タイトル
「ダサい」って何か?
著者 / 話者

音楽、映画、文学、映画、などなど、様々なジャンルを横断して精力的な批評活動を続けている佐々木敦さん。無数の作品を見聞きしてきた佐々木さんが考える、流行とダサさのメカニズムとは?

静止したカルチャーの時空の中で、我々は次にどこへ行くのか

★ダサさと時代性

「以前はカッコいいと思っていたものが、ちょっと経ったらダサくなった」というとき、まず考えるべき重要な点は、その「ダサくなっちゃったな」と思っている人の年とか世代についてだと思うんです。例えばコギャル的な文化に対して、今それを見て、「うわぁ~、これはありえねぇ~」と思う人というのはコギャルだった人である可能性がすごく高い。これって、単純にそこで起きている流行現象の中身について言っているというよりも、やっぱり過去への嫌悪なんですよ。というより、「今の私は過去の私じゃない」ということを言い換えているということにすぎない場合もある。それは別にコギャルだけじゃなくて、誰でもそういう部分を持っているはずです。要するに「あの頃は青かったな」とか、そういうことですね。
 そして、もうひとつは、「昔カッコイイと思ったのは何でなのか」ということ。つまり、カッコイイと思ったこと自体が間違っていたのかもしれないっていう。もともとダサイかもしれないものが、何かの理由でいろいろな条件が揃ったときに、集団催眠みたいに「カッコいい」と思っちゃったけど、よくよく考えたら元から全然カッコよくなんかなかったよねということもある。
 それをさらに裏返すと、ということは、昔カッコいいと思って、今はダサイねというのも、10年、20年たったら、また、カッコイイことになりかねない。流行って、同時代性と、「ある世代」に拘束されているので、その世代にとってどういう感覚なのかということが重要だと思うんですね。

★流行とは、ナニモノなのか?
 20年周期説と、それが止まった2000年代

じゃあ、流行現象がどういう風に起きているのかってことなんですが……、僕は5~-6年以上越しに、実は一冊の本をずっと準備していて。それは90年代論の本なんです。何で90年代論なのか?というと、「準備しはじめた当時、世間が80年代ブームだったから」です。
 2000年代の半ばぐらいから、80年代リバイバルみたいなことが音楽とかファッションとかカルチャー全般でどんどん起きてきたんですね。特に僕にとっては、音楽がとても身近なジャンルなので、そこでの80年代ブームのようなもの、ポストパンクとか、ニューウェーブと言われるような70年代の終わりぐらいから流行っていたような音楽がすごい勢いで復活して、その頃に活躍していたアーティストもバンバン戻ってくる中、更にそれらの音楽に影響を受けた同時代の、つまりゼロ年代のバンドが国内、国外ともにいっぱい出てきたことに注目していました。
 結構「80年代はすげぇ~」みたいな感じで浮足立っている感じがあって。これは、もしかするとファッションなんかだと常識の一つかもしれないですが、「流行」って、結局20年周期ぐらいでグルグル回っているという話がある。何で20年周期で回るかというと、単純にその流行現象が起きているときに若者だった人が、20年後流行をつくる側に回るからだ、と。影響を受ける側から影響をつくり出す側に回るのに20年間かかるから、常に世の中は20年前スパンで流行が反復され続けていて、それがあるとき、かなり際立った形でゼロ年代の半ばに80年代ブームとして出ているという感じがしたんですね。そこで、天の邪鬼的な発想で、だったら、先に90年代を先取りしちゃおうと。「90年代について考える」ということをやったほうが、逆に、80年代ブームたけなわの中で目立つんじゃないか。そして、もうちょっとすると80年代ブームが終わって90年代にたどり着くから、それの先鞭をつけておこう。そう思っていたはずなのに、気がついたら完成しないままゼロ年代が終わっていったわけですよ。
 ゼロ年代が終わって――今2013年ですよね。その今、実際に90年代ブームが訪れているのかというと、別に訪れてない(笑)。
 先ほど言った、20年周期で回っている論は、それが顕著になった2000年前後の80年代ブームの以前から脈々と、実感としてもあったんですが、それが実はいま止まっている気がするんです。2010年代になって、今2013年になっても、まだ、ある意味で80年代ブーム的なものが続いているというような。
 これは、ある程度マクロな意味での流行の話です。流行という意味では、20年ぐらいのスパンで反復しながらも、別に全く同じ意味でリバイバルし続けているわけではなく、そのときそのときの同時代の人が20年前のことに影響を受けて、その時代でしかあり得ないことをやることによって歴史が更新されていく。何か渦巻き状になっているというイメージが、これまでは確かにあったんですが、それがゼロ年代の後半からちょっと壊れているのかなという認識があります。

