タイトル
ロゴスを超える共鳴を起こす
著者 / 話者

歌が持つ動物的な状態

編集部

音楽の好みというのは、人によって違います。流行ももちろんあります。しかし、「うた」は、どの時代においても、どの場所においても、人間の歴史において、人間の業や欲や優しさをぶつけあうような全体性を持ってきたような気がしています。他人と空間や気持ちを共有するエコ性や、自己欲求のエゴ性、言語を超えて野性的なエロ性のすべてをはらんでいて、なにか人間の根源的なものを引っ張り上げる力があると感じていますが、認知神経科学的に見るといかがなのでしょうか。

柏野牧夫(以下、柏野)

まず、聴覚の研究者として、音楽や言語の音を解析する際に、あんまりロゴス、すなわち記号性に落ちないようにしなければならないということを意識しています。研究の過程自体は、還元主義的で技術的な方法で割と冷たくやることを余儀なくされます。けれども、私はそこで充足したくはない。つまり、研究にはお作法というものがあって、ここでこういうふうにやっていけば、こういう形の論文になるという手順が当然あるんですけど、そういう手法からこぼれ落ちてしまいがちな、それこそ情動かエロティシズムみたいな「全体」がどこにあるのかを見てみたい。聴覚の「科学的」研究というものは、例えばこういう周波数構成の音が、何でこの高さに聞こえるんですかとか、こういう音響的な性質を持ったものが、どうしてこういう知覚をもたらすかというところに関して、もっぱら客観的に解明しようとする。しかしそれが何でこう「ゾクゾク」するんですかみたいな話が、本当は一番面白いと考えています。

今やっと音楽の全体性にまで、サイエンスでアプローチできるかもしれないところに来ています。脳はもちろんですけど「体」の反応も含めての解析がやっと始まった。体の反応というのは、ひとつには、リズムに乗って思わず体が動くということ。さらには、自律神経系や、内分泌系すなわちホルモンがどういうふうに反応するか。結局、ゾクゾク来ると言いますけど、我々は動物でもあるわけで、野生の法則にのっとって考えれば、例えばトラの鳴き声が突然背後で聞こえたら、あるいは猛獣の匂いがしたら、まずそれに対しても、理屈じゃなくて、体が完全に先に反応する。つまり、論理うんぬんではなく、要するに戦うのか、逃げるのかというところにまず追い込まれるわけです。そこで、自律神経系の働きによって、逃げるなら逃げるということに最適化した状態にオートマティックに整えられていく。呼吸が変わる、心拍が変わる、瞳孔が変わる、体温が変わる、いろんなものが全部総合的に変わる。で、体の反応が出る。フリーズするなり、逃げるなり、戦うなり、そういった感応性こそが、本来、音に対する情動反応の原初的形態なのです。もちろん、戦う、逃げるだけではなくて、何らかの社会的な意味を持つこともあるわけで、例えば鳥は、求愛とか、縄張りの誇示のために鳴くわけです。

だから元来は聴覚は、そういった生命の維持の根源に関わるようなものだったはずですが、その一部分がある種研ぎ澄まされて、それ自体で成立していたのが、多分、音楽と呼ばれ始めたのです。

編集部

歌を熱唱している女性に対して、ふと恋心を覚えてしまうことってあるのも、その名残なのでしょうか。

柏野

当然あります。まず「歌う」っていうのは、「普通の会話で使われるレンジじゃない状態」で発声するということが、動物的には一番大きいのです。基本周波数、つまり声の高さのレンジも広く、高くなるし、声帯の使われ方も、普段と全く違う。声の高さがそこまで上がるとか、あるいは声の大きさがそこまで大きくなるとか、かすれるとか、震えるとか、それは動物的に、すでに非日常な状態を表すわけです。

