タイトル
歌をつくる
著者 / 話者

アイドルは総合芸術だ

アイドルは総合芸術だと思うようになったのはPerfumeのブレイクの時でしたね。まさにニコニコ動画やYouTubeで発見されて、口コミでブレイクして、その後Perfumeのサウンドを真似した女の子のフォロワー・アーティストが、本当にたくさん続いたんですが、やっていることは同じなのに誰一人成功しなかったんです。中田ヤスタカさんプロデュースのアーティストですらそこまで成功しなかったんですね。同じことをやっているのに、なんでうまくいかないんだろう?よくよく考えてみると、Perfumeは歌だけではなく、パフォーマンス、衣装、それに振り付けや3人のキャラクター、さらにPVの質感など、そういったものを全てひっくるめてのPerfumeなのであって、それが受けたんだと気が付いたんです。歌はその芸術の中のファクターの1つでしかないにもかかわらず、そこをフォロワーの人たちはまるで豆腐の湯葉をすくうかのように歌だけに焦点を合わせて勘違いして、結果受け入れられなかった。つまり、まるまる全てで一つの作品、つまり総合芸術なんですね。

過去のアイドルを振り返ってみても、やはり総合的ではないかと思います。そして、総合的であるということが、歌が上手ではない人が歌手になれるという日本のアイドルのユニーク性の背景にあるのかもしれません。他の国では、例えばジャスティン・ビーバーやブリトニー・スピアーズも歌がとても上手いですよね。きちんとトレーニングされていますし、お隣の韓国だって、研修期間にみっちり歌を鍛えられてからデビューするから歌唱力が全員高いんです。ところが、日本では状況が少し違う。

日本の歌謡曲の歴史を振り返って、いつから歌が上手くない人が歌手になり、ブレイクし始めたのか考えてみると、僕の知識で最初に思いつくのは郷ひろみさんです。御三家で、野口五郎さんと西城秀樹さんと郷ひろみさんが出てきた時、郷ひろみさんの歌唱力がやはり弱かった。秀樹さんの歌唱力はすごいですし、五郎さんは半分演歌ですし。郷ひろみさんの場合、「♪ボクたち男の子ヘイヘイヘイ」で、音程を思いっきり外しているんですよ。しかも、ちょっと変わった声質で。でも、受け入れられたんですね。それまでは日本の歌謡界は浪曲などの流れがあって、キャンディーズにしてもすごく上手かったり、「浪曲上がりのムード歌謡」だったり、ナントカ先生の下について歌を勉強してデビューしたみたいな。ところが、あの辺りから崩れ始めたんですね。そして、アイドル、特に男性アイドルで田原俊彦さん、近藤真彦さんが続いて。一方、女性は松田聖子さんや中森明菜さんは歌が上手くて、小泉今日子さんや伊藤つかささんあたりから変わってきたんです。そしておニャン子へと続いて、そこでは完全な素人です。例えばアメリカでは、ウワーッと声が出たら、もう拍手喝采で、スタンディングオベーションをするのが当たり前なんですけど、日本のアイドルではその必要がない。視覚性なり、参加性なり、やっぱり求められているものが違いますから。この特殊性は世界でも日本だけではないかと思うのですが、一方ではむしろそこに可能性があり、面白いと感じています。

アイドルと歌について考えをめぐらせてみると、今の日本人にとって歌はすごく幅広い意味合いを持つものなのではないかということに気が付かされる。例えばニコニコ動画の中で、ボーカロイド、初音ミクのボカロと言われる音楽でオリジナル曲をつくって、それをコミケで1万枚売ったり、地下アイドル(ライブアイドル)が手売りで何万枚も売ったり、ヴィレッジヴァンガードだけでの販売ものが売れたりするなど非常に多様化しています。さらにネットの普及で選択肢が増えた分、アイドルばかりではなく、アニメソングやボーカロイドを含めて、それぞれのニッチなところで狭く深く音楽を愛する文化が成立してきていますし。そして選択肢が増えた分、現在では歌のフィールドが、オリコンシングルヒットチャートやMステだけではなくて、幾つも出来ているんですね。