その一つの理由としては、直近の過去で、日本が一番豊かだったのが80年代なので、その80年代に対するノスタルジーというか、80年代アゲインみたいな気持ちがあったり、景気や豊かさが回復しないと、ずっとその頃への憧憬が残り続けちゃうということかなとは思うんですね。だから、アベノミクス次第によっては、もしかしたら90年代ブームも来るのかもしれない。

でも、もう一つもっと大きな問題として、全ての進化が一度飽和して止まったからではないか、と思っています。そしてもしかすると、その契機が、90年代あたりにあったのかもしれない。

★90年代~ゼロ年代に何が起きたのか

どんなカルチャーでも、実は90年代にすごくたくさん、いろんなもののタネがまかれています。実際、じゃあ何が起きたのかというと、コンピュータとインターネットが準備されたということなんですよね。
 マッキントッシュのパワーブックみたいなラップトップ型のコンピュータがどんどん高性能になってきて、それを使っていろんなことができるようになった。例えば絵を描くということひとつ取っても、以前は、修練とか、努力とか、ある程度の時間をかけたディシプリンが必要だったんだけれども、それらの一部をだんだん機械がやってくれるようになってきた。さらに、インターネットを媒介にして、そのテクニックみたいな情報をやり取りするようなコミュニケーションがすごい勢いで進化しましたよね。
 そうすると、音楽なんか典型的なんですけど、楽器がそんなに弾けなくても、コンピュータをプラットフォームにして、自分で作曲するという人がすごい勢いで出てきて、みんなめちゃくちゃうまくなっちゃうわけですよ。みんなが同じコンピュータを買って、使い方を覚えて、ある程度ノウハウを調べたり、ちょっと音楽を聴いたりすれば、10年前だったら自分で相当努力しないと達成できなかったような音楽を結構つくれるようになっちゃった。これはたぶんアニメーションでも、映像の世界でも、マンガとかでも全部同じでしょうね。そうすると、技術的な意味での底上げがされて、みんなめちゃくちゃうまくなるんだけど、その分、みんな似てきちゃうんです。
 そういう、テクノロジーを活用したカルチャーの水準向上みたいなことが、90年代からはじまって、ゼロ年代過ぎぐらいにはもう、かなりマックスになっていたと思います。そうすると、「絵がチョーうまいね」というようなことは、もうあんまり売りにならない。みんな、自分の描きたい絵をわりと簡単に描けちゃうし、どこかから引っ張ってきてちょっと借りてもいいわけだから、絵のうまさみたいなことと、従来の意味での個性みたいなものは、一回フラットになってしまう。そして、みんなが横並びの中からどうやって頭一つ出るのかということを、いま、いろんなジャンルの人が考えていると思うんです。
 そこで、本当に際立ったセンスがあるやつが残るかというと、実はそうでもなくて。一種特殊なセンスみたいなものは、昔に比べると、むしろ、すぐ淘汰されるというか、忌避されてしまうような雰囲気がある。多数を味方につけながら――ある意味では、ほかの人と同じようなことをやっているという前提を持ちながら、ほかの人よりも目立っていかなければならない。
 そうなってくると、例えば絵だったら、もう絵そのものの力じゃないんですよね。絵というものの外側で、自分の絵をどういうコンテクストの中に置いていくのかということになっちゃうんだと思う。

