タイトル
ゲームがわたしを拡張する
著者 / 話者

次世代機と呼ばれる家庭用機が発売されてから7年近くの時が過ぎようとしている。この間、ゲーム業界は任天堂のDSシリーズやWiiなどによる「非ゲーマー層」の取り込みや、海外製ゲームの流入、スマートフォンの普及、ソーシャルゲームの台頭など、数多くの荒波に晒されてきた。ゲームのモバイル化が進む一方で、海外勢を中心とした超大規模な大作ゲームも増加傾向にあり、また、これまでなかった新技術も出現する中、ゲームの表現は多様化を極めている。
 そんなゲームの進化の歴史の中で、これまでも様々な形で追い求められてきたのが、いかにバーチャルなゲーム世界へ<生>感のあるリアリティを付与するか? ではないかと思う。 最新のテクノロジーやネットワーク、またこれまでのローテクを積み重ねる中で生み出された、その<生>への最新の試みを、この記事では大きく5方向に分けて紹介していきたい。

『「感情」という<生>を刺激する』

数年ほど前まで、「ノベルゲーム」と言われる種類のゲームが非常に大きな盛り上がりを見せていた。ノベルゲームとは、いわゆる「萌え」系のキャラクターのイラストと、小説のようなテキストが組み合わされて作られたアドベンチャータイプのゲームで、その多くは、アダルト指定である。しかし、この年齢指定を逆手にとり、アダルトだからこそ可能な、自由な表現を追求する試みも多く見られ、ある種のゲーム表現の最前線の一つとなっていた。ループものと言われるゲームの構造を逆手にとった物語のシステムが生み出されたり、グラフィックと音楽、効果音を秀逸に組み合わせた新しい演出手法が開発されたりする中、一つの潮流となったのが「泣きゲー」と言われるカテゴリーである。
 泣きゲーにおける「泣かせ」の最も重要なポイントは、泣きに至るまでの「時間」だといえる。この手の多くのゲームは、プレイ開始からのおよそ10時間~20時間程度の長大な時間を、何事も起こらない、ある意味くだらなく、つまらないとさえ思えるような「日常」描写で埋め尽くす。その過程のなかで、登場する「萌えヒロイン」への思い入れが知らず知らずの内に高められていく。日常の世界観の文章的な密度や質は、必ずしも高くない。日常というものは、得てしてつまらないものだ。それを形にするだけかのように、ただ、なんでもない平穏な生活のなかで、キャラクターの可愛さや素顔が描写される。
 しかし、それは前哨戦にすぎない。次第に、日常の中へ、定食に混じった砂粒のような異物のごとく、徐々に不穏な気配が現れ始める。そして、それはある1点で……そして、プレイヤーにとっては唐突なタイミングで、(例えば、その不穏が気のせいかと安堵した直後のような時に)れっきとした形をなし、現れるのだ。それまでの日常が、唐突に崩壊する瞬間。もう過去には戻ることが出来ないとはっきり分かる形で、どうしようもない悲劇が、起きてしまう。それが、ノベルゲームにおける最大の盛り上がりであり、その「落差」こそが、プレイヤーへ、まるでスイッチを押すかのごとく、抗うことのできない「泣き」を生み出すのだ。
 ああ、これまで当たり前でつまらなくもあった日常が、どれほど大切で、愛おしいものだったのか、と。
 ノベルゲームは基本的にそこに必要とするスペックは決して高くない。使われているのは古くから普遍的に存在するイラストレーションとテキストと音楽だけと言ってよく、そのクオリティがいかに高かろうと、ひとつひとつはただの絵であり、ただの文字列であり、ただの感動的な音楽でしかない。紙芝居と大きくは違わないと言ってしまっても良い。だが、そこへプレイヤーが投下する時間の蓄積と思い入れが、プレイヤーの心理に確実に作用し生み出すのは、圧倒的なる<生>の感情であり、リアルな自分の「涙」の質感なのである。