そのような意味では、グラビアアイドル吉木りささんの曲、「ボカロがライバル☆」は音楽やアイドルを取り巻く環境や文脈みたいなものを部分的に象徴しているかもしれません。今、グラビアアイドルは絶滅危惧種と言われるような瀕死状態で、AKB48に表紙を取られてしまっているんですね。もともと雑誌のグラビアは本人のプロモーションになるからということで大体ノーギャラなんですが、ノーギャラの分すらも出られない。出演の機会がどんどん無くなってキャバか芸能人AVに落ちていくんですけど、その中で一人勝ちしているのが吉木さんなんです。要するに、今はAKBアイドル、アニメ、初音ミク等々、二次元とかそういったものに若い人が傾倒し、草食系どころか絶食系とまで言われて、性に興味がない、三次元に興味がない、エロに興味がない、そんな状況なんですね。その中で唯一気を吐いているのが吉木りさであって、吉木りさの写真集とかグラビアを見る人は、エロい目で見ている人が多い訳です。そんな吉木りさが草食系、絶食系の人たちへ宣戦布告する……。三次元代表ラブシンボルが、二次元代表ラブシンボルにけんかを売るような感じですね。これは、吉木さん本人もそういったニッチな文化が好きなので実現した曲かもしれません。

完成させるのはお客

僕は最初にニコニコ動画で音楽での自分の居場所を発見したのですが、その時にニコニコ動画の住民たち、当時のニコニコ動画の住民が何を求めているのか、どういったものが好きなのか、どういったものだったらみんな楽しんでくれるか、そしてどうしたらコメント、しかも笑いのコメント、つまり草(”www”の表記など)が増えるのかと逆算したことがありました。5曲目ぐらいで有名ブロガーに発見されて、みんなに伝わって、ランキングが僕の曲で全部占められた時にいろいろなコメントが付いて、「あ、こういうところで反応しないんだ」、「ここで反応するんだ」みたいなことを理解して。コメントは何の中卸しもなく産地直送みたいに直接来るので、何が求められているのかがダイレクトに分かりやすいんですね。

今でも僕は決して、売れる曲を書くことに注力している訳ではなくて、本当に人を喜ばせるエンターテインメントとしての歌しかつくる気はないんです。もちろん音楽にエゴを持ち込む方はとても多いですし、それはその自意識を発表するツールとしての音楽なので、素晴らしいことだと思っています。ですが、僕はみんなを喜ばせるツールとして音楽という装置を使って、ただ単純につくっているという意識があって。でも、売れなきゃつくらせてもらえないのも事実なんですね。

具体的な曲作りとして、まずは、僕が何をしたいかじゃなくて、歌い手に対する聞き込みを入念に行います。歌い手が、何を問題にして生きているのか、どういうことを歌いたいのか。そうでないと、最終的にリアルなものができないと考えています。吉木さんのときも、いろいろお話させていただいてキーワードが出てきた。そして一口にアイドルと言っても、最近は遠いものから会えるもの、アルゴリズムロボットまで多様化してきている、そこで、本当の生々しい魅力を持つ吉木さんだからこそボカロみたいな仮想敵を作ったら面白いんじゃないかということで「ボカロがライバル☆」が出てきました。

曲作りでは、サビの部分がまず出来ましたね。吉木さん達との打ち合わせでトイレへ行ってる時でしたが、「♪勝~てないのよ、勝~てないのよ」というフレーズが出てきて、「あ、キャッチーだな、覚えやすいな」と。リズムもインスピレーションで、そのソースがどこから来ているのかは自分でも判別不可能ですが、曲をつくっている時にまず「出来た」と思ったら、「歌い手さんとレコード会社さんの発注に対して応えられたな」というすごく小さな場所での「出来た」なんです。そして、歌い手のアイドルがうたったら多分面白いことになるだろうなというのを考えて、もう一歩の「出来た」になりますね。やはり僕はビジネスマンとしてすごく失格な部分があって、売れるためのあざとさとか、「売るためにこのコードを使う」とかそういったものを全く無視して曲をつくっているんです。ももいろクローバーZがうまく僕の方向性とがっちりハマってブレイクしたので、何かと僕も取り沙汰されるんですが、そういうふうにあざとく……あざといと言ったら言葉が失礼ですが、ちゃんと計算して売れるポピュリズム、売れる曲をつくろうとするあざとい側面をなるべく削ぎ落すようにしています。マーケティングを見すぎずに、独自の濃さみたいなものをどこまで作れるか。ももいろクローバーZを見てみても、正直、AKB48というポピュリズムのカウンターとして存在しているので、AKB48がいなかったら、ここまでなったかどうか……。彼女たちが正統派でまっすぐ進んでくれているから、めちゃくちゃでハチャメチャなことをやっているももクロが面白いと、結果みなさんが取りあげてくれるという構造。

