っていたんだなということを改めて可視化させる。フェードインしてフェードアウトすると、もう空気のような存在になっちゃうんだけど、フェードインさせて、ブチッと切るとびっくりするから、音の異物感、物質感がよくわかるとかいうのを、たった一人で延々とやっていたのはゴダールだけですよね。

色がつく・ゴージャラス

最近見たティム・バートンの『フランケンウィニー』という人形アニメなんですけど、モノクロなんですよね。モノクロなんですけど、オーケストレーションなんですよ。モノクロCGでオーケストレーションが起こると、音のほうに色が過剰に聴こえる。そんな事言ったらサイレント映画なんて原理的にはみんなそうじゃないかという話ですが、これが聴くと見るとじゃ大違いで、サイレント当時は、メディアの力でやりきってますから、視聴覚のバランスが良いの。絢爛豪華なオーケストラもモノクロームな響きに聴こえるんですね。

しかし、現在、敢えてCG人形アニメでモノクロにするというのは、恣意的な脱色ですから、高音質デジタルサラウンドで、ハイファイなオーケストラ(しかも、コンピューターによるシュミュレーションじゃなくて、本物のオーケストラを鳴らしてますから)の音と合わせると、視聴覚が揃いません。音の方にだけ色彩感があるように聴こえる。

ちょっと前に取りざたされた「共感覚」への刺激がありますよね。これは一つの化学の実験みたいな極論で。映画には匂いが無いから、所謂、共感覚的にトレードできるのは視聴覚だけに成ります。画面がサウンドの色彩を奪うのか、サウンドが画面に色彩を与えるのか、簡単なトレードじゃなくて、予め視覚情報に音や色彩が付与されている、或はその逆のような感覚を、特殊体質ではなく、一般性と捉えて、美意識化しているように思えます。ちょっと。

例えば『ドラクエ』の初期でもクラシックがなっていたけど、鳴っている音のビット数は低いからカクカクですよね。ただ、デザインがクラシックなわけ。だから、スコアリングに豊かさがあったわけよ。さっきの共感覚と別に、我々は翻訳能力もしくは修正能力があって、物凄く良く働きます。Lo-FiをHiFi化できるし、HiFiをLo-Fi化もできますよね。どっちかというと、Lo-FiをHiFi化する能力にたけているけど。ゴージャーライズというか、結局、チープな情報をゴージャスにするというのは、人間の属性だと思いますよ。夢の事ですよ。貴婦人が汚い労働者に犯されたいと夢想した場合、それはチープ化ではなく、ゴージャス化ですよね。方向がロックオンされている。夢というのは。

エイゼンシュテインの『映画における四次元』

映像と音楽を考える上で、エイゼンシュテインの『映画における四次元』を読むのは面白いと思います。エイゼンシュテインはサイレントの段階でモンタージュ理論というのをつくったわけですね。これはいまだに我々が映像を見るときの文法として、もう、提唱以来ずっとテレビコマーシャルからテレビドラマからアートフィルムまで含めてモンタージュ理論の統治下にあるんですよね。誰も勉強したわけじゃないのに、あ、今過去に戻った、とかわかるの。あれはエイゼンシュテイン等が準備し、エイゼンシュテインがロジック理論化した一種の文法に沿っているわけで。その後音楽が入ってきて、映画がトーキーになったときに、今度は音楽と映像の統一理論がほしいということで、エイゼンシュテインは『映画における四次元』を書いたんですね。ただ、この音楽と映像の統一理論は全く失敗しています。

実証性、実効性がなかったし、その理論に従って音楽をつければいい音楽がつくということが起こりませんでしたし。音楽とブリッジオーバーするのは無理だった。そして現在、その理論は誰にも顧みられず、評価もされない。批判もされない。つまり、あまりにひど過ぎて、そっとしておこうということになってしまった。だけど、良くある話で、押し入れの奥にしまっちゃった奴をあえてよく見てみたら、ひどく面白かった。エイゼンシュテインは映像と音楽を統一しようとしたときに、統一理論の軸足を音楽のほうに置いていたんです。アンダー・オーバー・トーン、ドミナントトニックという音楽の概念が使われたことは特筆すべきです。映像と音楽を結びつけようとしても無理だった、という結果だけ問うのは勿体ない。

