タイトル
ボンカレーという媒介
著者 / 話者

自然を操作し、制御するという発想が限界だと言われるようになって、久しい。「丸ごとの自然」や、操作される対象と操作する者とを分離しないような、新たなパラダイムが叫ばれるものの、自然への回帰を、原始人になることや赤ん坊に戻ることに求めることは、いまさら困難だ。どこまで戻るか。少なくとも、スケジュールとしての時間や互いの位置という空間情報を断片化し、スマホやケータイで操作する現代の我々が、遡及的に構想できる地点・発想の道具を、考える必要があるだろう。

ここで述べることは、直接的に科学技術と自然との、うまい接点をどこに求めるかという話題ではない。しかし冒頭の話題とは、おそらく相同な関係にあると思われる問題には違いない。それは食べ物に関する記憶であり、レトルトパウチのボンカレーを初めて食べた際の衝撃をヒントに、ボンカレーが食における、人間と自然との関係の大きな転換点になっていたのではないか、と示唆することである。その転換は、自然対人間の対立図式を継承したまま転倒させたものではなく、むしろ対立するものを邂逅させ融合した後、二項対立さえ、その多様性の内に収めてしまう、そういった多様化の道を開いた、スプリングボードになったのではないか。だとすると、ボンカレーこそが、自然と人間との関係性を再構築する際の、回帰すべき点の手掛かりとなるはずに違いない。

わたしは高校まで、北関東の地方都市で育ち、小・中学校のとき、何度か転校を経験した。ボンカレーを初めて食べたのは、ちょうど大阪で万国博覧会が開かれた年、小学校の授業時間でだ。万国博覧会当時の日本の子供の様子は、浦沢茂樹の代表作で、映画にもなったマンガ「20世紀少年」に活写されている。ただし、大都市近辺と田舎の地方都市では、いま以上にギャップがある。当時、地方都市の子供だったわたしには、自然に同化し、自然の中に突き進み溶け込むことが一番の遊びだった。何もそれは、深い山や、透明な水を湛えた河や海で遊ぶことばかりではない。隣に祖父が住んでいたとき、祖父は洗い張りを生業としていた。洗い張りとは、着物のクリーニングである。着物を分解して反物に戻し、鶯のフンで染み抜きをしたり、吹き上がる蒸気の上に反物をあてて「洗ったり」するわけだ。庭には何本もの半分朽ちた木の柱が立っていて、反物が渡され干されていた。また屋外に、水道の蛇口つきの大きな洗い場があり、夏には子供の格好の水浴び場だった。洗い場の土台はコンクリートであったが、コンクリートには親指大の小石がたくさん詰まっていて、勢いよく出される水道水によって侵食され、コンクリートの土台は、まるで生来の礫岩のような風体をしていた。
庭の境界は、どの家の間も曖昧で、古びたふるいや網、水がめ、不要になって丸められた波型のトタン板、などが無造作に並べられ、そこに雨水が溜まったりしている。ぼうふらを食べさせるために、傾いた水がめには金魚やメダカが放された。当時の隣家ではそこにアヒルを飼っていて、アヒルはよくガァガァ言いながら水浴びをしていた。古道具の隙間からは放棄された道具と対照を成す植物が、勢いよく伸びていた。どの家の庭も、雑草のみならず、夏は花や植物に覆われていた。うちの庭は夏になると、朝顔やホウセンカが繁茂した。庭の一部を囲った、竹でできた柵を覆う朝顔は、夏休みには毎朝花を咲かせた。その竹も湿って一部黒味を帯び、カタツムリが這い回っていた。ホウセンカは夏になると身の丈五十センチほどに育った。水を撒きながら、ホウセンカ畑の中を覗き込むと、小さいながらジャングルのような様子で、木漏れ日で光る水滴を撒き散らしながら、飼い猫がこちらに向かって突進してくる。どの家も自然に覆われ、風化や自然による浸食の中にあった。少なくとも子供は、その中にいるだけでワクワクしたものだ。いま、大人になって残る同様の感覚は、沖縄は那覇の、市場の裏通りを歩くときの感覚だけといってもいい。当時は、街の中だろうと自然だったのだ。
そんな風であるから、食べ物についても自然の中にあった。自分で食べたものを思い出しても、間食はトウモロコシや豆類、スイカや芋のたぐいだった。春になると、リヤカーを引いて野菜を売るおばさんたちが、毎日入れ違いに空豆を売りに来る。今と違って安かった空豆は、大皿いっぱいに茹で上げられ、熱いうちから食べ始まってもなかなか食べきれず、表面の薄皮がしわしわになるまで食べ続けたものだ。続いてはアサリやカニが砂浜で採れるようになり、庭に置いてある水撒きようの大きなバケツいっぱいにアサリがとれた。これを蒸したり、味噌汁にして平らげ、次々と貝殻の山をお膳の上に作っていった。トウモロコシの季節になると、毎日のようにゆでたトウモロコシだ。保温器などなく、冷や飯は蒸し直して食べるしかない家庭では、どこの家にも「ふかし」という大きくて深いなべがあった。これいっぱいにゆでたトウモロコシを、一人で何本も食べた。
夕餉にのぼるようなおかずはどうだったか。両親は魚が好きだったため、カレイやキスの煮付け、カツオの刺身に、イカや鰯の天ぷらが並んだが、もちろん、万国博覧会当時である。洋風のおかずもよく夕餉に登場し、クリームシチューや、ハンバーグ、ゆで卵が中心に置かれ周囲をひき肉で巻かれたスコッチエッグと呼んでいたもの、ロースカツや鶏の唐揚げ、レバーや鯨の竜田揚げ、八宝菜やしゅうまいなど、様々なものが食べられた。とはいて、冷凍食品などほとんどなく、インスタントものも現在のように発達していなかった。味付けもまた自然そのものが直接醸し出し析出させたものだけであり、子供も大人も、間食とほぼ同じ意味で、自然を食らい、自然を取り込んで同化することが、食だったのである。自然を取り込み取り込まれる中に、食の享楽があったのだ。