基本的に僕自身はアイドルの総合プロデュースという立場ではなく、まず発注があってからの曲づくりが中心です。事務所の方とレコード会社の方と僕で話し合い、演出家さんとも話し合って、「どういった演出にするから、どういった曲が欲しい」みたいな打ち合わせをして、それこそ「総合芸術」の中のファクターの1つを担当しているような感じですね。曲の製作過程は本当にらせん階段を登っているようなもので、化学変化みたいなものがどんどん続いて……。最終的にももいろクローバーZの5人がパフォーマンスをする時には、僕らが思いもよらなかった形になってアウトプットされて。ですが、僕はアイドルの歌をつくって、レコーディングして、パフォーマンスまで決まっても100点満点のうち80点ぐらいだと思っています。最後の20点は何かというと、特に最近の時代では観客なんです。観客の皆さん、ファンの皆さんの掛け声ですね。「オーイ、オーイ」とか、「ヨッシャ、いくぞぉ~」とか、「グォーッ」みたいな声が入って初めて完成するんです。実は、それがあってこそ、本当の意味での「出来た」なんですね。なので、特に今の時代のアイドルソングにはファンの掛け声やパフォーマンスは必要不可欠だと僕は考えています。僕が使う「総合芸術」という言葉にはそのような意味も含まれていますね。

デジタルかアナログかではなくて、生感があるか、どうか

何でも手に入る、何でも情報が手に入る時代になって、逆にAKB48の握手会みたいなものが流行る逆転現象が起きていますよね。わざわざ自分で足を運んで三次元接触、三次元の実体験。今はCDが売れなくなったから、ミュージシャンもたくさんライブをやって、グッズ販売も含めてそれでペイしていますけど、実際に社会も三次元の方向へ回帰している側面があるのではないかと思っています。

2年前、ももいろクローバーのメンバーが1人辞めることになったんです。その時には、彼女の名前が早見あかり、通称あかりんなんですが、「あかりんへ贈る歌」という曲をつくったり、一番仲良かった女の子と二人で「♪大体何でやめんのよ、今が大事な時じゃん」みたいな感じでラップバトルをやったり。さらに、メンバーのキャラクターソングのような曲をつくったり。また、5人の中で事務所から若干推されていないメンバーがいて、いつもジャケットでは両端か後ろで、PVでもソロのパートが映っていなかったりするんですが、「事務所にもっと推され隊」というのもつくったんですね、プレゼンして。僕が意識しているのは生々しさ、人間らしさと言えばいいでしょうか。AKB48の握手も手と手が触れることであって、デジタルなものが氾濫した今、生身やアナログなものをみんな本能的に求めているんじゃないかなと非常に感じています。あっちゃんの卒業やその人間ドラマに涙して一喜一憂したりするのもそうじゃないかなと。そこで、ももいろクローバーZに関しては、今現在の彼女たちの人間ドラマを感じるような曲づくりを意識していますね。すでにアイドルが雲の上の人という時代は終わっていますし。

曲のコンセプトは発注先で決められるケースが多いのですが、「ドキュメンタリーソング」をつくる時は、さきほど申し上げた通り、本人たちに入念にインタビューしますね。吉木さんの曲もそうですし、中川翔子さんの曲もそう。本人たちにインタビューや聞き取り調査をして、本人たちの意向や意思をピッタリ反映させたものにして、まず本人が喜んで楽しく自発的に歌う曲づくりを考えています。歌わされているのではなくて、歌いたいと思える曲を歌って、聴いている人たちにも、生の吉木さん、生のしょこたん、生のももいろクローバーZを感じてもらえたらなと思っています。生な感じ。サウンドはデジタルだし、たとえそれがデジタルなかたちで広がっていくとしても、根っこにリアルなテキスチャーがあるかどうかだと思います。

僕が人と違うところ、もしかしたらプロっぽくないところは、多分アーティスト本人と一緒にいろいろ考えて、一体化していっちゃうところではないかと。あと、ももクロのコンサートに行ったら、僕も一緒に楽しむんですよ。「あーりんは反抗期!」という曲で僕が大暴れしていたら、ちょうどフットボールアワーの岩尾望さんが来てて、後々ラジオでおっしゃっていたらしいんです。「僕の隣でヒャダインさんが見てて、超ノリノリで腕振り回して応援しているんですけど、それってAKB48のコンサートで秋元康さんが腕ブンブン振り回して応援しているようなもんですよね。おかしいですよね」って(笑)。僕は歌い手とクライアントとそのファンが楽しめる曲づくりを中心に捉えていますが、同時に自分がつくっていて楽しいということ、自分が楽しめるということもそこにはあるかもしれませんね。

