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遺伝子に刻み込まれたグルーヴ
著者 / 話者

INTERVIEW

遺伝子に刻み込まれたグルーヴ

INTERVIEW| 山城祥二(芸能山城組主宰/脳科学者|大橋力)

映画『AKIRA』の音楽を担当した芸能山城組主宰、山城祥二氏。ケチャやピグミー音楽といった民族音楽をテーマにした作品を生み出す一方、情報環境学者、大橋力としての顔も持つ。まさに芸術と科学の間に広がる非言語的な領域を縦横無尽に駆けめぐる人物である。彼の研究室において、グルーヴを軸に、DNAから生命、音楽の発祥、文化史におよぶ話を伺った。

日時:|2013.10.11 13:00~
場所:|大橋研究室、(東京都中野区)

編集部| いま僕たちは「グルーヴ」という言葉にしにくい感覚について考えています。元々はレコードの「溝(groove)」を指す言葉がミュージシャンの間でフィーリングやノリを表す言葉として使われ始め、最近ではさらに概念が広がって、人が思わず身体を動かしたり、心を奪われたり、惹付けられたり、集団を突き動かすものを「グルーヴ」と言ったりもします。僕たちはこの「グルーヴ」が発生するメカニズムにいろんな角度から迫ろうとしています。

山城| その感覚はよくわかります。ヨーロッパでも日本でもまだ判然としていて、しっかりとした概念として形成されていませんね。しかし、それが文化的に確立している良い例がバリ島なんですよ。バリ島の伝統的な社会で“タクス(taksu)”という言葉があります。このタクスは芸術表現について、その形式や技術とは全く無関係で、タクスを持った人が舞台に上がっただけで、見る人はグッと何かに惹付けられて、世界が変わってしまうことを言います。これがバリ島での美の究極的な基準なんです。だから、彼らの間で重要なポイントは「タクスがあるかないか」ということ。君たちの言う「グルーヴ」という言葉に近いかもしれません。まさに、それは形式化できないし、定量化できないものです。

編集部| 例えば、ある感性情報空間の下で意識が飛んで恍惚状態になる<トランス>という現象があります。トランスは個人の脳内だけで起きるというようなイメージがあるのですが、バリの<ケチャ>で見られるような集団トランスに、グルーヴの発生の秘密がありそうな気がします。

山城| <ケチャ>は古来の呪術的儀式<サンヤン>を土台にヒンドゥーの古代叙事詩<ラーマーヤナ>の物語を組み合わせた合唱舞踊劇で、芸能を生業にしていない普通の村人たちによって行われています。灯火を中心に数十人から大きなものでは百人を超える半裸の男性が円陣を組んで座って「チャッ、チャッ」という鋭い叫び声で4種類のパターンを刻む。そのリズムが精緻に絡み合って16ビートのポリフォニー(多声音楽)が形づくられ、それによって、集団トランス状態が発生します。しかしこのトランスは一人だけで起こせるものではありません。演者の一人ひとりが一心同体になったときに爆発的に起こる。
旋律さえない、もっと原初的な次元で、叫び声だけを使って人間という生き物の根底にかかわる何物かを引き出し発信する。しかも表現のための技術を要さず、素材は誰でも持っている「チャッ」という声。それを時間空間的に組み合わせるだけですから誰でもできるため、コミュニティの中に、技のあるなしという差別が生じない。しかし、誰でも出せる叫び声を音楽的に精緻に組織化して16ビートを生み出すのは極めて難しいんです。人類の集団トランスの源流にあるアフリカの狩猟採集民に匹敵するほど以心伝心、阿吽の呼吸というグルーヴ能力に長けたバリ島伝統社会の村人たちが、人類本来の遺伝子の中から読み起こし長い歴史の中で育てたのがケチャや<ガムラン音楽>の16ビートだと信じられます。おもしろいのは、ケチャの円陣において16ビートが完成しているときに、初めての人を外から1人ずつその輪に加えていくと、即座にリズムに同期することができること。それは人間の脳や身体にプリセットされた潜在活性の目覚めであることを実感させます。現文明に植え込まれた私たち自身を蝕んでいる先入観というものを、いい意味でケチャは次々に打破していく。

