タイトル
「うた」の機能
著者 / 話者

中国的な自伝、日本的なネットワーク

司馬遷の『史記』は、歴史書であると同時に歌のアンソロジーでもあり、そのことがこの書物に光彩陸離たる外観を与えている。例えば、秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻の伝(刺客列伝)においては、「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去って復た還らず」という有名な歌のくだりが最大の見せ場となっている。司馬遷は、この芝居がかった歌に、荊軻の人生のクライマックスを指し示す役割を与えたのだ。
『史記』には、これ以外にも沢山の有名な歌が含まれている。特に「力山を抜き気は世を蓋う、時利せずして騅逝かず、騅逝かざれば奈何せん、虞や虞やなんじを奈何せん」という項羽の「垓下歌」の悲痛な絶唱や、「大風起きて雲飛揚す、威は海内に加わりて故郷に帰る、安んぞ猛士を得て四方を守らしめん」という劉邦のおおらかな「大風歌」は、日本人にも長らく愛されてきた。興味深いことに、職業詩人ではない軍人や政治家、暗殺者の詩こそが、ひとびとの心を鷲掴みにしたのである。逆に、もしこうした歌唱がなければ、彼ら歴史上の人物についての記述はずいぶんと味気ないものになったに違いない。古代の中国人にとって、詩はいわば、政治的行為に威信や共感、人間味を注ぎ込むブランド化の装置であった。
さらにここで注意しておくべきは、項羽と劉邦の歌唱がたんに漢楚興亡の歴史のクライマックスを示すだけではなく、英雄自身による一種の自己回顧にもなっていることだろう(力山を抜き気は世を蓋う/威は海内に加わりて故郷に帰る)。彼らの生涯や人柄は、その演劇的な歌唱において最も鮮明に示される。司馬遷による三人称の冷静な筆致は、「うた」の瞬間だけ、一人称の情熱的な声に譲り渡される。それによって、『史記』の読者は、過去の英雄から放たれる実に生き生きとした肉声に触れた気になれるわけだ。『史記』の帝王の歌は、彼ら自身の激動の人生を要約した、いわば自伝的なメディアなのである。司馬遷は、英雄を後世の一方的な評価に晒す前に、まず彼ら自身をして語らしめようとしたのであり、そのためには彼らの口から出た文学的な言葉(詩)を採用するのが最も効果的だと考えていた。この点にこそ、司馬遷の歴史記述の特異さを認めることができる。
しかも、項羽や劉邦の歌唱は、自らの生涯が歴史の大きな波濤を生み出したという強い自負に満ちている。宴席で歌われた彼らの大振りな自伝的歌唱は、一個人の人生を遥かに超えた、新しい歴史の開幕(あるいは古い歴史の閉幕)を聞き手に強く印象づけるものだ。中国には、ギリシアやローマ、インドの神話に匹敵するような、叙事的で長大な神話が存在しなかった。その代わりに司馬遷は、神ならぬ現世の人間たちが歴史の創造と破壊にチャレンジする様子を、深い共感とともに描いたのである。中国では史書が神話の代替物となった。そして、その中国的な神話体系において、「自伝としての歌」はミクロの人間とマクロの歴史を結びつける仲介の機能を帯びていた。

こうした中国の事例に比べれば、日本の帝王の歌は遥かに慎ましやかである。例えば、『史記』から八〇〇年以上後に編まれた『万葉集』巻頭の雄略天皇の御製と伝えられる妻問いの歌「籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも」について、もともとは新春の春菜摘みという神事(予祝芸能)の歌であり、それが相聞(恋歌)的な性格を含むようになったのではないかという推測がなされている(白川静『初期万葉論』参照)。その解釈が正しいかどうかは私には判断できないが、儀礼的・祭式的性格の強い歌であることは間違いない。『万葉集』の編者は、天皇が率先して儀式や恋に関わる歌を詠んだ、という設定を作ったのである。
遥か後、近代国家の元首となった明治天皇についても、その御集には「をさまれる世世のためしを都人ひなもろともにいはふ春かな」「あらたまのとしを迎へて万民ひとつ心に国いはふらし」など、過去に先例のない社会に放り込まれた人心を鼓舞し、連帯意識を確かめるような若々しい新年の歌、あるいは「武蔵野は雪とけそめてあらこまのいななく声も春めきにけり」「たかどのにのぼれば遠き品川の台場もみゆる秋の夜の月」「北支那の山のとりでをもる人も年のはじめの御酒やくむらむ」など、国家の新しい要所を顕揚するような歌が収められている。歌に地名を詠み込むというのは、その土地に恩寵を授け、永続性をこいねがうこと、つまり一種の霊的な行為だと言ってよい。明治天皇の歌においては、天皇=共同体の祭祀の長という古代的性格がなお失われていなかった。
日本は、中国から学んだところと学ばなかったところがあるが、帝王の歌はおそらく後者の事例だろう。古代中国の帝王の自伝的歌唱からは、強烈な人間主義が匂い立つ。そこには、巨大な歴史を叱咤し、時勢に抵抗してでも進み続ける人間こそが世界の根源であるという、まことにダイナミックな思想がみなぎっている。それに対して、日本の帝王の歌においては、巨大な歴史を創造しようとする意志の代わりに、日々の小さな奇跡を皆で噛みしめ、それを永遠のものにしようとする祈りが強調されている。共同体の方向性を確かめ、成員の敵意や反感の芽を前もって摘み取り、大地のとこしえの生命を願うこと、これこそが日本的な「うた」の基調音ではなかっただろうか?

