タイトル
ラベルからもれるなにかを
著者 / 話者

1. ロボットの欲望はまず食欲から始めるしかない

ロボットをつくる目的は何か。ロボットは何も食べない。用事を言いつけられるまで待っていて、荷物を運んだり、掃除したりする。それだけのロボットを、本当にみんなが欲しいと思うのだろうか? さすがにロボットに性的欲求を持たせるのは難しいかもしれない。ではどんな欲求なら持たせられるか。一番近いのは、エサ、つまりバッテリーチャージから始めること。
ロボットと人間との関係を考えると、コンフリクトを作った方がうまくいく。エネルギーがなくなってくると、人が指示を出しても、「ちょっと今腹減ってるから」と無視するロボット。そういう方がはるかにいい。それぞれに、利己的な振る舞いがあるほうが、協調現象は成立しやすい。
利己的なものが存在しない世界に、一人だけ悪人がいると、その存在に淘汰されて社会が滅ぶ。ゲーム理論に於いて数十年の間に出た結論がそこにある。
利己的であれば、全体的に協調する社会ができあがる。なぜかというと、それは、本当に悪い存在に対して頑強になっているから。だから、エゴというのは悪いことじゃなくて、もう一個、コミュニティレベルでは非常に必要なこととしてとらえられている。

2. エロティックは言語的、アート的なもの

エコ、エゴ、エロの中では、エロだけ特殊だと考えたい。それはおそらく人間だけにあるもの。なぜかというと、基本的には単純な生命連鎖から独立したものだと思うから。エロを感じたほうが、あるいはエロを持っていたほうが進化的に有利だということはない。ドーキンスの「利己的な遺伝子」やダーウィン進化論のような動物の機械的な営みとは違う。進化的な淘汰圧があると、むしろ多様性を失われる方向に向かいやすい。でも、エロには多様性がある。そこが面白いところだし、重要なことだ。
現在のところ科学にはエロティックという言葉を挿入する位置がない。エロを入れてあるのはアートか文学だけで、それ以外の場所にこの変数は入らない。文化のことを科学的に議論できない根拠でもある。逆の言い方をすれば、科学の枠組みで文化を語るためには、エロティックなものが変数として入るようなものを作る必要があるが、現状ではそれをつくった人はいない。

3. セクシーな研究。セクシーな理論。真逆なのは総調べ。

“セクシーさ”というのは、生命だけにあるものではない。例えば、セクシーな研究、セクシーな理論、セクシーな数学的展開のやり方というものがある。その研究の中にクラッとするような戦慄と深遠な地平が見えた時、それはセクシーな研究となる。しかし、そんな「セクシーさ」は、年々少なくなっているように感じる。そういうものがなくなってしまうと、科学に対する憧憬もなくなるし、おもしろくなくなる。
セクシーではないものとは何か。たとえば総調べで解くような方法がそれだ。グーグルが、ルービックキューブの最短手を出した。コンピュータの空いた時間で総調べの計算をして、数週間で「20手」だという証明を出したのだという。でも、その解き方はセクシーだとは言えない。
“セクシーな理論”というのは絶対にある。それがなかったら、科学はおもしろくない。全部コンピュータに席巻されて終わり。「総調べしてもわからないもの」がまだ科学の中にあるということ。例えば人間の脳の神経細胞について、全部、100億個の神経細胞が、いつ、どういうときに発火して、どうなっているかということは、全部くまなく調べても、わからない部分が残る。それをわかるためには、アクロバチックな方法を差し込まなくてはいけない。そっちのほうがよっぽど「セクシー」である。

