タイトル
逃げたテナガザルを発見するのはだれだ!
著者 / 話者
郡司ペギオ-幸夫

1 見にいくということ

先日街を散歩していると、電柱にテナガザルがいるではないか(図1)。これは大変と思って近づいてみると、電柱に絡まっているのはガムテープだった。塀の向こうの建築現場あたりから飛んできたものが、妙にうまく貼りついたらしい。

わたしは、この手の、いわば街角のドウブツたちを見つけるのが、実は好きだ。ビルに設置してある横列二つ口の消火栓が、二つの蓋を鎖で繋がれていると、そこにはネコが発見される。ペットボトルを捨てる二つ穴のゴミ箱には、カエルが発見される。網膜に映じられた対象は、脳のどこかで、適当に粗視化され、グルーピングされて、オリジナルな対象とは無関係なものに変容し、発見されていく。枯れ尾花に幽霊が見出され、外国語のハードロックが日本語に聞こえる。この発見の馬鹿ばかしくも愉快な感覚は何だろう。口をあけて微笑みを浮かべたまま、動悸が激しくなる。

図1. 神戸市中央区の路上にて

このテナガザル現象を、「世界に存在する対象が、正しく認識できず、誤った解釈をしてしまう」ことに起因する、といってしまっていいのだろうか。世界に存在する対象を正しく認識できないという現象が、もっと人間の知覚の根本レベルで実現されるとき、それは錯視や錯聴と呼ばれる。ミューラーリヤー図形(図2)は、錯視の例の一つだ。両端にある矢羽に挟まれた二本の線分は、長さが同じである。しかし矢羽の向きが内向きか外向きかによって、線分の長さが違うと知覚される。この場合、人間の脳に或る種の機械的な誤作動が含まれており、我々は、受動的にこの錯視を受け入れるしかない、かのようだ。二つの線分は同じ長さだと思ってみても、知覚の頑迷さにどうすることもできない。

図2.ミューラーリヤーの錯視

錯視に比してテナガザル現象は、機械的頑迷さをもち受動的だ、というわけではない。ガムテープだと思えばガムテープである。それは、テナガザルと思いたい、という能動性要素さえ持ち合わせているのではないか。田舎の小学生だったわたしは、田んぼの周りの水路で、フナやドジョウを採っては遊んでいた。「よつで」と呼ばれる網をしかけ、水路の水際を竹ざおでまさぐり、叩いては、小魚をよつでに追い込んだ。そんな或る日、水底をつつく竹ざおに、固い大きな塊の感触が伝わってきた。誰かが、底に大きな亀がいる、と叫んでから、それは、決して動かず浮上せず、じっと我慢している、巨大亀ということになった。誰もが、これは大きな土管ではないか、とぼんやり思いながら、誰もそれを口にしない。そうして毎日のように出かけては、巨大亀の捕獲に躍起になった。皆それがカメであることを楽しみたかったのではないか。そういう能動性が、テナガザル現象や、空耳アワーの愉悦を支えている。
では、錯視とテナガザル現象は明確に分離できるのだろうか。世界に実在する対象から受動的に見えが成立してしまう場合と、「見にいく」ごとく見えを呼び込み、積極的・能動的に誤解する場合とは、明確に分離できるのだろうか。もしそうなら、錯視的状況とテナガザル現象的状況を区別し、後者の局面において、真の対象と、見えとを明瞭に分離することが可能だろう。果たして、そうではない。我々は分離できているつもりで混同し、むしろ両者の未分化な只中にいる。真摯に、虚心坦懐に見るつもりで、見に行ってしまい、あえて見にいくつもりで、受動的に見えを受け入れている。見ることは、常に、表現するという能動性を伴っている。この、両者の未分化性の中にあって運動し続けるものこそが、生命と呼ばれるものである。未分化性とはいかなることか、それはどのように生命を突き動かすのか。以下でそれを眺めていくことにする。