『圧倒的物量の物理演算から感じられる圧倒的<生>感』

据え置き型と呼ばれるハイスペックな家庭用ゲーム機に供給されるゲームに、昨今、莫大な開発費を投下して作られた、非常に緻密かつ従来からは桁違いにボリュームの大きい作品が登場しつつある。その中の主要なカテゴリーの一つとして、「オープンワールド系」と呼ばれるものがある。このタイプのゲームは、ゲーム機でのハイクオリティな3D表現が可能になったからこそ台頭してきた、「極限まで贅沢」な作品といえるだろう。ゲームの中に、一つの、広大な世界がまるごと形をなし、全ての地点から見えるあらゆる場所へシームレスに移動することができ、我々が日常でできるたぐいのことならほとんどどんなことでもできる。ゲーム内に存在する空間の広大さは、マンハッタンまるごとにも匹敵する規模感だ。
 昨年末発売された大規模なオープンワールド系のRPG作品の一つとして、いま世界中で人気を博し、すでに1000万本以上を売り上げながら注目を集めているのがベゼスダソフトワークスのThe Elder Scrolls V: Skyrim(以降スカイリム)である。
 この作品に触れて痛烈に感じるのは、圧倒的な「自分とは違う時空にあるもうひとつの世界」の存在感だ。この世界にあるものはすべて触れることができる。その世界にAIを与えられ、自意識を持って暮らしている他人の家にこっそりと忍び込んで、テーブルの上に置いてあるお皿や、ナイフや、ワインや、りんごや、パイなどすべてのものを、いっぺんに全部床にぶちまけることができる。拾い集めた宝石たちを、自宅のベッドの上にばら撒いてゴージャス気分を味わうのも自由だ。そしてそれらひとつひとつの「モノ」たちは、Havocという物理演算エンジンにより重力に従って散らばり、そして二度と元の場所には戻らない。失われた人間は多くの場合生き返らないし、盗んだ小物が復活することもない。自分がこの世界に関与すればするだけ、この世界は、街の隅に置かれたゴミ箱の中のひとつに至るまで変化し、その形のまま世界にとどまり続ける。
 広大な世界を細部まで描き込み、その世界に配置された小物ひとつひとつに触れることができるこのゲームは、これまで平板に「バーチャル」と言われていたゲーム内の世界が、その圧倒的物量によって俄然真実味を増し、受肉したような気にさえ錯覚させられる。

『自分の身体という<生>を再認識する』

最近発売されたXbox360用のゲームデバイスにKinectがある。KinectはRGBカメラ、深度センサー、マルチアレイマイクロフォン等を組み合わせて構成されたデバイスで、導入するとこれまでのゲームプレイに必要だったコントローラーを全く必要とせず、ジェスチャーや音声のみで直感的なプレイが楽しめるようになる。Kinectは、従来とは異なり、特殊なスーツ等を着用せずとも設置するだけで簡易的なモーションキャプチャーを実現するため、発売当初からこのデバイスをゲーム用途だけでなく3D動画制作やロボット操縦等さまざまな分野へ応用しようとする非公式なハックが行われていた。現在はマイクロソフト側もこの動きを容認する傾向にあり、Windows向けのソフトウェア開発キットが公式で公開されるまでに至っている。
 これまで、ゲームに「身体性」を付加しようとする試みは、各社のコントローラーへのバイブレーター内蔵を契機に、wiiリモコンやバランスwiiボード、6軸センサーを内包したコントローラーや携帯機の発売等、さまざまな形で行われてきたという背景がある。とはいえ何らかのコントローラーのような「手に持つ入力装置」からの脱却からはできずにいた中、とうとうKinectが完全なコントローラーレスを実現したのは、ビデオゲームの歴史的にも大きな転換点に来たと言えるだろう。
 実際にKinectを使ってゲームプレイを行なってみると、そのインターフェイスの自然さに驚く。触れてみて数秒であっという間にその操作性に慣れ、それが過去には存在しなかった新技術であることを忘れるほど「そうやって操作できることが当たり前」だと感じられるようになる。また、コントローラーが存在しないという不安定感や検知力不足もほとんど感じられず、文字通り「手に取るように」ゲーム内へアクセスすることができる。Kinectゲームの中でも評価の高いダンス系ゲームなどでは特にその恩恵を感じやすい。
 Wii以降、身体を動かすタイプのゲームは増加傾向にあるものの、所詮は「棒状のセンサー」で検知できるレベルまでのアクションしか出来なかったが、Kinectで正真正銘「全身を使った自然なダンス」が実現できるようになった。身体の関節の細かい挙動を厳密にセンサリングされると、改めて普段は無意識だった自分自身の挙動について自覚的になる。
 これまでのビデオゲームの歴史は画面の高解像度化の歴史でもあったが、Wii以降派生し、Kinectによって転換点となったこの「身体挙動のセンサリングの高解像度化」も、これからの一つの潮流となっていくだろう。