僕、80年代からずっと音楽のライターをやってきて……90年代は特にいろんな音楽の進化って早かったんですね。いろんなブームがどんどん出てきて、ダンスミュージックの時代でもあったから、クラブ系の音楽がすごい勢いで更新されていった。
 それがゼロ年代に入ると、モダニズム的な、より新しくより先端的なものが出てくるという運動がすべて止まってしまって、今度は横一線に、過去の意匠がテンプレート的にぜんぶ並んでいて、これを取るかな、それともこっちを取るかな、という選択の問題になってきたような気がするんですよね。それは結構あらゆるジャンルでそうで。そこから先は「先端」とは異なった形でスターが生まれているような気がするんです。
 音楽や絵柄そのものが新しいとか、斬新だとか、それ以前と全く違うという感覚は全然なくて、むしろ、過去の何かに似ているんだけど、でも、プレゼンテーションの仕方とか、受容のされ方自体が以前とは違うものが良い、とされるようになった。

そういえば、少女漫画なんかで、萩尾望都とか、それよりは年下だけど、吉田秋生とか……いま、年齢で言ったら60歳代ぐらいの少女漫画家の人たちって、結構みんな現役なんですよ。大島弓子とかもそうだけど。実は、彼女たちって、サブカルチャーの流行現象がものすごい勢いで更新されていくということが始まってない頃にデビューしているから、普遍的なんですね。ある意味ではずっと一回も流行に乗ってないという……(笑)。

★どういうものが、致命的にダサくなって戻って来られないのか?

少し前まで、小室哲哉や浜崎あゆみのような音楽が流行って、CDがどんどん売れていた頃は、これから、演歌が滅びていくだろうと言われていたんですね。実際には、そんなに滅びなかったんだけど。
 演歌のCDを買う人は、どう考えたってこの先の未来、減るに決まっているわけです。それはまさにある世代と同一化していて、演歌を歌ったり聴いたりするのを好む世代はこれからどんどん死んでいくわけだから。ということは、今からウン十年たったら、おばあちゃんはハマアユ(浜崎あゆみ)とか聴いてるのかなって思ったわけです。
 たとえば僕今48だけど、僕もあと十数年たったら、急に演歌ってやっぱりいいな~って思い始めるのかなというと……、思うかもしれないけど(笑)、少なくともほかの音楽を全部捨てて、やっぱり演歌が日本の心だ! なんて、普通に考えたらありえない。そう考えていくと、ある世代と紐付いた、ものすごく大きい意味での「コンテンツの終わり」というのはやっぱり幾つかあるはず、とは思うんです。
 でも演歌って、滅びると思った割に、むしろゼロ年代は復活してるぐらいなんですよ。それは、ほかのCDがものすごい勢いで売れなくなってきたからなんですが。これはもう、おそらく民謡的な、本来の意味でのフォークミュージック的なものに演歌はなってきているのかもしれない。全く知らない演歌歌手の全く知らない歌でも、要するに全部似ているから。コブシ回っていたりとか、歌われている世界も同じなので、それにリアリティーがなくても、一種の文化財みたいなものとして、もしかすると続いていくんじゃないのかなという気はしていますよね。むしろもっと危ないのは、いわゆる昔のアイドル歌謡的なものとかなのかなあ。
 どういうものが、「致命的なダサさ」として復活できないのかと考えると――、例えば90年代の小室系の音楽は、彼がもとにしたもの自体が、海外のチャラいダンスミュージックだったりするわけです。
 ああいうのって、今聴くと、楽器の音がどうしてもダサい。特にシンセの音はあり得ないぐらいダサくて。それさえ差し替えれば、結構今でも通用するかもしれないんだけど、その音だけでアウトだなって感じのものが結構多いんですね。特にデジタルの楽器の音って、すごい勢いで進化しているから。その音のモードや形式というよりも、純粋に本当に耳に入ってきたときの音響感みたいなものは、かなりローファイに聴こえるし。「ローとして良い」と思えない限り、今のほうがいいに決まっているわけですよ。だから、そこにはなかなか戻らないような気する。

★ダサくならないために目指すものは

例えば中田ヤスタカの音って、いまのデジタルサウンドの音色的な進化の中で最先端だと思うんですね。いま、一番センスがいい、耳ざわりもいい、誰にとってもかっこいいし、ポップだと思えるような音色が中田ヤスタカで完成している。
 音楽の流行みたいな部分でいうと、今後の注目は「中田ヤスタカはいつダサくなるか」ということかもしれない(笑)。
 実際に、そうなる瞬間は、必ず来るとは思うんですけど……ただ、シンセの音的な、デジタルな電子音の進化のモードの中で、中田ヤスタカをダサくさせるような、「より新しくてかっこいい音」っていうのが、この後本当に出てこれるのかなというのは結構疑問がありますね。中田ヤスタカって、そういうことを相当考えていると思うので。