で、逆に作曲家としてみれば、やっぱりこの人のそういう魅力的な声の「非日常」なレンジをうまく出そうと試行錯誤するんですね。昔で言う、歌謡曲の職業作曲家の全盛時代には、やはり新しい新人に「お願いします」と来られたら、ちょっと歌わせてみて、「この音域を使おう」みたいなのが、絶対最初にあったと思う。この舌足らずな感じをうまく出そうとか、この音域、裏返って非常にいいとか、こういうちょっとあどけない声で、あえて男言葉でやらそうとか、そういういろんな仕掛けがあるわけじゃないですか。そこは、やはり作り手の直感っていうか、それこそ身体感覚みたいなもので、いかに非日常的なものをどう出すかじゃないかと思うのです。

ぼくらは一体、何に共鳴してしまうのか

編集部

一方で、音楽は、美術を含む創造領域の中でも、もっとも分析されてきたジャンルだと思います。音楽は、三大要素として、全体をハーモニーと、リズムと、メロディに分けて、たとえばバッハの名曲を、対位法とか和声法で解析したりしています。ただそういうものを完全に解析して、魅力を理論化しているのであれば、理論的に感動を生み出す事ができるということでしょうか。

柏野

音楽には、楽譜があるので、論理的、数学的に何か解析できそうな気がしますよね。これはバッハの何とかという曲です。これはいい曲ですね、悪い曲ですねってあるかもしれないけれども、楽譜上、たとえ全く同じメロディやリズムであったとしても、それがものすごい名手に絶妙の呼吸で演奏されるのと、機械の打ち込みで寸分の揺らぎもなく演奏するのとは、それは全然違う話になります。大体の場合、音楽理論の射程は、楽譜、つまりは自動演奏の域を出ない。そこにまず大きな問題があります。音楽の演奏における肉体性とか身体性というのは、一般的に音楽理論研究者が思っているよりは、かなり重要で、まるでスポーツのように、なにか限界とこうせめぎ合っている姿に人々は感動するんです。この譜面に対して、ぎりぎり間に合うか、間に合わないかとか。例えば、ミリセカンド単位の機械打ち込みで、いかに無茶苦茶の速弾きをされても、それは誰も感動しないではないですか。それを例えば生身の人間がやったら、それはびっくりすると思いますけど。いや、それは機械ならできるでしょうねってなっちゃう。

編集部

たとえば椎名林檎さんの限界値をきりさくような歌声の生命力とか、あるいは、たとえ素人でも、たとえば正月に親戚のおじさん同士が肩を組んで唄う演歌とかに、ほろっと来ちゃうこともありますよね。

柏野

ありますよね。その部分というのは、生身の人間がやっている、その人間の持っている制約というものとの闘いみたいなのがあるから。しかもそれは1回きりの文脈が、鑑賞者に理解され、ちゃんとデコードされるからだと思うんです。歌い手が、手に汗を握ったり、息を詰めたり、呼吸を乱したりしながら、繰り出すぎりぎりの発声を聞くときに、ある種そこに聞き手の体が同調していく。つまり、「ぎりぎり感の共鳴」なんです。人間と人間って、やっぱり共鳴するわけですね。物理学的な問題なんですけど、例えば音叉やブランコのように、複数の力学系が振動するタイミングが合ってくると、どんどん振幅が大きくなる。

コミュニケーション全般において、例えば音楽、日常の会話や性行為を含んでもいいかもしれないのですが、これらにも共鳴の原理が成立します。つまり、あっちの振動とこっちの振動がもともと違うんだけど、その間に結合、つまり相互作用があれば、だんだん、だんだん同じ振動になっていくという状態というのがあって、これは、考えてみれば「聞いてる」という状態というのはまさにそれなんです。声を聴くとき、即物的な言い方をすると、誰かの声帯が空気を揺らして、その空気の振動が鼓膜に到達し、中耳を介して内耳にある基底膜が振動して、神経の信号に変わって、脳の中で情報化されていく。その振動の伝播においては、どこから自分でどこからがあなたという認識が実はあいまいなんですね。音楽でリズムを感知すると、体が無意識のうちに何かこう乗りますみたいなときに、乗ってますけど、「私、乗ってます」というか「あなたに乗せられてます」というか、そこは非常に微妙な問題で、むしろあなたとか私とかという話じゃないですよね。何かそこに共鳴状態が成立していると。共鳴状態というのは、つまり、自分と他人との境目がなくなってる。