編集部| それはまさにグルーヴと言ってもいいかもしれませんね。

山城| 演じている村人たちはケチャを他から切り離されたただのトランス発生装置として観ることはしません。その源流である集団的な呪術<サンヤン>の段階から、共同体をオーガナイズするためにうまく使っているのです。バリ島は棚田で稲を作るという水争いの原因を宿した社会ですから、「我田引水」に走りがちな心の働きを超えて人々を仲良くさせる生存戦略が不可欠です。その決め手として共同体の一体性が生み出すグルーヴの快感を磨き上げてきたと考えると、よく理解できます。ケチャにはソロという構造がありません。あるのは、精巧な音の絆で結ばれた高い次元の人間のシステムです。これこそ人類の遺伝子に約束されたグルーヴの極意であり、醍醐味でもあります。
バリ島独特の不特定多数に発生する集団トランスの引き金を引く存在として、儀式に現れる獅子の姿をした<聖獣バロン>を踊っている人が注目されます。大きなバロン面の裏側には真鍮のインゴットを削り出した、100kHz以上の高周波を出す鈴が付いています。この鈴から発生する高周波が惹き起こすハイパーソニックエフェクトによって中脳や間脳の活性を高められたバロンの踊り手がまずトランス状態に入る。それを見た周りの演者たちにもバタバタとトランスの連鎖反応が起こる。この一連のプロトコルは実に見事です。こうして導かれた集団トランスによって共同体の結集が高まるわけです。ちなみに、トランスした村人たちは1カ月ぐらいよく眠れて、食欲も出てくるのです。
このケチャの現場では、非線形数学でいま注目されている<シンクロナイゼーション>がまさに社会集団レベルで実現している状況とも観えます。100人もが輪になって、16ビートを4種類のリズムで組み合わせて音を出す。不思議な事に、指揮者のように視覚的な棒を振って同調をとる人がいないのに時間軸が全くズレることなく、100人の完璧なポリフォニーができあがる。しかし、考えてみてください。演者が耳で音を聞き分けながら同期しているとしたらどうなるか? 音速は約340m/s、演者の端から端まで30mの距離があるとしたら0.1秒ズレてしまう。0.1秒というのは音楽的には致命的な差です、なのになぜズレないのか? このような不思議なことが起こっているわけです。これは知覚に対する我々の概念を揺るがす事実です。知覚のアナロジーでコミュニケーションを考える近代的な発想というものに対して、相当厳しい材料になる。

編集部| 16ビートというリズムもグルーヴを生み出すキーになっているのでしょうか?

山城| 16ビートのリズムは中央アフリカの熱帯雨林に住む狩猟採集民たちや、砂漠の狩猟採集民たちの音楽の主流であるところからすると、人類の遺伝子に埋め込まれたリズムであろうことを否定できません。これがアメリカの商業音楽開発の中でソウルやファンクの16ビートとして確立したのは1970年代の終わり頃。しかし、その16ビートは日本にも昔からあるんですよ。岩手県の太鼓のリズム、鹿踊(ししおどり)にはものすごいグルーヴがある。それは16ビートを持っているから。郡上おどりのリズムも裏拍で16ビートになる。さらに別の例を挙げると、能の<大ノリ>も16ビートです。『船弁慶』の有名な場面「そ、の、と、き、よ、し、つ、ね、す、こ、し、も、さ、わ、が、ず(そのとき義経、少しも騒がず)」もまさに16ビートに乗っています。つまり16ビートというリズムパターンとその快感とは遺伝子決定性によるもので、原理的に人類共通。そこにねらいをつければ、文化の影響や今のトレンドを超えて普遍的に人の心をつかむことができます。バリ島の芸術芸能がそうであるように。

編集部| 遺伝子決定性?