4. ダーウィン・マシンの限界

ドーキンスの「利己的な遺伝子」がベースになって進化に対する方程式が生まれ、生命のパターン化の理論構築が進む中、そこに唯一入っていないファクターが、エロスやセクシーという要素だ。多くの研究者はそれが文学的な問題だとか、メタサイエンティックの問題だから語らないという立場を防御的にとっている。それでもどこかで関係あるのではないかという疑念がある。コミュニティや意識の問題になったとき、ダーウィンの理論の構築のままそこに到達できるのか。もしかすると、そこには大きなギャップ、もう一個足りないものがあるのではないか。それこそが、エロスなのかもしれない。その正体とは、人間であるがゆえに認識できるものがあるのかということ。例えば数学の証明に対して、複数の解決法をコンピュータに判定させた場合、どちらがセクシーな証明かは、判定できない。
現状、科学には全く乗らないそこへのアプローチの中で、ひとつ方法論としてあるのが、人と人との相互作用を介してわかるような科学。それはフランシスコ・ヴァレラが言ったナチュラリーゼイゼーション(自然化)、第一人称と第三人称を結ぶための方法論だ。
白と黒のただのパターン模様を見ている人が、あるときに『中に犬がいることがわかった』とする。その「わかった」という瞬間は、外から見ていてもわかるのだろうか。パターンそのもの、インプットそのものに変化が起きるわけではないのに、見ている本人にとっては「あるとき」わかる。それは何かということをヴァレラは研究している。しかし、それを説明することが、自分もそれがわかったという気持ちを説明することになるのかどうかはわからない。もしかすると、それは永遠に説明され得ない問題なのかもしれない。クオリアと同じ仲間の問題で、それが大事なことはわかっているけれども、手が出せない。人間の意識等の問題を考えていく上では、抜くことができない要素ではあるが、数式に落した瞬間に分からなくなる。

5. エンボディードマインド(身体化される心)の実験

実験1:指先に感じる振動を自分の思い通りに制御できる装置を使い、オノマトピア(擬音、例えば「ウネウネ」「ザラザラ」等)を表現する振動パターンを被験者に制作してもらい、それを他者と交換する実験。
実験2:2名が、それぞれ指先を別のレールの上で滑らせていく。数カ所で刺激(振動)が起こる。刺激は2つのことを意味する。ひとつは、「固定(スタティック)」のポイント。もう一つは、相手(もう一名の被験者)がいる場所。その状態で、どの刺激が、移動するもう一人の被験者を示すかが分かるか、という実験。レールの上を数往復するうちに、固定の刺激ポイントは見えてくる。たまに、固定ではないのに急に反応する刺激が現れる。やっているうちに、ただ指先で反応するレールでしかないものに、「空間」感と、「相手」感そして「自己」感が形成されてくる。
実験2の感覚は、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク(DID)」に似ている。何も見えない暗闇の中を歩くうちに、自然とその「空間」の雰囲気、感覚がつかめてくる。目に見える時には、見たものにラベルを貼る、というような行為を行なっているが、そうではない、「どう、その存在が、『ある』か」というイメージ。実験2も、DIDも、立ち上がる感覚は「何があるか」ではなく、「どうあるか」。エロスの感覚は、このラベル貼りではない「どうあるか」の感覚の方に近いのではないか。なぜなら、エロスの感覚とは視覚的なものというより、より触覚的食感的聴覚的なものであるからだ。

6. ビーイング・ゼア 現存在、立ち現れる実在感

ハイデガーの言う「現存在」をビーイング・ゼアという。重要なのは、自分がある「モノ」に対してどうラベル貼りをするのかではなく、自分がそれとどういう関係をつくるか。「どういうふうに」というものが立ち上がってくると、世界観が出てきて、そこの世界に住めるようになる。DIDで「パニック」になるということは、ラベルが貼れないかもしれないという恐怖感からくるが、実際にやってみると、視覚的にモノにラベルを貼るということを通過せずとも、きちんと世界観ができてくるし、その関係性というものがつくれる。そうすると、周囲の構造が理解できて、パニックに陥らない。エンボディードマインドの実験のようなものをきちんとデザインしていけば、これまで接近できないと思われていたその「現存在」のようなもの、ラベル貼りじゃないような知覚の構造というものに、接近できるのではないか。