では当時、既に十分ポピュラーだったカレーは、食と人間との関係性において、どのような意味をもっていだろうか。うちでは、カレーだけは、なぜかいつも父が作っていた。カレールーは既にあったが、いまほど種類がない。なにより、何にでも鰹節を大量に使うことを贅沢と考える我が家にあって、インスタントのカレールーを使うことは許されなかったのだろう。それは小麦粉とカレー粉を炒め、ジャガイモや玉ねぎ、豚肉をいれて煮込む、昔風の日本のカレーだった。これが本格的なカレーだと言われても、それはちょっと刺激のある煮物の延長のようなものだった。カレールーを使う友達の家のカレーも、何度かご相伴に預かったが大差はなかった。たまに出かける外食で、スパイスたっぷりのカレーを食べるチャンスはあった。しかしそんなとき、目が向くのはハンバーグやエビフライ、スパゲティーなどであって、カレーそれ自体に大差がないと高を括っていた子供は、わざわざそのような機会にカレーを食べることはなかった。こうして、割合本格的なカレーは存在していたものの、子供の口に入ることはまずなかった。当時の家庭で食べるカレーには、万華鏡のようなスパイスの競演も、肉と野菜の渾然一体となった陶酔もなく、それはちょっと辛い、ぼんやりとした食べ物だった。家庭では、カレーを含めてもなお、当時の食は、改めて言うまでもなく、自然を食べ、同化することだった。