編集部

最近もかなり意図的にAKBとかがやっているようなぎりぎり感も、たしかに共鳴していますよね。N次創作と安易に呼ぶよりも、同次元上でなにかが溶けている感じがある。

柏野

そう、ぎりぎりを双方向で共鳴させる演出ですよね。ある種のエロというか、そこでやっているというのが事実なわけ。いわゆるバーチャルアイドルとかではなく、実際にやってはいるよ、という生感の証明が、そこにありますよね。個人的には、曲だとか、音源的には、ライブ感のないものもあるとは思いますけど。ダンスなんかも含め、トータルとしてどこら辺でバランスをとるかというのは大きくて、もうすべてを本当に生演奏でやります、というのも一方の極にあるかもしれないけれども、今の世の中は完全にはそれを求めてなくて、ここまではつくり込んで、ここに身体性を入れて行きます的な、バランスの妙を探している部分があります。

さらにそれが発展すると、例えば、いわゆるボーカロイド、今のヒットチャートの上位を、ボーカロイドが席巻しているわけですからね。例えば現在の、中高生ぐらいだったら、生のアイドルなんて聴かないっていう層もたくさんいるわけで、そうなると、今度はボーカロイドですから、あれはあれで、結構身体的なニュアンスを出そうとする努力があるけど、どこかでやっぱり線を引いているところがまたよくて、そのバランスを愛するということ自体が、文化的な趣になっちゃう部分があります。

編集部

そういうことで興味が湧くのは、たとえば、椎名林檎とボーカロイドがいて、椎名林檎のダイナミックレンジや揺らぎを知ってしまった人間が、果たしてボーカロイドに心が揺らぐのかという問題はありますよね。全然関係がないのですが、さきほど、この取材の待ち時間に、蕎麦屋に入ったのですが、そこでとある高校生が、ヘッドフォンで音楽をがんがんに聞きながら蕎麦を食べてたんですね。おいおい、蕎麦はすする音とか香りの鼻孔への抜けとかも含めて蕎麦だろう、と。一方で、音楽もMP3の192kbps当たりでシャカシャカと何かを聞いているんだろうな、と思って、何かそこに象徴的ななにかを感じたわけなんです。

柏野

もちろん聞き手のレベルもあると思いますが、音楽の受容目的も多様化しています。音楽は常に、全身全霊で向き合わないといけないようなものなのか、割とバーッと流れていればいいようなものなのかというのもあるとは思うんですよ。だって、パフォーマンスとして、すごい、それこそ限界ぎりぎりなものは聴き流すわけにはいかないんですよ、動物として。でも、日常音楽を聴くときに、常にそういうモードで聴きたいかというと、それは別にそうでもないかもしれないですよね。

編集部

ハレ(非日常)とケ(日常)を分けるわけですね。

柏野

またもう一つ大事な点は、人間の脳って非常に可塑的であるということです。どういうもので今までどういうものを経験してきたかによって、すべてがチューニングされ、相当組み変わっているわけですね。

一番極端な話は、たとえば仔猫を縦縞しかない世界で育てたら、縦縞しか見えなくなりますという有名な実験があります。だからハードウェアだけじゃなくて、聴覚経験によってどんどんチューニングされていくところというのは大いにある。とすると、今や、生まれ落ちた瞬間から、あるいは、母胎にいるときから、ある個体がどういう音にさらされたかというのは全部録音していくということは、現在技術的には可能になってきています。