そもそもの話なんですが、映像と音楽、視聴覚という問題が、ついつい20世紀メディアによって並列に並べられがちなんだけれども、実は並列ではないんです。そもそも発達論的に考えても、赤ん坊は目が見えませんが、音は聴こえているわけです。音は生まれる前から聴こえているんですね。耳と目ということを並列すること自体に実は齟齬があって、耳は閉じられないということなんですね。耳には瞼がないという言い方が正しい。目には瞼があって、夜になれば閉じてしまうわけ。見るに耐えないものの前でも閉じる事が出来る。でも、耳は指を突っ込もうと完全遮音は出来ません。寝ている間も音は聴いているので、音響情報は夢に影響するんですね。この映像と音が並列に扱えない問題には、慶應大学での講義に斎藤環さんが来てくれて、ラカン理論から有名な鏡像段階という原理を引いて丁寧に説明頂いたんですが、人間は視覚的な自己像に関してはファンタジックにならざるを得ないが、聴覚に対してはリアルにならざるを得ないと。音はリアルなわけ。抽象的な音はない、全部具象。一方で視覚情報というのはあらかじめ鏡像段階で、人は自分の姿が見れないし、見れたとしても、鏡に映ったばらばらの像をかき集めているので、視覚情報はあらかじめ人間にとってファンタジックなので、視覚情報にはリアルはないんです。「幻聴」というのは、だから重篤な症状です。統合失調症の主症状がコレです。幻聴に従ってとんでもない事をしたりする。一方「幻視」は症状ですら無い。誰でも常に幻視を観ている訳です。

音楽と音楽に付帯する情報

20世紀になると、音楽の記憶が映像と不可分に結びついています。『DANGER ZONE』を聴くと、『トップガン』の映像を思い出す、というように。2つで1つみたいになっている。何か条件反射みたいなイメージでこのことを捉えてしまいがちですが、厳密には条件反射ではない。視聴覚込みの記憶ですね。記憶はあいまいで、正確には絶対にマウントされてないんだけど。とは言え、強度というか、流行った。という事からくっついちゃってる。まあ、20世紀的ですよね。パロディとかずらしという感覚の下地になったというか。観念連合とも違う。本来癒着度が低く、強度のあり方も違う視聴覚が、なんかがっぷり四つ。みたいな相同性でともに刷り込まれるという。

例えば『時計仕掛けのオレンジ』でバッハを使うんですよね。キューブリックは未来的な映像にクラシックを当てるというミスマッチが行けるという広告感覚でホームランを何度も打ったので、多くの模倣者が出た。20世紀は音楽に対して、映像の共犯者的な形で、意味と記憶ばかりを貪りすぎた。音楽を、前情報も過去の記憶も一切抜きで生の音の響きと改めて向き合うのはなかなか難しい。21世紀的な表現者は、誰もがこの事に躍起になっています。フレッシュネスですよね。総ては過去の物だとしても、フレッシュに出会いたい。街を歩いているのは全員人類で、過去に生まれているけど、人は恋したい訳です。

『アフロ・ディズニー』はそこにあえて体質が戻るのは無理だとしても、考え方だけでも一回戻ろうという。音楽にくっついている付帯的な教養とかそういうものを全部外して考えたときに、そもそも耳と目は器官としてまったく性質が違うというとんでもないところまで戻って考え直すと。要するに代理店的な……博報堂の人を前にして「代理店的なやり方」と言うのはどうなのかと思いますけど、代理店的なトレーディングということをやめて、以前の生々しい状態、原始的な状態に身を置いて、ゼロからもう一回20世紀の文化を考え直す。でも、おそらく現状のトレードはこれからも続きます。例えば、とんでもないアートフィルムにAKBが流れたら「やったね」とか、「ねらい過ぎ」とか。すぐに評価が出る。スポーツの技術点みたいに。でもそれらの手の間から滑り落ちてくる情報があって、何だか知らないけど、これいいな、というようなパワーみたいなのが残ると思うんですよね。それは20世紀がつくり上げてきて情報のトレーディングでは取り扱えない領域なんです。言ってしまえば、すごいシンプルなことなんですけど。