中田ヤスタカって、「何かに似る」ということを恐れてない感じがするんですよ。彼の曲って、基本的には、90年代からゼロ年代の前半ぐらいまでに流行ったエレクトロニクスな音楽の一番おしゃれなモードみたいなものをそのまんま取ってきているのと、そのさらに背景には、80年代のYMO、90年代前半のピチカート・ファイブみたいな要素もすごく強く入っていて、本当の意味で、実は全然新しいことをしてないんですよね。その「新しいことをしてない」という潔さと、新しいことをしなくて曲をつくっている意味での完成度がとにかく極めて高いので。
 しかも、彼は自分の音楽をリバイバルするみたいなことに関しても、わりと意識的にやっていると僕は思っています。きゃりーぱみゅぱみゅのアルバムが一番いい例かもしれない。このアルバム、僕は中田ヤスタカの最高傑作じゃないかと思っているんだけど……きゃりーが歌っている曲って、そのどれもがCapsuleとかPerfumeとかで、かつてあった曲にすっごい似ているんです。メロディーも何もかもがです。それは見方を悪くすると、中田ヤスタカも、もう使い回しに入ったかと。もう自分の新しい曲をつくれなくなって、昔の自分の曲の焼き直しだよねというふうに言われてもおかしくない。でも、僕は、中田ヤスタカはこれをわざとやっていると思う。彼は自分の得意なものがはっきりわかっているから、それをとにかくリモデルするということを、あえてやっている。似てるって言われたら、「それはそうですよ。だって、もとは同じ曲だもん」みたいなことを言ってもいいぐらいのレベルです。それでどれだけ受けるのかということを試しているような気もしていて。それは逆説的に、より新しい音楽をつくろうとする態度よりも新しいんじゃないのかなという気はしますね。
 だからこそ、もしかすると古びないかもしれない。態度として新しくあろうとすればするほど、いずれ古くなってしまうんですよね。

★自分の知らない過去のものは、「未来のものと同じ」
 ほんの少し前もののほうが、圧倒的に古い

今の若者たちって、当たり前のようにインターネットでどんなことでもすぐに検索できて、自分が生まれるよりもずっと前の出来事を簡単に知ることができますよね。だからこそ、実は彼らにとって、「自分が知らない過去は未来と同じ」だと思うんです。

いま、自分が出会ったものは、たったいま知った、「新しいもの」。今の学生ってほぼ90年代以後生まれだと考えれば、80年代のものでさえも生まれる前の未知のものなわけです。そういう感覚はこの10年間ですごく行き渡った気がしますね。いま、若くて音楽好きなやつほど、今の音楽を聴いていなくて、大抵ずっと昔の70年代、80年代の音楽をすごく掘って聴いている。それは彼らにとっては、当然のことながら、ノスタルジーの解消じゃない。むしろ新しい音楽なわけですよ。
 だから逆に、いま若い子たちにとっては、5年前とか10年前ぐらいの、自分の物心ついてから出会ったもののほうが、生まれる前のものよりも圧倒的に古かったり、ダサかったりする。

いま、すごく飽きる速度が速くなっているということもあると思います。夢中になるんだけど、熱しやすく冷めやすいという日本人的な感性が、インターネットによって以前よりもっと加速し、あるいは強度を増したのではないでしょうか。
 しかも、「自分が飽きた」というよりも、「これはもう飽きないといけないものなのではないか」という無意識の集合による要請のようなものが、インターネット上に蔓延していると思います。いわゆる「オワコン」という言葉がその象徴でしょう。もし、自分が今ハマっているものが、もうオワコンだったらどうしようというような無意識のおそれがあって、その恐怖感によって、「先に行っちゃったほうが勝ちだ」的なことになってくる。それが加速していますよね。