2.非言語的道標:集合の両義性

真の対象と、解釈という二つの階層は、ものの集まりを考えた途端に出現する。そのうえ、二つの階層は未分化性を担う。このことについて道標を例に考えてみよう。ただしここでは、非言語的で、記号の共通理解を一切もたないような道標を想定する。通常我々が目にする道標は、ローカルな或る空間領域を代表する何かであり、個別的な指し示しを担っている。道の横に立てられた案内図は、その案内図の立った場所周辺の情報を持っていると想定され、かつ案内図に描かれた記号は、その場所周辺の細目を指し示している。つまり、言語的な道標は、領域全体を指し示し、かつその詳細を指し、二つの階層は区別できる。非言語的道標にあって、我々は両者の未分化性に直面することになる。これを論じるため、簡単な準備をしよう。

図3. 集合AとBの関係

まずモノの集まりというものが持つ階層についてみておこう。モノを要素、要素が集まったものを集合という。図3上図は集合AとBが有している関係を表している。集合Aの要素は数字の1と2、集合Bの要素は、数字の2と3である。つまり要素2は、集合AとBのいずれにも属している。このように集合AとBの両者に属する要素を集めた集合を、「AとBの交わり」という。また集合AとBの要素をもれなく集めた集合を、「AとBの和」という。いま、AとBの和の要素は1,2および3である。
ここで、集合Xに属している要素が、すべてYに属しているとき、「XはYに含まれる」ということにする。含まれる集合を下位に、含む集合を上位にして線で結ぶとき、4つの集合、A、B、AとBの交わり、AとBの和の「含まれる」関係は、図3下図のように描かれる。上下関係という明確な順序がここにはある。つまり「含まれる」は、順序という構造を与えている。集合AとBの間に、「含まれる」という関係はない。だから、図3下図で集合AとBは線で結ばれない。

さて、これだけの話の中に、集合自体を単位として考える階層と、集合の要素を単位として考える要素の二重性が認められる。第一に、集合を単位と考え、内部の要素に言及しない階層で考えてみる。ここでは、集合間の「含まれる」に関する大小関係を用いるだけで、交わり、和を再定義できる。すなわち、

「AとBの交わり」とは、AとBの何れよりも小さい集合で最大の集合(1)
「AとBの和」とは、  AとBの何れよりも大きい集合で最小の集合(2)

と再定義できる。ここで小さい、大きい、最小、最大といっている大きさは、「含まれる」に関する大小関係であり、図3下図に見られる線で結ばれた順序関係である。この大小関係だけを用いて、AとBの何れよりも小さい集合を線で追いかけると、これを満たすのはAとBの交わり唯一つであり、その最大は一つの中から選ぶのでAとBの交わりそれ自体になることがわかる。AとBの和についても同様に指定できる。このように、集合AやBの中にある要素を問題としない限り、交わりの定義、和の定義は、対称的な形式を持ち、定義(1)と(2)の違いは、大と小を入れ替えただけであることがわかる。両者に共通しているのは、AとBの全てを見渡すという形式である。
第二の階層、集合AやBの中にある要素を選び、それを操作する階層について、集合AとBの交わりと和の定義を見直してみる。それは、以下のようになる。

「AとBの交わり」とは、AとBの「何れにも」含まれる要素の集合(3)
「AとBの和」とは、AとBの「何れかに」含まれる要素の集合(4)

ここには、もはや(1)と(2)の間にあった対称性はない。(3)は、全ての集合に帰属することを要請し、(4)は、どれかの集合(一つでも複数でもよい)に帰属することを要請している。
つまり、集合の交わりと和は、ちょっとした見方の違いで、一方では交わりと和の間に対称性を見出し、他方では見出さない、という差異を作り出すことになる。ちょっとした見方の違いが、どんなに小さなものでも明確なものなら、二つの見方は分離できるだろう。しかし、そうとは言い切れない。(1)と(2)の違いをもたらす集合の見方は、確かに、要素を操作するわけではなく、対して(3)と(4)をもたらす集合の見方は、要素の帰属関係をあからさまに問題にしている。前者でのみ、集合を単位として扱い、その中身については何も言わない。しかし、その違いは見かけ上のものだ。前者で扱われる集合という単位は、分割不可能な要素として扱われるわけではなく、AとBの交わりは、AでもBでもない集合として存在するのであるから。交わりと和の間に、対称性を見出すか否かという、見方の違いは、集合内部の要素に言及するか否かといった違いに過ぎない。もっと言うなら要素を意識するか否かといった違いで、意識していることを表明しない限り、明らかにならないものだ。だから、二つの相違は、明確に表明しない限り判然としない。両者は分離しがたい重層性を持っている。