山城| 我々地球生命の構造と機能そしてそれらの射程と限界は、ふだんは眠っていて万一のとき立ち上がる適応の活性を含めてすべてDNAに書き尽くされています。それらを後天的に変えることはできません。遺伝子の中に、みんな非常に豊かなものを可能性として持っています。ここでひとつ、その豊かな可能性の中に階層構造があるということを忘れてはいけないのです。
まず、DNAの中にヒトをヒトあらしめ、生理的な基本現象を支配している個人差の殆どない遺伝子情報の階層がある。そのもう少し小さな領域、モンゴロイドとコーカソイドを分けているような部分もある。この階層の遺伝情報は固定した状態でプリセットされていて、種ごと亜種ごとに共通です。この階層に対応する脳機能は、コンピューターで例えるとCPUと同じ。情報処理の内容がもう決まっていて、ちょうど半導体メーカーでつくったLSIのように設計通りの働きしかできません。
DNAの設計によって造られた脳機能の次の階層は、ライトワンス(書き込みが一回のみ)領域です。ここにコンピューターでいえばOSを入れます。このOSは生命科学的にいえば後天的に書き込まれる社会集団と社会行動にかかわる情報です。例えば家族や共同体メンバーの個体識別、母国語、文化、共同体のルール、あるいは自転車に乗ること、泳ぐこと、お母さんの顔を覚えることなど、生まれ落ちてからでないと出合えない社会集団や社会行動にかかわる情報の記憶です。脳のこの領域は生まれてきたときは真っ白のゼロ。そこに、人が生まれ落ち、生きていく社会集団固有の情報がライトワンス方式で書き込まれていく。この部分は一回書いたら書き換えができません。
このOSの部分が非常に安定して効果的に働いているのが伝統社会なんです。社会集団ごとにOSが全部共通に刷り込まれるのが人類だけでなく高等動物の脳に共通の最初から約束された「つくり」なのですが、その生命科学的にすぐれて合理的な仕組が人類以外の動物や人間の伝統的社会では設計通り矛盾なく合理的に活かされています。その「つくり」に逆らうと何が起こるか? これをやみくもに試したのが、人権宣言以来の西欧文明が試みた<近代的自我の個別的な構築>という壮大な、そしておそらく人類以外の生物の目からみると首を傾げるに違いない実験です。いうならば、このライトワンスメモリーの中に社会集団ごとに同一のものを入れてはじめて意味を持つOSを、一人ずつ別々に、つまり個別的にアトランダムに多様化してインストールし、それを「個性」の名の下に尊重しようとしたのが近現代です。そこには、一人ずつ違った社会行動の基準プログラムを持った人の群れが、あたかも一台ずつ違ったOSを搭載したコンピューターの群れみたいに、一体化が不可能で協調も困難な人間の集合となっていく。こうした不毛な流れに乗って近代社会が誕生したわけです。自我の不調和を本質とする「疎外」の脳科学的なメカニズムがこれです。ここに自我と自我そして自我と社会のぶつかり合いの起源があるのです。
そして、遺伝子の決めた脳階層の最後の領域として、個体メモリーやハードディスクのようなリライタブルなメモリーがある。昨日まで赤いネクタイが好きだったのに、今日から黒いのが好きになってしまうようなことを可能にする書き換え可能な働きです。このような脳の持つ階層構造を混乱しないように整理していくということはとても大切です。
書き換えの効かないプリセットメモリーの一番奥にある人類の遺伝子は共通しています。だから、そこに根ざした音楽は万国共通の言葉になるのです。

編集部| 芸能山城組の代表的な作品として映画『AKIRA』のサウンドトラックを思い出しますが、あの音はまさにグルーヴに溢れているし、日本国内にとどまらず世界中で大きな反響がありました。

山城| 私が作曲家としての仕事をするにあたって、遺伝子のプリセットメモリーの領域内で作曲するというのがいわば原則なんです。例えば『AKIRA』のテーマでは、ピアノの鍵盤通りのいわゆる12音を使っていません。7音すら使っていない、5音だったり4音だったりする音律を使った。むしろ、音を減らして一音の幅を広げることで人類全体からみた共通性は高まる。そういう形で遺伝子に逆らわずに音楽をつくるというやり方があります。
遺伝子に決定された音楽の形は有限です。一方で、近代の十二平均律に縛られた音楽には1オクターブの中にたった8つしか音はない、。半音を加えても12音。しかし、隣り合った二つの音の間に無限に存在するピッチの高さの差は完全に無視されている。つまり<離散構造>なんです。その離散的な<楽音>組み合わせの無限性を求めて音楽がつくられる。そして、いったん音符と楽譜によって音楽が固定化されると著作権が成立してその音符の配列には他の作曲家は立入禁止。音楽をビジネスにするためにはそうした限られた音の中でいかに自由度を高めるかが問われる。