もうひとつ、僕はアニメってほとんど見ないんですけど、アニメ好きな人間もうちのスタッフにはいて、彼らに話を聞いていると、一昨年にあった「まどか☆マギカ」みたいなウルトラヒットなアニメが去年のTVシリーズにはなかったと。
 なぜかって言うと……、いま、最初にみんなが「これ結構来てるよ」とかいうことを言い始めるのは当然ネットですよね。そうすると、必ず誰かがかなり早い時点で「これはステマだ」と言い始めるという(笑)。
 これまでの、インターネットでいろんな人が面白がっている発言が、だんだん大きくなって、ある臨界点を超えるとマスの流行現象になるというヒットの流れが、「ステマ」という言葉の登場によって不発になってしまう構造が生まれているんじゃないか。
 ネットで、「人より分かってるオレ」を演出したいとき、一番いいのは否定の身ぶりなんですよね。だから誰より先に「おれ、こんなのもうつまんなくなった」と言って、「オワコン」と言うか、「ステマ」と言うかっていう――この2つの殺し文句をどのタイミングで出してくるのかという冷や水掛け競争になってしまっている。
 やっぱりどこかで受容する側の気持ち次第みたいなところがあって、「オワコン」「ステマ」と言っているうちに、本当にその対象物が「ダサく」見え始めてしまうし、製作者も実際、そういう反応を見てモノをつくっているわけなので、完全にフィードバックになってしまっていて。そういう意味では、エンタメ系のコンテンツって、ここまでネット上のコミュニケーションが肥大し切っちゃうとまずいんじゃないのかな……。

★教室の中での「ダサい」って?
 今の時代らしい「人気者」の正体とは何なのか

日本のアイドルって、AKBが象徴的ですけど、結局、頑張っている様子にみんなが萌えていますよね。だから、うがった見方をすると、「頑張って見せている」部分があるわけです。それは伸びしろの問題であって、努力し甲斐がなければその姿は美しく見えないから、「踊れなかった曲を踊れるようになった」というのにみんな感動する。ところが、たとえばK-POPの人たちって、デビューする前に全て完璧になっていないと、そもそも出て来られないような構造になっているから、その上で勝負するんですよね。この違いって、日本と海外のショービジネスということでも違うと思います。日本の、とても特殊な部分でしょう。日本って応援文化で、さらに言えばみんなで応援して騒ぎたいという、応援×祭りみたいなところが強烈にあると思うので。それって、学校の中での人気者みたいなことでも、結構あるんじゃないでしょうか。
 昔は――、例えば80年代ぐらいまでは、クラスの中で人気のある人って、スポーツができるとか、かっこいい、可愛いとか、勉強ができるとか、わりとわかりやすい特性を持っていたんだけれども、それがだんだん……いじめとかとも関係すると思うんだけど、輪の中で突出すること自体がどちらかというとネガティブなマーケティングになってきたんじゃないか。恐らく、90年代以降の日本がどんどん不況になっていったこととも関係あると思うんですが、同調圧力的なものが強まるとともに、上であろうが、下であろうが、いわゆるマジョリティに属さないものは排除されていくという構造が生まれてきたとき、どういう人が人気が出るかというと、「共感モード」になれるかどうか、というところだと思うんですよ。つまり、「私たちの気持ちを代弁してくれている人」みたいな。それこそ浜崎あゆみとかはそうだったんだと思うわけ。あるいは安室奈美恵なんかもそうだと思うけど。
 そういう、友達の友達みたいな感覚の最後の決着点がAKBですよね。AKBって、あそこまで人数が多いと、東京都内でそれなりにいけてる10代の子なら、もう友達2人ぐらいはさめばAKB関係の知り合いがいると思うんですよ。スモール・ワールド・ネットワークみたいなもので。これこそが、共感モード、つまり「普通的なこと」の完成形です。次はまた――その先で、変わってくるような気もするんですよね。今のままだと、誰でもいいことになっちゃうから。そこで、そろそろまた、誰でもはあり得ない、「特別な感じの人」というほうにもう一回振れるのかどうか。