編集部

空恐ろしいですが、全く可能ですね。

柏野

それを一瞬にして検索するということも可能な世の中で、それは例えばうちの研究所でも、それを研究している人間がいますけど。人間の一生分の映像であるとか、音とかを全部記録するということは可能で、それと、じゃその人の脳がどうなっているかというとき、対応させるということも、多分これから可能になってくると。例えば、ボーカロイドばっかり聴いていたという人がいたとしましょう。片方は何か椎名林檎さんとかバッハの名演とか、身体的にすごい音楽ばかりを聴いてきて、その人の脳が、例えば15歳の時点でどうなっているかというのは、それは非常に興味深いところなんです。

編集部

興味深いですね。

柏野

ある世代にとっては身体性の高い、情動性の高いものは、むしろもう受け付けない世界かもしれないんですよ。その逆もまたありだと思うんですけど。脳に可塑性があるということは、仮に同じ状況で同じ音を聴いても、人が違えば同じ知覚や感情を経験するとは限らない。つまり、そのそばを食べている人がこれまでにどのような音楽あるいは体感経験を持ってきたかということ。その音楽を聴くことによって、どれだけ情動的な揺らぎを受けたいかという。だから別にそこで何も動かされたくはない。今、食事しているときに、そんな思い切り感動したくはない、ということも含めて、適切な、脳の働きを経験で自ら作っている。

編集部

一切、ゾクゾクしたくないと。

柏野

ある年齢まであまり情動的なものを経験してこなかったとすると、比較的ニュートラルで、起伏のあるものがもう生理的に嫌だったり、あるいは、その程度のもので気持ちいいぐらいに、ゆるーくゾクゾクしている可能性もあります。

編集部
今、お話し聞いててちょっと面白いと感じたのは、音楽へのダイナミックレンジの話や、揺らぎへの反応が、味覚にも近いのではということです。たとえば、渋谷や新宿で最近の若者に愛されている飲食店って、基本的にそういう繊細な味わいではなくて、もう「油と塩」の量だったりしますよね。それはどうしてもマーケティング上のパンチがきいてて、早く出せて、若い人をとりこにして、それが中毒性を持って、リピーターにつながるというサイクル。そのときに、別に油と塩ばっかり好んで食べてきた人に、突然、「湯葉」を出したら、「何でこんなん食ってんだよ。味、ないじゃん。」と言われる可能性が高いわけですよ。つまり可塑性を持った構造的な取捨選択が、脳と都市環境の間で、なされている。
柏野
世の中は、受け手のマジョリティーがどうなってくるかによって左右される部分が往々にしてあると思うんです。ヒット曲は、大衆に届かないといけないわけで、その人たちがみんな油と塩を求めているときに、そうじゃないものはヒットしないということになるわけだから、作り手はそっちに流れますよね。かつ、それにポジティブフィードバックがかかるわけで、結局、さらされる経験自体が蓄積的に変わるわけですよね。最初は、最近のラーメンは油と塩がすごく増えたなあーと感じていて、すると次第に意識せずとも油と塩にさらされることになるので、今度はそっちにチューニングしたような脳になっていくということで、どんどん、どんどん世の中がそっちに動いていくと。
編集部
すると繊細で読解に時間がかかるような音楽を真剣につくっている人は、むくわれない世の中になってしまう。
柏野
一時的にはそういう部分もあるかもしれません。ただ、一方で、人間生理に立ち戻って見てみてると、今の段階では、毎日ラーメンやコンビニ弁当だとどうなるかというと、やはりどっか健康を害するということがあると思う。一方で、今の現代人が山野にいきなり放たれたとして、生きてはいけない。だから音楽に関してもあまり悲観的にならずに、自己調整作用を信じてもいいような気もしているんです。

ある程度予測可能で、ある程度予測不可能な状態

編集部

ゾクゾクさせるとか、揺らぎを起こすとか、もしかしたらもっと言葉にならないこともあるのかもしれないですけど、ボーカロイドのオーディオ波形と、例えば椎名林檎の波形とバッハの名演の波形を見たときに、何かその波形特徴みたいなものというのは、あるのでしょうか。