3.道標個体に潜在する空間性

さて非言語的道標である。この節の冒頭で述べたように、道標は或る大きさを持った空間を指し示し、かつその空間の細目についての何かを指し示すという二重の要請を担っている。この二重性は、集合の交わりや和が担っていた、外から眺めた集合という見方と、内部の要素に言及した見方の二重性に、パラレルな二重である。ここでは図4左のような経路の地理を考えることにする。ここで非言語的道標を用いるエージェントとして想定しているのは、アリである。アリは匂いや視覚情報など様々なものを駆使して目印とし、巣と餌場の間の往復を効率よく行う。特に日本に多く棲息する庭アリと呼ばれるアリは、適当な地点で周囲を見渡し、草や樹木、石などと空の成す境界の景観を目印として、その位置を特定し、探索や採餌を行っている。ここでは一匹のアリが景観を頼りに目印を設定し、地理を把握するという状況を想定し、目印が使われるということに、目印の有する二重性がどのように寄
与するか論じよう。

図4.左:巣(a)から餌場(d)への経路. 右:目印の有する意味.

ここで、図4のように単純な経路を考えてみよう。直線の部分が経路で、丸印は様々な意味を有する目印である。目印のbとeは行き止まりを意味し、aがアリの巣、dは餌場である。記号cは、餌場と巣を結ぶ経路の途中にある特別な道標である。これらは全て道標と考えよう。いま、一匹のアリが巣から出てはじめてこの経路を探索したとする。巣からまっすぐ分岐点cにたどり着いたアリは、当初すべての経路を探索し、行き止まりbとeに達したとしよう。そうして、最後には餌場に辿りついたとし、探索の結果、矢印のような大まかな向きが形成されたとする。
餌を十分に採ったアリは餌場dから巣へ戻ることになる。ここで、目印には餌場へ辿りつくまでの間に帰路の手掛かりとなるような意味が付与されたとする。目印の意味は、その目印から往路の向きに進んで到達可能な目印の集合とする。これによって、目印は図4右図のような意味を各々担うことになる。各目印の意味は、目印の横に楕円で囲まれ表示されている。例えば餌場dや行き止まりeはそれ以上進んでもどこにも到達し得ないので、その意味は、各々dのみから構成される集合、eのみから構成される集合となる。巣から往路の向きに目印を辿るとき、それはa, c, d, eの目印へ到達することになる。したがって巣aの意味は、a, c, d, eを要素とする集合ということになる。こうして、各目印は、経路上に立つ一個の単位として存在し、その限りで名前を持つだけでありながら、経路に関する意味を集合として持ち、この両義性によって、道標としての意味を持つことになる。
目印とその意味は、目印がその意味の要素となるとき、その意味を満たす、という関係を持つといえる。例えば、目印の意味を、その到達可能な目印要素を括弧にいれて表せば、目印cの意味として、(c, d, e)をとることができ、

cは、(c, d, e)を満たす

ということができる。目印cは、(c, d, e, a)も満たしているので

cは、(c, d, e)および(c, d, e, a)の「いずれも」満たす

とも言えるだろう。目印の意味は、目印を要素とする集合であるから、集合の和や交わりにおける(3)や(4)の使われ方をされることになる。だから、「いずれか」を指し示す操作にも開かれることとなる。つまりcは(d)を満たしていないが、

cは、(d)および(c, d, e, a)の「いずれか」を満たす

と言うことができる。
ところが、ここに問題が発生する。目印の意味は集合である。しかし目印自体は単に名前がつけられ、分解不可能な記号であり、空間にばら撒かれた点だ。したがってそれは、内部構造を持たないがゆえに、(3)や(4)について、開かれることはない(だから、「いずれか」にも開かれない)。にもかかわらず、非言語的道標では、目印自体とその意味が区別不能な二重性を帯びており、目印自体もまた、「いずれか」について、開かれていなければならない。記号それ自体が、意味をもたらすのみならず、意味が記号それ自体を根拠付ける。したがって記号は、内部構造を有すると想定されるがゆえに、「いずれか」について、開かれていなければならない。いま、次の場合を考える。

aおよびbの「いずれか」は、(c, d, e, a)を満たす (5)
aおよびbの「いずれか」は、(c, d, e, b)を満たす             (6)