さて、歌が「祭式」の一種であるとするならば、それがやがて、もう少し日常的なコミュニケーションの道具に変わっていくのは半ば必然だろう。もちろん、社交の重視は日本の歌だけの特徴ではない。中国の古典詩も、官僚どうしの社交の道具としての性格を備えていた。しかし、中国の詩がもっぱら政治的エリート(士大夫)によって担われていたのに対して、日本の「うた」については、古くは宮廷の女房たちによって美的に洗練され、後には民衆的な遊戯の世界(連歌や俳諧)へと徐々に降りていったところに特色があると言えるだろう。
民間における「うた」のネットワークは、特に徳川時代に活性化した。池上英子『美と礼節の絆』によれば、徳川時代において、民衆のあいだには趣味に基づく「隠れ家的」な交際文化が広がっていた。池上はそれを「美の公共圏」と呼んでいる。幕府は政治的結社(徒党)を禁じる一方で、民衆が趣味の結社を作り、芸能あるいは芸事のネットワークを組織することには比較的寛容だった。堅苦しい封建的=政治的身分制の外部において、趣味のネットワークはひとびとが柔軟に(美的に)アイデンティティを追求できるようなコクーン(繭)を提供したのである。
その際に、茶の湯、生花、連歌、能などに加えて、とりわけ俳諧サークルが果たした役割は重要であった。俳諧サークルは、大都市に限らず地方の農村にまで広がり、その土地の教養や文化のインフラになったのである。それは当初は政治色の薄いものであったが、後には、明治維新の先駆けとなった幕末の国学の地盤にもなっていく。例えば、島崎藤村の大河小説『夜明け前』は、まさにそうした地方の状況に立脚していた。『夜明け前』の主人公である長野県木曽谷の豪農・青山半蔵は、平田派の国学に感化され、明治維新の運動を支持することになるが、この地域の政治活動のルーツは徳川時代の俳諧サークルにまで遡ることができる。統治権力に干渉されない趣味的なサークルというのは、幕末の人間にとっての理想的な「ソーシャル・メディア」だった。
昨今の「地域主義」に必要なのも、楽しみながら参加できる、趣味的かつ教育的なインフラ(=美の公共圏)の整備だろう。言い換えれば、俳諧サークルのような「うた」の共同性だろう。よく言われるように、日本は宗教の結集力が弱く、家族的ネットワークも貧相になり、その結果として多くの中間共同体の絆が失われている。こうした状況下では、ひとびとを集わせる装置はもはや美=趣味の公共圏くらい残されていないのではないか?それはまた、徳川時代の「美と礼節の絆」を復活させることを意味するだろう。良くも悪くも、日本の共同性は美的なものなのである。

歌は歴史と人間をがっちりと結びつけるものなのか(中国的な自伝)、それとも歴史や統治権力とは無関係に、ひとびとを美の公共圏に招き入れ、自由に自己追求させるための素材なのか(日本的なネットワーク)。この問いに唯一絶対の正解は存在しない。ただ一つ確かなのは、私たちが「うた」と決別する日はまだまだ遠いということである。
むろん、近代人である私たちは「散文の時代」――言葉が装飾的・呪術的なものから道具的・論理的なものに移り変わる時代――の住人である。しかし、だからと言って「うた」がすべて消滅するわけではない。それどころか、無味乾燥な政治的行為に人間味や共感を与えたり(ブランド化)、あるいは「美の公共圏」によって地域振興を促したりする仕事(ネットワーク化)、要するに従来の「うた」が担ってきた仕事は、どこかで補填されなければならない。結局のところ、現代社会は今なお「うた」を必要としているのだ。