誰もが野獣を解放したがっている

ニコニコ動画をやっていた頃は、頭の中ですごくロジカルに逆算しながら、自分から出てくる衝動を指先でキーボードにぶつける感覚もありました。ですが、現在の僕にとってはアイドルソングが一番のマーケットで、そのカスタマーであるファンにどういった曲が刺さるか、どういったものを喜んでもらえるかということをともかく第一に考えています。彼らはコンサート会場では、エコ、エゴ、エロで分類すれば、エロティックな意味じゃない「エロ」なんです。もうみんな「野獣」というか、思いっきりプリミティブなんです。怒声を浴びせて、笑って、泣いて、号泣したり。みんなでかけ声を出す共鳴のカタルシスみたいな……。もう、吹っ切れた野性、すなわちエロもろ出しなんですよ。エコとエゴをたぶん放棄して、エロのみの世界なんですね。だから、それを満たさなければならないわけです。もちろん、作り手にもそのための野性が必要なんですが、作り手としての基本は完全にエコです。僕自身は彼らにとって、彼らが一番コンサート会場でプリミティブになれるようにするサービス産業だと思っています。でも、それをあまりにロジカルにつくってしまうと、予定調和であざとくなるので、直感的にその野獣性と連結することを忘れないよう頭の片隅に置きながらやっていますね。曲をつくる時もタイムコードでここで騒ぐとか、ここでコールが入るみたいなことも考えています。あの空間ではコールをどんどん積み重ねることで本当にトランス状態になっていくので大切なんです。ファンにとって「かゆいところに手が届く」、ファンをノリノリにするばかりではなく、野獣にするような存在であることを僕は意識していますね。

今の日本のアイドルへの傾倒ぶりを見ていて思うのは、社会に残っている家父長制が影響しているのではないかということでしょうか。現在のアイドルにしても、昔のおニャン子にしても同じで、男性は女性を心配したいんですよ。男性が上でいたいというか。これはアニメでも同じではないかと思います。最近、アニメのスタッフが印象的なことを言っていて、女性声優の握手会では99%男性ファンなんですが、結構上から物を言う人が多いらしいんです。「あのときはあれがよかったよ」とか、「あれ、もうちょっとこうした方がいいと思うよ」とか。やはり、昔から続く父親の亭主関白の家父長制の影響があって、男は強くなければいけない、男は上でなければいけないという無意識の刷り込みがある一方、もう世の中はそういった雰囲気ではなくて、女性と男性がフラットになっている……。自分の軸にちょっとだけ残っているその家父長制と現代のアンビバレントな部分をアイドルが補完しているんじゃないかと感じますね。その野獣性、家父長制が解放される空間がコンサート会場なのかもしれません。

最近では、音楽熱狂難民になっている人たちがいますね。F3層、M3層でしょうか。しょうがないから昔の曲に回帰して、シカゴが東京に来ると満杯になったり……。歌というのも時代とともに変化して、最近では歌の使用法に変化があるように思います。今までの歌は、例えば演歌の歌詞になぞらえて自分の人生を重ねてみたり、それで涙したり、あるいは共感したり元気づけられたりするような使用法だったんですが、最近の歌はエンターテインメントになっていて、この変化による影響が大きいのではないかと思っています。音楽熱狂難民が従来から慣れ親しんだ使用法に合致する歌が少ない、あるいは、現在の彼らが今の音楽によって野性を解放することが出来ないと言えばいいのでしょうか。

本来ならば音楽熱狂難民の人々は演歌を聞いているのかもしれないですね。僕も演歌もやってみたいなという気持ちはとてもあるんですが、演歌リスナーの数が減っていくのではないかと心配していて。昔ならば、例えばヒットチャートに「矢切の渡し」が入っていたり、トシちゃんの曲の下に演歌がランクインしていたものですが、最近のヒットチャートに演歌が入るとしたら、数人じゃないですか。坂本冬美さんもヒットチャートに入った曲は演歌じゃないですし。昔はある年齢に達したら演歌がわかってきて、演歌リスナーになる流れがあったそうですが、やはり音楽がパッと楽しむエンターテインメントになって、その流れが変わったのかもしれませんね。あるいは、昔はラジオから流れてくる曲の数が少なかったりして、意識的に聴いていなくても若い頃から演歌の刷り込みがすごく多かったのかもしれません。刷り込みがあったので、若い頃は演歌を嫌だなと思っても、馴染みがあるため歳を重ねるとその良さがわかってくるような。ですが、今の僕ら世代でも、その刷り込みがほぼなくなっている状態で、演歌がいいな~と将来思うようになる自分を想像出来ないんです。

ただ、その世代や人々が楽しめる曲づくり、彼らが野性を解放出来る音楽づくりには興味がありますね。特にこんな時代だからこそ、みんなリアルが欲しくて、音楽熱狂難民もそれを求めているからこそ迷っているのだと思いますし。いろんなものが予定調和になっている中で、日本人は野獣性の解放、すなわちガチを求めているのではないでしょうか。