柏野

研究者によっては、こうなんですよとまことしやかに言う人はいるかも知れませんが、なかなか簡単ではないとは思います。ひとくちに波形といっても、ミクロなものからマクロなものまで、いろいろなレベルが考えられる。普通に波形というときには、刻一刻の空気の振動そのものの波形、つまりミクロなものを指していて、ここに音の高さや大きさ、音色などの情報が含まれています。この波形によって、これはピアノの「ド」の音だとか、誰それの「あ」という音節だとか、あるいはそれがちょっと震えているとかかすれているとかいうようなことがわかる。一方で、そういう一つ一つの音の系列がなすパターン、例えば音の高さの変化としてのメロディなんかも一段マクロな波形として捉えることができる。情動に関係あるような特徴というのは、その両方のレベルに見られるはずなんです。音色や声そのものの特徴と、演奏や節回しの特徴、その両方です。

それが何か、と言われれば、ひとつ本質的だと思うのが、「予測性」です。例えば音符の一つ一つは、そこまで聴いてきたものからある程度予測できる。もし毎回サイコロを振って音符を決めていたら、まったく予測できない。これは音楽としては面白くない。一方、あるパターンが延々繰り返す、というのなら、完全に予測できるけど、これはこれでつまらない。いい音楽はその中間のどこかにある。つまり、「ある程度予測可能で、ある程度予測不可能」という状態ですね。よく、「1/f 揺らぎ」というじゃないですか。あれは数学的に言えば、スペクトル密度が周波数(f)の逆数になってるということですが、要するに、完全な規則性とランダムとの間、ということです。一音というミクロなレベルで言えば、完全なランダムはザーというホワイトノイズ、完全な規則性はピーというチープなシンセみたいな音。生の楽器や声は、情報論的に言えばその中間。ボーカロイドの打ち込みは、生よりは規則性が高い。

音楽的快感とは、つまり「適度なサプライズ」なんです。ここで重要なのは、サプライズというのは、「予測するからこそサプライズ」があるということ。何も予測していなければ、驚くこともないわけです。

脳は、過去の経験から次を予測して、そこからの差分、つまりサプライズというのを検出して、それを踏まえて賢くなっていく。つまり、差分までも含めて説明できるように世の中に対するモデルというものを更新していく。それによって、より世の中に対して適応しやすくなっていく。それが学習のプロセス。音楽っていうのは、それのシミュレーションなんですね。1曲の中で繰り返しがありますと。繰り返しをあらゆるレベルでやって、ミクロな波形も繰り返しているけれども、マクロなメロディも繰り返してるし、ソナタ形式だったら第一主題と第二主題が出てきて、いろいろ変奏、展開された挙げ句に、また主題が出てくる。

編集部

歌謡曲ならAメロ、Bメロ、サビときてまたAメロとか。

柏野

つまり、音楽は、音色、リズム、メロディ、どの観点、どのスケールで見ても、「繰り返し、つまり予測を催促するようなパターンを敷いていて」「その予測された形式を壊すノイズ」との組み合わせでできていると言えます。脳は、それに一生懸命アダプトしようとしてる。そもそも、予測できなかったものに対する検出というのは、野生動物なら、本来、生死を分ける。もっとはっきり言えば、もう予測できることには、我々は興味ないんです。だから、テレビでテロップはがすときに毎度ジャン、ジャンとやってますけど、あれはうるさいだけ。音は鳴っても情報量ゼロなわけで、それはどうでもいいというか、むしろその無意味さが不快ですよね。人間は、予測とサプライズをこよなく愛する生き物と言えますね。