は共に正しい。ここでは、主語である目印が(5)と(6)の両者を満たしていると考えられる。したがって

aおよびbの「いずれか」は、(c, d, e, a)および(c, d, e, b)の「いずれも」満たす

と言ってしまいたくなる。しかしaが、(c, d, e, a)および(c, d, e, b)の「いずれも」満たすことも、bが、(c, d, e, a)および(c, d, e, b)の「いずれも」満たすこともない。記号自体の世界に、要素に言及する操作が紛れ込むとき、このように「いずれか」と「いずれも」に関するねじれが生じ、誤った表現が生じてしまう。
実は、このような誤りを防ぐ方法がある。「いずれか」や「いずれも」なる操作は、目印自体の集合に対して適用されるが(aおよびbの「いずれか」においては、aとbから成る集合に「いずれか」が適用される)、適用される集合に制限をつけるのである。ここでは図4左の経路において、線で結ばれた、往路の順序に関する最大の目印(矢印の先にあるものが大きいと定義される)が必ず入るように集合を選ぶのである。この制限が加わる集合を有向集合という。さて、aおよびcで集合を考えると、この集合の中でcが最大で条件を満たすので、aおよびcから成る集合は有向集合であり、「いずれか」を適用可能である。他方、aおよびbから成る集合では、当該集合の全ての要素より、往路の順序に関して大きな目印は存在しないため、このような集合は有向集合ではなく、「いずれか」を適用することはできない。条件を満たすには、少なくともcをいれて、「a、bおよびc」とする必要がある。果たして、そのとき有向集合となって、

a, bおよびcの「いずれか」は、(c, d, e, a)および(c, d, e, b)の「いずれも」満たす

は成立する。目印cは(c, d, e, a)を満たし、かつ、(c, d, e, b)を満たすからである。「いずれも」を適用する集合を有向集合に限定する。これによって、問題は解消される。なぜならいま目印の意味は、往路に関する目印の到達可能性によって定義されており、経路地理の構造に依拠している。だから、有向集合のように経路地理の構造の重要な点を含む集合に限定して、「いずれも」を適用するなら、道標それ自体と、その意味をつなぐ「満たす」関係はうまく機能するわけだ。
非言語的道標によって、いくつか重要な点が理解されることになる。第一に、道標をそれ以上分割できない単位として扱い、空間の中で自由に取捨選択しようと考えてみても、道標の意味は経路の中で使われて初めて生じるため、孤立して考えることができないという点である。ではどうすればよいか。単に道標を集合にして考えるというだけでは、無論意味がなく、ここに第二の要点が接続する。すなわち、道標間の順序関係、経路の中での位置関係が相互に理解できる限りにおいて、道標は道標として理解できるという点である。
実際、アリがどのように視覚的情報を用いてナビゲーションを行うかについて、現在も論争が続いている。最も重要な論点は、アリが複数の目印を使う場合、目印によって地理を理解し、或る種の認知地図をもっているか否かというものだ。アリが認知地図を持っている場合、目印の位置関係によって空間を把握することになる。そのため、少数の目印が変更もしくは削除されても、他の複数の目印によって、現在位置の同定は補完されることになる。対して認知地図をもっていない場合、一つの目印にたどり着くと、次の目印の方向を思い出し、目印から目印へと一つの系列としてのみ目標へのルートを辿ることになる。砂漠アリなどの実験結果からは、巣の近くでは空間全体が把握され、遠方になると目印は、次の目印への方向を指示するだけだろうといわれている。実際、実験的に設置された壁の端に至ると20度の角度で曲がるように壁の端を用いていた砂漠アリ―そしてその砂漠アリが巣から離れた場所で探索している場合―は、壁を回転移動させてもそこから20度の角度で曲がるため、壁の回転移動後、あらぬ方向へ進んでいってしまう。
しかし、ここで道標に関してみてきた議論からすると、目印は地図の中で使われるか、系列の中でのみ使われるかという、議論の前提が成り立たない。周辺の空間と全く独立に目印が目印として同定され、それからその意味内容が詮議されるとは、考えられないからだ。目印は局所的な位置関係(例えばそれは有向集合だった)との重ね合わせの中でしか、目印として使うことができない。つまり目印は、他の目印との位置関係をつなぎ合わせるための糊代を有し、糊代こみで目印なのである。糊代とは、まさに局所的な地図にほかならない。