7. ラベル貼りを捨てる

エコもエゴも計測可能なものかもしれない。でも、そこから落ちているものというのが定義の記号の背後にある。定義しているひとからはそれが見えない。ラベル貼りするものとラベル貼りされるものは、常に貼り合わされた状態になっていて、ラベル貼りされていないものの方を理解できないと、世界が自分の前に現れない。その、「そこにいる感じ」を、つかんでもらうということ。「生きられる感じ」をどうやって構成するか。エコやエゴだけが持ちだされた、論じられるような世界では、我々は生きられない。我々が世界を生きるためには、エコやエゴのような計測可能なものとは別の要素をどうしても導入しなくてはならず、そのうちのひとつが「エロ」なのかもしれない。それは、ラベル貼りできない、何かその世界に接触させるためにどうしても必要なもの。もしそれが必要ないのであれば、世界はダーウィン・マシンで済んでしまう。エロスは、生き生きした世界を生きるために必要な、ラベルから漏れているものなのでは。

8. バイオスフィア2

「バイオスフィア1」とは、地球のこと。「バイオスフィア2」というのは、人工的に地球上につくられたもう一個の地球。空気も水蒸気も、そこで全部が閉じていて、光だけは太陽を使っている。その中で人間が生きられるか、何年生きられるか、という実験。結果としては、失敗している。失敗の理由は、人間同士のいさかい。猜疑心が世界を壊してしまう。結局、それが世界に生きるということで、人間の持っているもの。ロボットであれば、必要なエネルギーがあれば、永続的に生きることができる。それが、ロボットと、我々が生きているということとの違いを示している。エゴがあってエコロジカルな世界には、いくらでもダーウィン的なロボットは送り込める。しかし唯一人間だけは住めない。そこに存在しないけれど、人間に絶対的に必要なものが、ラベル貼りできない「エロス」や「どうあるか」のような、ラベル貼りしたものの裏側にある「接着剤」としての「現存在(ビーイング・ゼア)」なのかもしれない。

9. じゃあ閉鎖系の中で人は生きられないのか

人間以外の生物では、閉鎖系の「マイクロコズモ」という実験もある。太陽だけが当たっている閉じたビンの中に、水草のタネや魚の卵を入れると、魚が孵化し、水草が酸素を吸って、循環して生きていくことができる。他生物は循環だけで生きることができて、人間にそれができないのは、人間が本質的に質感を要求するものだからだ。その必然的な結果として文化や言語が発生し、エロティックなことに対するセンサーがプライマリーになってくる。人間だけが質感に対するセンサーを持っていて、ラベル貼りできない世界に「生きていけるようななにか」を、絶対的に必要なものとして要求する。それは「意識」のようなものを理解するためには、非常に重要な問題である。

10. コンピュータに構成可能なもの、不可能なもの

シミュレーションや、機械や、化学反応の実験の中で考えるのは、それらの中で、ある要素を「構成可能」かどうか。実際に、ロボットに、フラストレーションを構成することはできるのか。社会コミュニティはできないのか。なぜ、生き物に到達しないのか。そこに足りないものは何か。生き物に「ある」もので、ロボットやコンピュータに構成されていないものがあるのだとすると、それがない状態では生き物ではないということになる。足りないものは何でもつければいい。嗅覚も味覚もラベル貼りされている。そのようなものであれば、センサーを作るなどで幾らでもコンピュータに反応させることができる。ただ置き換えていけばよい。しかしそれではまだ「世界になる」ために足りないものがある。それでも届かないのは、何故なのか。哲学ではなく、科学を志すのであれば、到達可能かどうかということに興味が行く。エンボディードマインドの実験や、DID等を通じて、現存在(ビーイングゼア)のようなものがあると考えられるとすれば、構成理論的にも攻められるのではないか。それは想像しているようなあいまいなものではなく、実はかなり精密なものだとも思われる。そこを追究した先に、今のままでは真似できない脳のモデルなどが待っているのではないか。