編集部

柏野先生は、まるで人生を語るように音楽を語られます。

柏野

まさにそうなんです。実は人生もいろいろなタイムスケールの波形として捉えることができます。明日があまり予測不可能だとやる気は起きない。明日が簡単にすべて予測可能でも飽きてしまう。予測をして、裏切られるからこそ、楽しい。人生の面白さも、それを生きるひとにとっては一つの曲だとも言えるような気がします。ある程度予測可能で、しかし完全な予測は不可能、この状況の中で何とかしようというせめぎ合いこそ、生きてるってことだとも思うのです。

デジタルによる野性のより戻し。脳がぼくらをかならず守ってくれる。

編集部

音楽のデジタル化における影響に関しては、どうお考えでしょうか。昔のようにお小遣いをためて買った一枚のレコードをすり切れるまで聞いた時代から、今は中学生がポケットのiPodに1000枚のアルバムを入れて歩く時代になりました。さきほど話してきたコンビニ弁当的な音楽にすべてが席巻されてしまうという恐れを持った方がいいのでしょうか。

柏野

なんとなくエモーショナルになりがちな音楽だからこそ、淘汰を信じると言うか、あまり懐古的にならない方がいいじゃないでしょうかね。デジタル化した音源は、時間的、空間的な制約を超えて自由に増殖していきます。つまりそれだけファンが増えているということで、それ自体はポジティブに捉えたい。確かに、音質的な劣化に慣れた世代が増えていくなどという可能性は否めませんが、あまりにデジタル的な異様な変質を続けていけば、かならず脳がストップをかけると思います。

編集部

コード進行に見るヒットの法則とか、いいねボタンとか、N次創作とか、文脈のサイクルが、あまりに加速度的に速くなってるのに対しては、どうお考えでしょうか。

柏野

確かに、コピー&ペースト的な感覚でやるモノ作りというのは、時代的に増えていると思うんです。それはさきほど申し上げたような、ある種の音楽パターンを一気に氾濫させてしまうということはあるかも知れない。ただ、安易で刺激的な作り方が行きすぎると身体がきつくなる部分もあるのではないでしょうか。違うフィールドでたとえますと、たとえばSNSで、世界中に2000人くらいの友達がいて、結構まじめに共鳴している人ってたくさんいますよね。でも、場所も、人数も含めて、身体的には、不可能な人数ですよね。もともと、脳は身体を制御するために進化しました。しかし、今は脳が脳のための文化を実験的に発展させて、その文化が身体性からは離れたところに行ってしまった。そこに必ず身体が脳の出自を問い直して、寄り戻しを働かせると思うのです。おいおい、君は、なんのために進化したんだい?と。

編集部

脳が行き過ぎれば行き過ぎるだけ、脳が身体との初期契約を思い出すような。

柏野

音声のデジタル処理についてみても、やはりロゴス、シンボル中心に発展してきて、その取り回しのよさを追求するあまり、身体性、つまり情動とかエロスとかいう部分はなおざりにされてきたところがあります。例えば携帯電話では声を非常に小さいデータ量に圧縮して送受信しているわけですが、その基本原理は、ソースフィルタモデルという概念です。つまり、声帯振動や声道内の乱気流という音源(ソース)に、舌や顎などの特定の形による共鳴(フィルタ)を掛け合わせて、任意の音素を表現する。たしかにこの方法はものすごくパワフルなんですが、このモデルでまったく捉え切れないのが、実は、エモーショナルな声なんです。

編集部

普通の感情状態を超える声は、表現できないんですね。

柏野

怒った声、唸り声とか笑い声、泣き声、かすれた声とか、まあいろんな声、感情音声というのはいろんな声が出ますけど、これは、単純なソース掛けるフィルタという形では、うまく記述できない場合が多い。音の生成過程がそもそも違うんですね。普通のアイウエオであっても、感情を乗せる、例えば演歌なんかの歌手というのは、アイウエオをそのままアイウエオで歌わないですね。つまり、いろんなニュアンスを乗せて、ときには音韻性を変えてしまうほどに調音の仕方を変えています。