真の対象と解釈という二分法から出発しても、そこに見出されるのは両者の非分離性であり、両義性である。ここでは非言語的道標を例にとって、道標(対象)とその解釈(意味)の非分離性、両義性を眺めてきたことになる。こうして逆説的に、非言語的道標を利用するもの(アリ)が、道標を同定するべく常に局所的な地理(有向集合のような局所的順序構造)を把握し、局所的地理の切り取り―どのように集合をとるか―について、絶えず評価し選択しているという結論が得られた。道標のような、局所を局所として自律させるために、全体と局所の間に、ダイナミックな非分離性がある。局所と全体の空間構造は非分離であるが故に混同され、しかしほどほどに区別されて部分の切り取りに関する選択がなされてうまいバランスのもとに全体と部分の関係は維持されることになる。果たしてこの描像は、社会と個人、群れと個体、一個の身体と細胞の関係にも敷衍できるものだ。

4.ミナミコメツキガニの群れ

沖縄県とはいっても沖縄本島から450kmほど離れた西表島の干潟には、ミナミコメツキガニ(図5)という名の爪ほどの大きさのカニが群れを成して棲息する。カニの群れのみならず、通常、動物の群れは、個体がいかにして他個体との適度な距離を維持しながら群れを形成するかという形で問題がとらえられる。その場合、個の独立性と全体としての協調性は対立軸を成す。個の多様性を捨て、皆が同じ運動をすることで強調的な群れを実現するという描像が、群れを理解する際の基本的態度となる。独立であり、他と無関係に能動的であることと、他個体に受動的に同調し協調行動をとることの間でうまいバランスをとること、これである。

図5.ミナミコメツキガニ(西山雄大・神戸大学・撮影)

群れにおける個体と全体の関係に、前節で見たような対象と解釈、道標とその意味の非分離性・両義性がみられるはずである。空間と独立であるはずの道標の同定に、既に空間の局所的構造が紛れ込むように、独立で能動的な個の中に、受動性が既に潜んでいる。能動と受動の対立を直接結合するなら、両者は相殺され、その挙動はどっちつかずのものとなる。そうではなく、受動の中に能動が潜在し、能動の中に受動が紛れ込むような、そういった様相から出発すべきではないか。そこで、能動的受動性、受動的能動性という二つの概念装置を新たに考えてみることにしよう。
能動的受動性を体現する典型的態度が、「いらっしゃいませ」の英語表現であるところの「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」だろう。客が入ってくると、何かお手伝いしましょうかと積極的に客にアプローチしながら、手伝う内容は客まかせで極めて受動的だ。しかしその受動的態度が、極めて能動的に表明される。だから、この接客態度は、能動的受動性の体現と考えられる。対して、受動的能動性とは何か。ダチョウ倶楽部の「どうぞ、どうぞ」というコントにそれは見て取れる。彼らのコントはこういうものだ。リーダー、竜兵、ジモン氏の三人の誰かが、例えば熱湯風呂に入らなければならない。三人ともはいりたくないが、誰も手を上げないなら、とリーダーが手をあげ、ジモン氏も手を上げる。皆があげるなら仕方がないとばかりに、しかし、それを悟られないよう竜兵氏も手をあげる。その瞬間、リーダーとジモン氏は手を下ろし、竜平兵に向かって、どうぞ、どうぞとやるわけだ。かくして熱湯風呂へは竜兵氏一人が、入ることになる。竜兵氏は意気揚々と手をあげる。しかしそれは、はめられた(段取り的受動性)のであり、流れとして能動的とさせられたわけだ。ここに我々は、受動的能動性を見ることができる。
能動性と受動性を結合すると相殺され、両者の効果が共に消える。受動性と全く独立に成立する能動性は、他が受け入れ不可能な突出した能動性であり、ノイズに他ならない。対して能動性と独立に設定される受動性は、自らが想定した刺激(外部入力)のレパートリーに対してのみ受動的に振る舞えることができ、ノイズには誤作動するしかない。こうして独立に設定される能動性と受動性は、その出会いにおいて相殺されるだけだ。しかし能動的受動性と受動的能動性の結合は、非同期で連続的な受動・能動の連鎖を継起する。能動的受動性(メイ・アイ・ヘルプ・ユー)は、限界はあるにせよ、他者の能動性を受け入れる準備のある受動性である。それは最初から能動性を喚起する。受動的能動性(ダチョウ倶楽部)もまた、他者との関係においてのみ能動性が意味を持つような能動性であり、その個性は他者との関係抜きに成立しない。