編集部| 確かに、メロディーというのはお金になるけれども、いいリズムや音の触感というものは楽譜に表すことができません。

山城| そうです。その表せない部分がグルーヴなんです。音符の並び方ではない。つまり、記録ができ通信可能なものとは別の快感リソースということ。これは、我々が<本来―適応モデル>と呼ぶ考え方で説明ができます。地球上の生命は原則的に、その種が進化を遂げた環境と鍵と鍵穴のようにぴったりと合った<本来の活性>をデフォルトとして持っています。その生命が<本来の環境>から離れ環境との不適合が生じると、遺伝情報に準備された<適応の活性>を立ち上げて生き延びます。ところが、DNAにかかれたすべての適応のプログラムを使っても対応できないほどズレた環境に置かれた場合には、<自己解体プログラム>を起動して生命活動を停止し、自己解体してしまう。そのようなプログラムされた死を引き起こさないですむように環境を読み取り行動する働き、つまりレーダー機能を担っているのが「美」であり「快」なのです。
脳の中には<報酬系>という回路があり、<懲罰系>という回路とペアになって存在します。人が生きていく上でふさわしくない環境に囲まれたら、懲罰系が活性を高めて、不快感や苦痛や不安を与える。逆に遺伝子の基本設計に合った環境では懲罰系が下がって報酬系の活性が上がるわけです。例えば「お腹が空いたから何か食べたい。よって食べる。食べるとおいしい」というのは一番わかりやすい例ですね。このとき報酬系が働きドーパミンやβエンドルフィンが分泌され脳に報酬--ご褒美としての快感が与えられます。しかし例えば拒食症の人では、食べなくてはいけないときに食べないでいるとβエンドルフィンが出る一方、無理に食べさせるとβエンドルフィンが出なくなる。ちょうどフェーズが逆転して、環境に対するレーダーが逆相になった状態。同じように鬱や自殺のような現象も一連の自己解体。感性的に逆相になり、本当は生きる上で正しいことが不快感に、死に向かうことが快感につながります。

編集部| 快感を感じるか? グルーヴを感じるか? それが「本来の人間」にとって良い音楽かどうかを見極めるポイントなんですね。とてもシンプルな気がします。

山城| そもそも音を離散的に扱う西洋的な<楽音>の概念は、一定の高さ、一定の強さ、一定の音色が一定時間安定して保たれるもの、と定義づけされています。まさにその組み合わせとしてつくられたオーケストラのような音楽が19世紀から20世紀にかけて、アメリカでも尊ばれたわけですが、その中で西洋人が使った楽器を手にしたルイ・アームストロングのような南部の黒人たちが自前の感性でジャズというグルーヴをつくりあげた。西洋音楽の概念や美意識と鋭く対立するジャズに特徴的な音の非線形性、音の歪みや濁り、それらは音符には書いてなく書けないものです。そして多分に偶発性を持った再現性がない音楽の材料として適しています。自然環境がそうであるように、再現性がないということは人間にとって非常に安心できることなのです。別の例として日本の琵琶や尺八も、音響学的に言えば恐らく一つの楽器が同じ音を、その生涯、何十年、何百年を通じて二度と出すことはできないでしょう。人が弾いても猫が踏んでも同一の音を何度でも出せはするものの、その決められた音以外は出すことができないピアノとは真逆です。

編集部| グルーヴという現象を音楽だけではなく、人の営み自体、社会に対して広げたとき、左脳的なルールによる抑圧や管理された組織から解放された、熱狂やカオスがグルーヴを生むことがあるように感じます。例えば、サッカーの日本代表戦や選挙フェスのような「祭り」に集まって、群衆になって一体感を感じるということもあります。フロイトやユングが言っていた「<集合的無意識>」という概念も、実は「遺伝子に書き込まれていたグルーヴ」と言い換えることができるかもしれませんね。