★「特別な国民歌手」としての最後の存在だった宇多田ヒカル

90年代の末に、小室が消えていったきっかけは、安室が出産で1年間休むということなんですけど。その間に何が起きているのかというと、モー娘が始まるという一方で、宇多田ヒカルが登場したということがあった。彼女は、98年にデビューしたときにいきなりもうすごくなっているわけですよ。
 僕が今準備している『ニッポンの音楽』という新書の中では、宇多田ヒカルのことを「最後の国民歌手」と呼んでいます。それは美空ひばりが国民歌手だったのと同じような意味として、日本全国の老若男女みんなが熱狂するようなスターは、宇多田ヒカルが今のところ最後だということ。以後は、スターはみんな友達になってしまった。宇多田ヒカル的な、明らかに際立って才能があって、誰もが認めざるを得ない人が、この先また出てくるんだろうか、って考えてしまいます。
 この10年は、そういう人ほど抑圧されるという感覚があったと思うんですよね。アイドルなりタレントなりの、人気者の平準化がひとわたり行き渡った後で、もう一回カウンターが起きてくるのかどうか? というのがこれからの見どころかなという気がします。ですが、正直なところ、この先に、時代を代表する人が出てくるかどうかは、音楽の進化ということとは別に、状況として結構難しいんじゃないかなぁ。よっぽど今までとは全く違う文脈でしか出てこられないと思いますね。ある意味では宇多田ヒカルの後の国民歌手は初音ミクだったかもしれないというね……。そういう風にずらしていかないともう考えられない。

スターになるために必要なものは、個人の才能とか魅力の問題じゃたぶんもうないんだと思うんですよね。90年代ぐらいまでにスターだった人たちと同じぐらい才能がある人なんて、今だっていっぱいいると思う。でも、それだけではもうスターになることができないような構造になっているから、かつてに戻るということとは別の形でアップデートしないと、この状況は絶対変わらないし……たぶん、もう変わらないんじゃないのかなという……(笑)。

その点、今の時代に、レディー・ガガが出てきたのはすごいと思います。でも彼女も、音楽的にも、イメージのつくり方も、マドンナのリメイクだって言われていて。マドンナもレディー・ガガをDISったりしているわけですよ。
 そこで、レディー・ガガは「マドンナとなんか似てないわよ」とは言わずに、「マドンナのこと超リスペクトしている」って言うのがいいんだよね。つまり、これは人柄だってことなんですよ。
 彼女の音楽だけ聴いたら、それだって、どこかで聴いたような音楽だなと思う。でも結局、アーティストって、音楽だけで勝負しているわけではなく、あらゆるキャラクターも込みで消費されているので。今っぽいモードの中で出てきたスターだと思いますね。レディー・ガガは、あんな突飛な格好をして、結構とんでもないこともやるけど、ツイッターではチョーいい人みたいな(笑)。そこで何かバランスがとれているように思う。

★飽和によって、「ダサい」は止まったのか?

今のような「カルチャーが止まった」状況は、ある意味悪条件が重なってそうなったのかもしれない。日本でバブルが弾けたのは91年ということになっているけれども、実は音楽業界とかエンタメ業界って、90年代後半ぐらいまではまだバブルの延長なんですよね。小室なんて、バブル的な音楽以外のなにものでもないのに、98年ぐらいまでめちゃくちゃ売れているわけだから。しかし、それもタイムラグにすぎなくて、「失われたウン十年」と、日本の大衆文化の成熟がマックスまで来たことと、インターネットの登場が全部重なり合って、新しい先端的なモードの更新は難しくなってしまった。
 それは日本だけの問題ではなく、洋楽的なものも同様です。洋楽もゼロ年代に入ってからは、80年代リバイバル的なものがすごく増えたので。
 僕はわりと開き直って、要するに、人類がつくり出せる芸術の一通りを、もうすでに何千年か使ってやりきったのではないかと思っている。この後はそうそう出てこなくてもいいのかなと。特に、音楽のメロディーに関しては、聴いたことないものなんて、もう絶対につくれないと思う。作曲家本人は新しいものをつくったつもりでも、必ず誰かが何かやっているぐらいのことだと思うんですよね。
 僕はわりとファンタジックに今でも聴いたことねぇような音楽を聴きてぇよって思っているけど、そんな音楽、もう10年以上聴いてないから(笑)。そう思った上で、別の意味で自分にとって新鮮なものを探していかざるを得ないというのは、僕に限らず結構みんなそうなんじゃないのかな。