小学校の家庭科の時間、当時は男子も女子も一緒になって、裁縫や調理実習をおこなった。調理といっても、ご飯を炊いたり、味噌汁を作ったりという程度のことだ。この、炊飯プラス味噌汁調理実習で、事件は起こった。味噌汁は、昆布と煮干から出汁をとり、班毎にジャガイモや玉ねぎなど、勝手に決めた野菜をいれてつくることになった。それとご飯である。電気釜で炊いたご飯と味噌汁が、テーブルクロスをかけた机に並ぶ。これではいかにも、おかずが足りない。そこで各自、自分で食べるためのおかずを持ってくるように言われていた。
おかずは弁当のように家庭で調理したものを持ってくるのではなく、調理済み加工品が求められた。その当時である。ほとんど全員が缶詰であった。現在は、焼きとりの缶詰出現以来、焦げ目も香ばしい様々な焼き物缶詰が登場しているが、当時はまだ焼き鳥の缶詰も出ていない。みんなが持ってきた缶詰は、鯨の大和煮や、赤貝、イカの煮物、鯖の水煮にさんまの蒲焼のようなものだった。蒲焼の缶詰というのは、焼き物というより、蒲焼風の甘辛いタレで煮込んだものだった。それとほとんど馬肉の、ニューがついたコンビーフ。あとは当時よく食べられていた「おかずの缶詰」。これは魚肉の煮たものや、豆腐、糸こんにゃく、昆布を甘辛く煮て、一つの缶にいれたものだった。
事件というのは他でもない。ボンカレーである。缶詰のおかずが並び、みんなが互いに何を持ってきたか見比べているとき、1人だけボンカレーを持ってきたともだちがいたのである。皆が羨望の眼差しを送り、ボンカレーに釘付けになった。ボンカレーは、アルミを織り込んだ三層構造のフィルムにカレーをいれ、熱湯で温めるだけで食べられるレトルト食品の奔りである。もちろんクラスの全員が知っていたが、それは第一に高価なものだった。当時、おそらく百円近い値段だった。蕎麦屋で食べるラーメンが七十円、八十円の時代である(そしてまた、ラーメン屋というものがまだ存在せず、ラーメンは日本蕎麦屋か、カツ丼や親子丼、オムライスを置いている食堂で食べるものだった。それはラーメンではなく、中華ソバであり、その横にはタンメンや五目ソバがあった)。ボンカレーを持ってきた友だちの家は、大きな日本庭園があって、そこには何匹もの錦鯉が泳いでいた。
第二に、ボンカレーには秘教的匂いがあった。ボンカレーはよく肉屋や乾物屋の奥に置かれていたので、目にする機会はあった。なにより、山や海に遠征して遊びに行くと、途中の古びた家の壁にボンカレーのホウロウ看板があった。灰色を帯びた古い木造家屋、はしごや用途のわからない棒を軒先に吊るした納屋の壁に、ピカピカに光ったホウロウ看板があった。それは松山容子がボンカレーの封を切って皿にかける瞬間の絵柄だった。風化してしまいそうな風景の中に、自然に同化せず、いつまでもピカピカに磨き上げられたホーロー看板がある。わたしたちは、それを見ても決して話題にせず、しかしいつも横目で見やりながら、ボンカレーの存在を意識していたのである。
テレビのコマーシャルは、どうだったのだろう。上方落語の仁鶴(現在師匠)が、ボンカレーをお湯の中に投入し、「どこいくのやー、ちょっとそこまで」というコマーシャルは大分見た記憶があるが、調理実習の1970年初夏当時、放映されていなかったと思う。むしろみんなが真似をしていたのは、後発のレトルトカレー、オリエンタル食品のスナックカレーだった。名古屋のコメディアン、南利明が名古屋の訛りで囃し立てるように言う。「オリエンタルスナックカレー、たった三分間、ぬくためるだけ。肉や野菜がいっぺー、はいっててよ、みんな、うはうは、うはうは喜ぶよ。オリエンタルスナックカレー、ハヤシもあるでよ」40年たってまだ憶えているのだから、このCMはすごくはやったに違いない。対してボンカレーは、誰もが知っているのに、まだ大々的にコマーシャルを打っていなかった。誰もが知っていながら、実体は大きな謎だったのである。
秘教的匂いは、製造業者である大塚食品のせいでもあった。当時大塚といえば、塗り薬のオロナイン軟膏であった。メンソレータムやヨードチンキのように刺激がなく、塗っても赤チンのように色がつかないオロナイン軟膏は、わたしの周囲では一番の常備薬だった。虫に刺されても怪我をしても、やけどをしても、オロナインだった。ボンカレーの大塚食品は、ここから派生してきたはずだ。食品としては、オロナミンCもあった。しかしこれも子供にとってジュースのような甘美なものではなく、何か薬効がある、秘密の薬めいて見えるものだった。実際、当時ともだち連中の中では、誰もオロナミンCを飲んだ子供はいなかった。
そういうわけでボンカレーの秘教的雰囲気は、何かすごいものが入っているという期待感を増幅していた。スパイスという言葉はポピュラーだったろうか。おそらく、わたしが最初にみたスパイスという言葉は、インスタントラーメンである明星チャルメラに入っていた、「木の実のスパイス」という添付の小袋の文字だった。コショウではなくスパイス、それは何か得もいわれぬ、ジャングルの奥に生えている、固い殻に閉ざされた幻の木の実を想像させ、スパイスという言葉だけで(後年、中学の世界史か何か、東インド会社の件で目にするまで、スパイスの意味はよくわからなかった)うまさは倍増した。だから、ボンカレーに様々なスパイスが調合されている、などという想像は及ばなかった。ただ、何か秘薬のようなもの、もしかすると先進的な化学的なもの、いや、科学そのもの、が期待されていたのだ。
ボンカレーの封が切られると、封の切り端を自分にくれ、と取りあいだ。封についた、かすかなカレーをなめてみるためだ。さすがにわたしは、それは恥ずかしくてできなかった。ただ陶然とボンカレーの行く末を皆と見守っていた。幸運にも、ボンカレーを持ってきたのは、わたしの極めて親しい友人だった。彼は、「ちょっと食べてみる?」といってわたしに一口勧めてくれたのである。うーん、そうだね、と、ちょっと気乗りしないけど、勧められたからといった感じを装いながら、わたしはボンカレーを食べた。子供が炊いた米のご飯は、研ぎが甘くて逆に米ぬかの甘い香りが心地よく、今のように米粒一粒一粒がたっているという立派な米ではない。銘柄米など問題にされなかった時代だ。米粒はやわらかめでくぐもっており、少なくともライスではなかった。その上にボンカレーがかかったものを箸でつまみ、口に入れたのだった。