山城| そうですね。人類に普遍的プリセットされた脳機能領域を集合的無意識と彼らは呼んでいたのかもしれません。いまはDNAという高分子物質が脳の設計図も持っているという知見が得られているから、フロイトやユングの仮説は、生命科学の概念として置き換えると、分かりやすい科学の理論として説明できるわけです。現代では分子生物学や脳科学の先端的な知見と、フロイトやユングに象徴される既存の社会通念との乖離がどんどん大きくなってきて、認識や思想を組換えざるをえないところまで来ているわけです。
例えば、我々の<プログラムされた自己解体モデル>では、自己保存と自己増殖しかできない利己的遺伝子を持つ不死の生命が進化して、利他的死の遺伝子を獲得しアドオンして現在に至ったと考えます。利己性しか持ってない原始的な不死の生命と利他的遺伝子をもつ有死の生命が地球上で生存競争課程で、利他的死の遺伝子が化って不死の生命が絶滅した結果として、現存する地球生命中には不死の生命を見出すことができない、という考え方を否定することはできません。ここで有死の生命の勝利の決め手はなにかというと、<利他的自己解体を伴う遺伝子にプログラムされた死>なのです。
地球のような有限で多様な環境の中では、それぞれの種が進化を遂げた特定の環境にぴったり合わせてその種固有の遺伝子がつくられています。利己的遺伝子のみの不死の生命は、環境の最適点で増殖がスタートしても適応可能な範囲が満杯になると活動が停滞し、ある有限な範囲の中でフリーズしてしまう。ところが、利他的遺伝子を持った有死の生命はいつかは死んで土に還る。そして、他のすべての生命にそのまま利用できるモジュールに自分の体を分解する。これが<プログラムされた自己解体モデル>という新しい理論です。従来<オートリシス>と呼ばれた生体が死後に自然崩壊する過程と信じられていた現象が、実は遺伝子支配下に行われる生命現象であったという我々の発見に基づきます。培養中の原生動物のDNAに生存不可能を意味する情報をインプットして引導を渡すと、リソソームという加水分解酵素を満杯に含んだ小さな細胞内の顆粒が激増し、数時間で細胞内一杯に増えたのち一斉にはじけて酵素を放出し、細胞全体を溶かしてしまう。親が子に餌をかみ戻して与えるのと同じようなものにして土に還すのです。
生命は突然変異によって進化し環境に適応しますが、突然変異の発生度合は、増殖の回数に比例します。だから、ただ増殖して環境を埋め尽くしていくだけの生命よりも、繰り返し死んで生まれる生命のほうが、突然変異が限りなく増えていく。その中に現れるうまくいった突然変異体が、これまで生きていけなかった領域に拡がっていく。その結果、有死の生命は不死の生命を圧倒して繁栄します。地球生命史35億年の間に、自己解体を持たず利己的であるだけの不死の生命は進化の速度面で有死の生命に圧倒的に遅れをとり、完全に圧倒されて絶滅し、より進化した利他的自己解体を持つ生命の系統のみがいま生き残っていると考えられるのです。
この進化生物学的な意味を持つ<利他性の優越>の発見は、現代の価値観をゆるがしている地殻変動の本質を捉えていると考えます。
ちなみに洗練された利他の文化は江戸時代の日本にも見られますし、人類の遺伝子がデフォルト状態で読み起こされているピグミーやブッシュマンなどの狩猟採集民に見られる優れた互恵関係は、共同体を支える美徳という名の生存戦略として再認識されつつあります。

編集部| 生命の論理や生命現象の論理と、僕たちのなにげない普段の生活で起きる心の動き、この間がいまとても遊離しているように感じます。プリミティブでプリセットな感覚、私たちが何にも考えなくても地球は動くし生命は死んで生まれてくる。僕らはその上で何か矛盾を感じながら生きています。そのギャップをつなぐ装置が「グルーヴ」なのかもしれません。

山城| 私もそう思います。まずは目の前の状況に対する解釈において、生存モデルとしての捉え方に二重性を持つことは有効だと思います。会社では、会社の人間らしく行動し悩んでいればいい。それと並行して、人類の遺伝子に約束された美しさ快さの追求という「グルーヴ」を走らせる。そのとき、現代社会での生活の方をよりヴァーチャルな世界と見なし、遺伝子決定性の世界をよりリアルな世界として捉えようとしているのが我々芸能山城組が自前でつくってきた世界像かもしれません。遺伝子に約束された本来性に根ざしたコミュニティの側を、リアリティのある世界と読みかえていく。今の社会人として標準的なライフスタイルを持っていながら、ちょっと読みかえると、いながらにしてピグミーやバリ島の共同体に近いようなものになってしまうような感覚でしょうか。私はピグミーからバリ島まで、質のいい共同体をよく見てきて、西洋文明さえやって来なかったならば、そこがほとんど天国に近かったであろうことを実感しています。しかし現実問題として我々はDNAに決められた熱帯雨林の狩猟採集生活には戻れない。そこで、近現代科学技術文明の厳しい洗礼を受けながらもそのままで終わるのでなく、その中にいてこの文明に対する免疫を獲得し、その上で人間本来の一番幸せな環境、遺伝子決定性の<生命のための文明>を、いまあるような<文明のための文明>にかわって実現していく。一人ひとりが人類の遺伝子と脳に約束された生命のための文明の最先端に立つという気概、それがいまの私たちに一番必要なグルーヴなのではないでしょうか。