『未経験な、架空の<生>感を「演出」する』

物理演算の物量によって得られる<生>に関しては先に述べたが、今度はこの考え方とは真逆のアプローチで<生>な感覚を演出することに成功している作品について取り上げたい。
 次世代携帯型ゲーム機PlayStation(R)Vitaのために今年初頭に発売された「GRAVITY DAZE」は、PS Vitaに搭載されたモーションセンサー(3軸ジャイロセンサー+3軸加速度センサー)を活用し、「重力を操る」ことをコンセプトに据えたアクション・アドベンチャーだ。カテゴリーとしてはオープンワールド系に類するが、先に述べたスカイリム等と比較すると、広大な平原を描くのではなく、縦方面の構造(積層された街)が強調されている。ヒロインであるキトゥンは、不思議な黒猫ダスティにより重力操作の力を授けられ、この街のありとあらゆる方向に向けて「落下」することができる。空へも、真横へも、彼女は落ちていく。そして、街のすべての場所へすべての向きで「立つ」ことができ、街に配置されたすべてのオブジェクトに対し、浮かせたり、ぶつかった勢いで破壊するなどの干渉を行うことができる。
 これまでのビデオゲームに登場した「街」では、主に平面的な移動が中心で、縦移動に関しては、はしごを登る、ジャンプする程度の限定的な動きしか行えなかった。しかしこの「GRAVITY DAZE」では、街中のZ軸を掴み、縦横無尽に、今まで見たことのない視点から、街へとアクセスすることができる。
 未経験の重力操作に、我々はどうやってリアリティを見出していくのか。実は、彼女に付けられた「落下」のモーションには、物理演算は一切使われていない。実際には、物理演算で動きを付け、指定した位置へ落下させるという実装自体は容易いのだが、それでは、重力を操作するなどこれまで一度も体験したことのないユーザーに「空や真横に落ちる」感覚を与えることができなかったという。彼女は腰を中心にまるで何かに引っ張られるような形で、あるいは真っ逆さまに頭からと、まるで不安定な姿勢で極端に落下する。落下に加速をつければロケットの噴射時のような煙の「輪」が彼女の周りに広がり、集中線のような効果線が描写され、地面に落ちれば大げさに砂埃が立ち上る。ある種の過剰な、演出された落下であり、実際は「嘘」の動きであるにもかかわらず、そのデフォルメされた挙動が、プレイヤーに、まるで胃の縮むような「落ちる!」という印象を与えるのだ。
 「動きの極端なデフォルメ」は、2Dのアニメーションでも非常に多く見られ、ハイクオリティなレベルの高い作画は「神作画」などと呼ばれることもある。誇張された動きの描写には、極限まで究められた強い身体性の快楽がある。これらの作画・演出技術は日本特有のものだ。スカイリムのような物量作戦とはまた別のベクトルの日本の強みとして、このような強い身体性を感じさせる演出、表現手法は、今後、ますます追究してゆくべき方向の一つとなるのではないだろうか。

『いま、ここに人がいたという<生>感』

インターネットが当たり前に家庭に普及してから、ビデオゲームにも様々な形でネットワークを活用する作品が登場を始めた。ここ数年大きな盛り上がりを見せているソーシャル系ゲームもそのひとつである。ネットワーク接続されることで増すゲームの魅力の一つに、「自分とは違うプレイヤーと接続でき、共闘したり、その気配をゲーム内に感じることができる」ことが挙げられる。
 2009年に発売され、最近になって新作も登場したPlayStation(R)3専用ソフトウェアの「Demon's Souls」は、近年稀に見る高い難易度と完成度の高い作りこみで話題になり人気を博した3DアクションRPGタイトルだ。このゲームの最大の特徴として、すべてのプレイヤーがネットワークを介し、お互いに影響を与えるものの、そこに人間関係は生まれない「非同期型コミュニケーション」と呼ばれるオンラインシステムがある。
 先に述べたように、Demon's Soulsの難易度は非常に高い。作りこまれたダンジョンを踏破していくのだが、1度も死なずにクリアすることはまず不可能で、知っていなければ回避できないような罠や敵の攻撃が多数存在する。繰り返し繰り返しダンジョンに挑み続けることで、少しずつプレイヤーも回避方法を覚え、上達し、到達する距離が伸びていくことにプレイの面白さがある。だが、何度も死亡を繰り返しているうちに、気持ちが折れそうになることもある。そんな時に心の頼りになるのが、他のプレイヤーの存在だ。
 Demon's Soulsでは、オンラインモードでプレイしていると、同じダンジョンを攻略した他のプレイヤー(異世界の主人公)の姿が、うっすら幽霊のように見える。彼らに干渉することはできない。ひたむきに、自分と同じような罠にはまったり、高い所から落下したりと、次々に死んでいく他プレイヤーの戦いざまは、ある種滑稽ですらあるが、まぎれもなくその世界に残留した人の気配であり、こうやって死ぬのも自分ひとりではないのだと感じさせてくれる。
 プレイヤーが操作するゲーム内のキャラクターは、製作者によって規定された挙動の組み合わせで動くものであるにもかかわらず、そこに実在の人間の手による操作が加わることで、ゲーム内に固定で存在するNPC(ノンプレイヤーキャラクター、共通の登場人物)とは異なる人間くささが感じられる。ダンジョンの最深部、いかにも罠がありそうな暗く細い通路を、警戒しながら恐る恐る覗きこむような様子も、ギリギリまで大量の敵に追い詰められながら半ばやけくそで戦う様子も、自分が同じゲームのプレイヤーだからこそ、そんな風についつい動いてしまう他プレイヤーのその気持ちが、生々しくも手にとるように分かるのだ。
 ゲームのネットワーク活用は、他ユーザーとのギスギスした競争を煽ったり、コミュニケーションが濃密に発生するからこそプレイをやめづらいなど、負の感情を刺激する作品も多く見られるが、一方で、この「Demon's Souls」のように、ゆるやかなネットワークを介した共闘で、ゲームへあたたかな<生>の喜びを与え、プレイへのポジティブな意欲を創りだしてくれる作品も存在しているのだ。