図6.受動的能動性・能動的受動性

道標とその意味の非分離性・両義性は、ここでは、個と群れの非分離性・両義性に置き換えられる。そして、道標とその意味の非分離性を体現した、集合の内部に言及しない操作と言及する操作は、能動的受動性と受動的能動性に置き換えられる。いま群れの各個体は、図6中のXやZで表される。矢印は各個体が勝手に動こうとする可能性である。各個体複数の可能性を提示し、他個体の動きを待っている。それは、待つという受動の能動的表明である。だからそれは、能動的受動に他ならない。では各個体が待っているのは何か。各個体は各自が、周囲の他個体が動こうとする場所へ動こうとしている。みんなが動こうとす場所へ動こうとし、誰かが動くのを待っている。そして誰かが動いた瞬間、他個体はその場所ではない別の場所へ動く。こうして最初に動いた個体において、ダチョウ倶楽部の竜兵氏が実現される。最初に動いた個体は、受動的能動性の体現者となる。図6左図の状況において、個体XとZは共に場所Qへ動く可能性を有している。だからその場所は、みんなが行きたい場所となる。こうしていずれかが先にその場所へ移動して=移動させられてしまう。もしXがQへ移動したなら、Zは自分が有していた別な可能性へと移動する。複数の移動の可能性を有し、互いに予期しながら移動する。これが、受動的能動と能動的受動を実装した群れ個体の基本行動となる。図6左図の場合、相互に予期される遷移と、代案として用意される可能的遷移が分かれている。両者が一致する場合とは、図6右図のようにすべての可能的遷移が相互に重複する場合である。このとき、個体は、各自が勝手な向きに運動しながら、全体として一個の群れを成し、運動することが可能となる。

図7.各個体が20の可能遷移を有する場合の群れモデル時間発展.左上→右下へ.

図7は能動的受動・受動的能動を実装したモデルの時間発展である。黒い四角が個体を表し、各個体は20の可能遷移を有しており、時間は離散的に進む。つまり或る時刻で各個体が可能遷移の重なりを相互予期し、互いに譲り合って順次、非同期的に遷移を実現する。孤立していて、可能遷移の他個体との重複が一切ない場合、20の可能遷移からランダムに選んで、遷移する。すべての個体が遷移したら、全ての個体で、20の可能遷移をランダムに決めなおし、時間を+1進める。こうして時間は離散的に進む。図7において、空間は右端と左端、上端と下端が繋がったトーラスを成しており、最初個体はランダムに空間全体に分布していた。時間が進むにつれ、ひとたび可能遷移が重複して関係性を強めた個体は離れがたくなり、群れを形成することになる。図7では個体間の可能遷移がその先端において重複する場合のみ、可能遷移を線で結んでいる。個体が密集してくると、可能遷移の重複も密になり、いわば図6右のような状況がそこら中で実現されることになる。こうして、群れは頑健なものとなる。
通常の群れのモデルは、互いに強調しようとする能動と、ランダムに動こうとする受動の結合に基礎付けられる。つまり、皆で同じように動こうとしながら、それをつき壊す振る舞いに開かれている。そこでは協調的振る舞いと個性の多様性はトレードオフ、つまり一方が成り立てば他方が成り立たない関係にある。しかし、受動的能動と能動的受動の結合モデルでは、協調的振る舞いと個性の多様性はトレードオフにない。各個体が様々な方向へ運動し、群れの中では複雑な渦や不規則的な移動が実現されながら、確固たる境界を有した明確な群れが実現可能となる。その群れは、いわば各個体が持つ勝手な遷移の可能性、内的ゆらぎを積極的に利用することで、協調的振る舞いを実現しているのである。

図8.川を渡るミナミコメツキガニの群れ.