編集部

こぶしと言われたり、なかなか言語化・体系化されづらい部分でもあります。

柏野

要は「何を言ってるか」という音素、音節以上の音響的な情報というのが、そこにはいろいろ乗っているわけで、そこが実はそんなにちゃんと捉えられてないんですよ。今の音声認識あるいは音声合成のテクノロジーの中では、それはノイズとして扱われる邪魔者なんですね。

編集部

一つお伺いしたいのは、意味と無意味、ただの音にすぎないものが、突然、意味が無意味になったりとか、行き来することこそが、音楽的快楽の象徴なのではないかということです。そもそも何かを意味化する快感自体が、音声解析にはなくて、我々聞き手にはあるのではないか。

柏野

音楽が、受容されるのって、最初は意味じゃないところから受容されるんです。歌詞自体も、それが散文だったら散文で読めよって話になって、別にそれを歌にすることはないわけですよね。だから、言葉自体としてロゴスが100%伝わるようなものというのは、元来それは歌詞じゃないんです。やっぱり歌の中で歌わなきゃいけないから、例えば100%それが聞き取れたとしても、まだ何のことやらよくわからないような状態というのが多分あって。でも、ある日突然、「ああ、これってこういうことだったのか」みたいな部分がわかる瞬間というのがあったり。でも、それは唯一絶対の解釈かどうかわからない。それは自分の経験とかに照らして、こう思うと全部つじつまが合うなという。でも、それはつくった人は違うのかもしれないですけど。

だから、ある種、情報をすごく落として、俳句なんかもそうだと思うんですけど、100人が必ず一通りの解釈をするようなあいまい性のないものではなく、何とも言いかねるようなというか、何とでも言えるようなものでないといけない。だから、相当情報を落とされた状態のものでないといけないし、それは二重にバリアがあって、つまり何を言ってるわかりませんという、発音が巻き舌だったり、あるいは英語だったり、リズムがおかしかったりして何を言ってるかわかんないということも一役買うわけだし、さらには、わかったとしても、その歌詞の意味がよくわからないみたいなのも一役買う。だから、そこの、すぐにわからないということ自体が、そもそも歌には必要で。何か、そうじゃなきゃ、別に論文なり分かりやすい散文書いて、「はい、こういうことでございます」と渡せばいいわけのだけど、そういうところに音楽の歓びの根源はない。だから、同じものを聞いても、聞き手の状況によっては、サプライズがある。「あっ、これってこういうふうだったのか」「あっ、こんなこと言ってたのか」みたいな、長く聞き続けられる歌には、そういう経験がすごく多いですよね。

編集部

今、柏野さんのお話を聞いていて思ったのですが、「うた」って「歌」とも「詩」とも「譜」とも、書かれますよね。英語だと、singだし、lyricsだし、同時にmelodyでもあると。つまり人間の情動が、多次元のコーディングされた状態を、聞き手の視点から創造的にデコードすること自体が音楽の魅力かも知れません。

柏野

結局ね、人間って「ゲシュタルトチェンジ」がやっぱりすごく快感なんですよ。

編集部

ゲシュタルトチェンジ、固定観念を崩壊させる瞬間。

柏野

そう。「こうだと思っていたものが、全然違ったんですよ、実は」という世界です。つまり世の中こうだと思っていたら、全然違う見方ができました、みたいなことに気がついた瞬間こそ、うわーって幸せになりませんか。で、音楽の快楽構造は、まさにそうなってて、結局、その歌詞の意味なんてよくはわからないっていうか、何通りも解釈可能なものじゃないと逆に言うと非常につまらない。その上で演奏者のギリギリ感や、メロディや歌詞の多重性があって、ある点に達したときに、突然、ずっと見ていた世界が、全く違う景色に見えることがある。歌い手と自分が共鳴しはじめる。共鳴するということは呼吸がそろう、心拍がそろうということです。ここが自分か他人かさえ分からなくなる瞬間。あっと世界が広がる瞬間が、情動的な世界が、音楽的体験にはあるのです。