レトルトのカレーやスナック菓子の類は、万国博覧会後、急速に台頭し、一般化していった。衝撃のボンカレーは、半年、一年後には、手間いらずでどこでも食べられるものになり、レトルト食品は常備され、非常食として保管されるようにさえなった。子供の食べる間食も、豆や芋の類といった自然そのものではなく、化学調味料で味付けられ、袋に封入された、ポテトチップやスナック菓子になっていった。町の惣菜屋の容器は、経木からプラスチックのパックへと急速に置き換えられ、子供の駄菓子の類、酢昆布や酢イカ、ソースせんべいも、大きな缶やビンから素手で取り出すものではなく、ビニール袋に封入されたものになった。食べ物は、みな、自然で有機的匂いが払拭され、ユニット化され、概念としてもパッケージ化された。万国博覧会後、食べ物は急速に、脱自然化され、食べることが自然の一部となるような日常の食事は、消えていった。
パッケージ化されユニット化された食べ物は、食べること自体を操作し、制御するものだろう。缶詰も歴史的には、ナポレオンの兵糧食から出発したものであり、レトルト食品やフリーズドライは、アメリカ軍のレーションや宇宙食を起源に持つものだ。それは、食事を、できるだけおいしさを担保しながらも、簡単で操作可能な対象にする装置だった。レトルト食品は、現在のコンビニに並ぶ、小分けされ、ユニット化されたデリカテッセンの先兵だった。おそらく、万博当時の大人、食べることが自然を取り込むことであり、自らが自然化することであった大人たちにとって、現在のコンビニに並ぶ食品は食べ物には映らないに違いない。もはやうまいものなど、ない、というかもしれぬ。
しかし全ての食品が簡便化され、化学的になり、対象化されたわけではない。むしろ食は多様化し、スパイスや、素材の肉・野菜の産地まで問題にするような、時間のかかる調理が趣味としても成立し、食べることも調理することも娯楽となる場合さえある。娯楽とユニット化の分化を、我々はいま易々と受け入れている。うどんのように柔らかく茹で上がったナポリタンも、アルデンテのカルボナーラも、プラスチック容器の中でコンビニに並ぶミートソースも、共に享受する。それは、単なるレトルト食品やフリーズドライ食品、プラスチックに覆われた食品単位の出現を、受動的に順次、受け入れただけでは可能でなかっただろう。契機となるものは、ボンカレーだった。カレーだったからこそ、レトルト食品を受け入れ、単位化された食べ物、脱自然化されたものを受け入れてなお、多様な食、エネルギー源の摂取から、娯楽までに至る雑多な食を受け入れる現在が、可能となったのではなかろうか。カレーという魔境に、自然と科学、未分化な世界と断片化された単位が吸引され、これを媒介として、その後の多様化が現実化していったのだ。
果たしてボンカレーは、包装フィルムに封入された未来的、化学的装置であり、秘教と科学が一体となったブラックボックスであり、立方体に切られたジャガイモやニンジンによって食べ物が幾何学に開かれていることを広く示したオブジェであり、牛肉を田舎の地方都市にも持ち込んだ料理であり、スパイスという世界観を持ち込んだ教科書だった。それは、自然と科学の融合した特異点として、単なる料理でありながら世界だったのである。部分と全体の両方をこれでもかというまでに合わせ持つカレーという写像への興奮は、いまだおさまるところを知らない。

大学になって山登りをするようになったわたしには、ボンカレーは再びごちそうとなった。ちょっとした山行では、できるだけ経費を節約し、軽量化した食料が重視される。わたしたちの山での主食は、コンソメのキューブと少しばかりの乾燥ひじきを投入しただけの、「炊き込み」と称される味つき飯だった。うまいものではない。ちょっと重いが山にまで運ばれたボンカレーは、エネルギー摂取材ではない、食事を提供してくれた。
一人で山や谷へ入り、帰り際、山村の家並みを見る余裕を持ちながら、ゆっくりと歩く。そんなとき、山のように壁際に薪を積んだ古い家、三叉路に位置して見通しのきく家の側面に、見慣れたボンカレーのホーロー看板があった。それは冬が近づく寒々とした風景の中でやはりピカピカに光りを放ち、プラスチックではない自然との接点を身にまといながら、ボンカレーの存在した地点を象徴するかのように、そこにあった。それは、インドのとある村で始まり、十数世紀をも経て極東の果ての名もない山のふもとにまで及んだしまった、カレーの香ばしい魅力にまたも抗えなかった一文明の、嬉々とした敗北宣言のようにも見えた。

『広告|恋する芸術と科学』特集|あたらしい世界制作の方法 2011 年8 月号収録