内的ゆらぎを積極的に利用し、能動的受動とダチョウ倶楽部的な受動的能動を呼び寄せることで、群れが運動する。このメカニズムは、直観的にミナミコメツキガニの渡河行動をうまく説明できる。ミナミコメツキガニは、干潮時、干潟が海から顔を覗かせたとき、砂から這い出して干潟の上を移動する。絶えず砂を食べ、中の有機物をこしとって砂のみ吐き出しては移動する。この際、個体同士が接近し、群れを形成するわけだ。図8にみるように干潮間もない干潟には、そこかしこに潮溜まりや河が見受けられる。ミナミコメツキガニは、個体では水に入ることを嫌がり、基本的に河の縁で留まる。しかし、集団になると時として群れとして水の中に入り、河を渡っていくのである。図8の中央部、三日月状を成す群れと手前の群れの間には、小さな川が流れている。まさにこの小さな河を渡って、中央部へ移動しているところである(一列に並んでいるのがわかる)。この渡河行動は、まさにダチョウ倶楽部効果だ。のせられて熱湯風呂に入る竜兵氏のように、先頭のカニは河へ受動的能動性をもって入っていくわけだ。ひとたび相互予期の結びつきを強めた群れは、先頭が入っていくと皆、ついていく。こうして群れ集団は、全体として一気に河を渡るのである。
図9は、能動的受動・受動的能動に基礎付けられたコンピューターモデルで、渡河行動をシミュレートしたものである。ここでも図7同様、空間はトーラスとして与えられており、空間上の各時刻におけるカニ個体の現在位置が、四角い空間の中で黒い四角として描かれている。ただしその時刻に至った過去5ステップ分の軌跡が、四角に接続する曲線として描かれている。各(8個の)四角の左上の数字が、各集団分布の時刻を表している。空間の中央にある大きな四角が個体にとって入りにくい、水溜りを表している。水溜りは次のように定義される。まず、水溜り以外の場所(陸地と定義される領域)は、各個体の可能遷移が2以上重複した場所が、相互予期によって実現される遷移の場所となる。ただし、各個体は10個の可能遷移を有している。したがって少数個体が近寄っただけで、実現される遷移の場所が現れ、各個体はそこを目指して移動することができる。こうして群れは全体として、水溜り以外の場所をスムーズに移動できる。対して、水溜りの場所は、各個体の可能遷移が5以上重複した場所によって初めて実現される。個体が狭い場所に密集し、可能遷移が激しく重なり合わない限り、相互予期による遷移は実現されない。

図9.渡河行動シミュレーション.ダチョウクラブの竜平が手をあげるように、集団の効果で、各自が入りたくはない水溜り(中央四角いエリア)へ入っていく.群れの緊密性ゆえに、残りのものは後続する.

図9の時刻206ステップ目を見ると、多くの個体が水際で動けなくなっていることがわかるだろう。可能遷移の重複が十分ではなく、各個体は水際に入っていけないのだ。この水際で膠着状態に入った個体は、水際に沿って移動することになる。こうして水際に十分な数の個体が移動し衝突して高密度の群れが実現され、227ステップ目になると、高密度の群れの先端が、一気に水溜りの中に入っていく。250~265ステップまで群れの先端は順調に水溜りに伸張している、しかし270ステップになると、水溜りに入った群れの先端はちぎれ、小集団となった群れだけが前進し、水溜りを渡っていく。残りの部分は、もはや前進できず、もとの近い岸辺へ戻っていく。水溜りに入った群れが細長く伸び、各個体が水の中に取り残されると、このシミュレーションでは動けなくなり、大きな群れが近くを通過してくれない限り、水溜りに留まることになる。実は208ステップ目ですでに水溜りの中に存在する個体は、このように群れの渡河行動の際、水溜りの中に取り残された個体なのである。
実際、河に侵入した集団が細長く伸び、切れて、少数個体が孤立し、水溜りの中に残されるという現象は、現実のミナミコメツキガニで極めてよく観察される。まさに彼らは、リーダーやジモン氏に勧められ、躊躇しながらも手を上げてしまった竜兵氏であり、熱湯風呂に入らざるを得なくなった竜兵氏なのである。受動的能動と能動的受動の出会いによって実現される群れの挙動は、常にダチョウ倶楽部の竜兵氏を生み出し、個体、個体においては引き受けきれない行動を負わせ、それに皆がついていくことで、群れとして初めて実現可能な振る舞いを生み出して行く。それこそが、集団と個の非分離性・両義性を織り込んだ、群れの典型的振る舞いと考えられる。