11. セカンドライフから欠落しているもの

「セカンドライフ」は、完全に人工的に、ラベル貼りされたものを置いていってつくる。その中で、現実世界とまったく同じことができるという触れ込みだった。しかし現実には違った。何かが欠落している。その欠落したものをみんな求めている。それは、例えば「汚さ」のようなもの。“汚いもの”を計算で作ろうとしたとき、どうするか。渋谷のセンター街の汚さを再現しようとしたとき、ただ「ゴミ」や「チンピラ」や「たむろしている女子高生」を世界に配置しても、汚いことにはならない。それをやった瞬間にこぼれ落ちていくもの。そこにあるのが、エロスや世界観である。

12. 落語に於けるフラ

落語家の談春は、喋りは相当上手いのに、どうも世界観が立ち上がらない。うまい落語家とうまくない落語家の違いは、世界観が立ち上がるかどうか。志の輔の落語では立ち上がる。落語の世界ではそれを「フラ」と呼ぶ。「フラ」とセカンドライフの話で出てきた“汚さ”は近い。老人の声を上手く出せても、そこに本物があるかのように手で寿司をつまむ真似が出来ても、それだけでは世界観は立ち上がらなくて、いかにその落語家が勉強していて、その世界そのものが彼の中で生きているかどうかで、やっと現れてくるものなのだ。そこで語られないことについて、どれだけの量を背後で知っているか。しかし、そんな表出しないバックデータをいくらプログラムに入れても、それは実際には出てこない。更に、「フラ」はとても失われやすい。落語であれば、ラジオなら「フラ」が保存されるが、ビデオでは何故か失われる。実はその空気感のようなものは、メディアに宿っているものかもしれない。
「セカンドライフ」から欠落している何かや、落語における「フラ」のような部分が、その世界を我々が生きられるかどうにかかっている。

13. 本当の踊り。ウソの踊り。オーセンティック。

ダンサーの「山田うん」さんに「ウソの踊り」と「本当の踊り」というものを表現してもらった。本当の踊りとは、オーセンティックな、という意味である。オーセンティック(Authentic)な身体運動とは、生と死の必然的な結果として、自発的に動かざるを得ないように身体を使うこと。両方を対比すると、ウソの踊りのほうがきれいに見えるが、本当の踊りのほうが難解で神聖に感じられる。「セカンドライフ」にはオーセンティスティといえるものがない。それは、例えば、突然道端にいる悪人に殴りかかって殺されてしまうかもしれないという可能性がどこかにチラつくかどうか。完全に死の可能性が消された世界には、オーセンティスティは生まれない。オーセンティスティをキーワードにして、生命について考えていこうという方法論や、オーセンティックな運動というものが、世界のアカデミズムの中で静かに起こっている。

14. 開いているか、閉じているか

危機感を感じながら、いつ死ぬかもしれないと思うということが、生命が生命らしく生きていくということだと思うろう。それがAuthenticityであり、人工世界みたいに閉じた世界ではなくて、どこかがいつも開いていて、死の可能性がチラつくということである。系が開いているという状態と、エロスは関係がある。コンピュータのエージェントには、セカンドライフには、その「開いている状態」が存在しない。ナム·ジュン·パイクというアーティストは、あるときロボットを街に連れ出して、ロボットを車に跳ねさせるということをやった。世界で初めて「死んだ」ロボット。ほとんどのロボットは死なない。安全な実験室で飼われている。ロボットにオーセンティスティのようなものを与えるには、「To The Street」のようなものが必要なのかもしれない。現実世界におもしろさみたいなところがあるとすると、それはシミュレーションや小説と違って、常に別なことが起こるかもしれないという可能性によってできている。それは突然ドアが開いて誰かが殴りかかってくるかもしれない可能性や、コンテストのための「ウソの踊り」と、欲望に突き動かされた結果街で踊ってしまったような「本物の踊り」との違いでもある。