5.おわりに

誰もが逃げたテナガザルを見つけられる。電信柱にからまったガムテープに過ぎない、と思うものの見方は、我々が慣れ親しんだ習慣だ。電信柱を風景から区別し、電信柱に巻きついた茶色いものも、電信柱から区別し、かつその質感からこれをガムテープと判別する。我々はそのような区別と、空間構造の把握によって、電信柱に巻きついたガムテープを知覚する。それは、アリが非言語的道標を道標として知覚するとき、既に他の道標間の局所的関係、局所的地理を知覚することでしか、道標を同定できないことと同義である。ここで道標間の局所的関係とは、有向集合のような順序関係である。アリは、巣と餌場の間に次々に現れる目印の順序関係を知覚し、何らかの地理的構造を”習慣として”学習によって生成するだろう。こうして生成される習慣的順序が、有向集合を知覚させ、それによって非言語的道標間の関係を計算してみることを可能とする。
習慣であるからこそ頑迷であり、習慣であるからこそ突然変更可能であり、変更された場合には、風景全体が変質し得る。習慣的に見てきた目印と異なる目印間の順序関係を構成できた観察者(アリ)は、非言語的道標のある風景として別な風景を見ており、別な、もっとおいしい餌に到達可能な別な地理を見ている。突然の知覚の変質は、そのモノだけを孤立させて変えるのではなく、知覚の全体、風景の全体をを変質させるのである。だからテナガザルは、個人の習慣に抗しさえすれば、誰にでもみつけることができ、テナガザルを見つけることによって、あなたは、単にテナガザルを見つけただけでなく、別な風景を見ることになるのだ。見られる対象と見る解釈の非分離性・両義性は、だからこそ、習慣の頑迷さと、変化したときには両者がともに変化する構造変動を意味するのである。
見られる(受動)・見る(能動)の対は、個と社会との関係において、他者に協調する受動・独立に振る舞う能動の対に置き換えられるが、両者の非分離性・両義性を強調するとき、対は、能動的受動・受動的能動の対に置き換えられた。我々はこれをダチョウ倶楽部の芸の中に見出した。果たして、いらっしゃいませと客を待ち構える能動的受動は、リーダー氏やジモン氏の態度であり、それにはまって熱湯風呂に入る竜兵氏の態度は、受動的能動の態度であった。両者の速やかな継起こそが、個の多様性を担保したままの社会性を実現し、個ではみられない集団の効果(ミナミコメツキガニの場合には、孤立した一個体では入ることのできない水溜りの中に、集団で入っていく行動)が出現する。それこそが、端的に対立しただけの受動と能動を結合し、両者を相殺させて見出される社会であはない、社会のありようなのである。もちろん、それはいいことばかりではない。個人的に判断すると馬鹿げたことであっても、集団の狂騒によって社会が暴走し、それを実現してしまうことも、社会的振る舞いの創発には含まれるだろう。その点について、我々は見極めていく必要がある。
ミナミコメツキガニが集団で水溜りの中に入って行ったような劇的変化が、習慣とは異なる見えを、見に行ったあなたの知覚には、生じるに違いない。あえてテナガザルを見に行くあなたには、入っていけなかった社会的風景が、あなたを呼び込む甘美な風景へと変貌するかもれしれない。

テナガザルは、確かにいる。