タイトル
お金は世界を面白くできるのか?
著者 / 話者

バブル崩壊後、1993年に上梓された『貨幣論』から20年。
お金はさらに大きく変わった。
お財布ケータイやSUICAなどの電子マネーや、
ポイントカードやマイルといった「通貨」が、
日常にすっかり根をおろしている2013年。
今改めて、お金の本質とは何なのか?
そして、お金は世の中を面白くできるのか?

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【お金の本質は昔から変わっていない】
 現在のお金を取り巻く環境を見ると電子マネーがごく普通に使われるなど、その形態も多様化が進んでいます。ですが私の基本的な考えは、お金の本質は、古代から現代まで、全然変わってないということです。お金がいつ誕生したかは不明ですが、少なくとも6000年前には生まれていました。お金が生まれたそのときから、その本質は変わっていない。ただ、最初の頃のお金は金(きん)であったり、もっと昔ならば貝殻や皮や家畜などいろいろな実体的な物がお金として使われていました。そして金(きん)ならば神秘的な光を放つ太陽の象徴、銀ならば叙情的な月の象徴など、象徴的な価値あるいは呪術的な価値、さらにはその美しさから装飾品としての価値を持っているから、お金としてそれらが価値を持って人々に流通するという考え方が支配的でした。
 ところが、お金が金(きん)としての価値を持っているからお金に価値があると考えると、途端に矛盾が出来てしまう。もし、お金のおカネとしての価値よりも、黄金としての呪術的な価値や装飾的な価値のほうが高ければ、そのお金を人からもらった人は溜め込んでしまいます。ギリシャならば例えば1ドラクマの金が、1ドラクマの価値以上に呪術的な価値や装飾的な価値を持っていれば、それをお金として人に渡さず、装飾品として身につけるか拝むために神殿に置くはずです。
 お金がお金として流通した瞬間に、その実体は意味を失い、お金は非常に形式的で抽象的な存在になってしまう。お金とは、眺めたり拝んだりするものではなくて、それをおカネとして他の人に渡すための存在、ほかの人もそれをおカネとして他人に渡すためにおカネとして受け取ってくれる存在、そういうものなのです。すなわち、お金には、誰もが同じおカネとして受け取ってくれるという形式的で抽象的な価値と、金や銀といった実体としての価値の間に必然的にギャップが存在してしまう。実は、これは芸術などと非常に密接に関係があります。例えば銅の彫刻の芸術作品としての価値は銅それ自体の価値を超える。逆に超えなければ美術品ではなく、単なる銅です。
 何かがその実体を超えて形式的抽象的な価値を持つ。そういうある意味で形而上学的な存在の一番簡単な形がお金なのですね。お金の本質とは、それがまさに実体を超越した抽象的普遍的な価値を持つということなのです。

【お金の抽象性が近代を生んだ】
3年程前に私はお金とは何か、もっとまじめな言い方をすれば、貨幣とは何かという問いに関する学際的な国際会議に招かれ、社会学者、哲学者、歴史学者、経済学者などと議論をしたことがありました。ベルリンで行われた15人程度の会議でした。私はそこで非常に衝撃を受けた。会議にはギリシャの古典研究で第一人者とされるリチャード・シーフォードさんも参加していた。彼の論文の内容はこうでした。自分は、古代ギリシャの文学、思想、歴史、美術、社会生活などをずっと研究してきたが、そこでの最大の疑問は「古代ギリシャ人はなぜ近代人なのか」ということであった。メソポタミアやエジプト、インドや中国について調べても、その古代文明は自分にとって異質である。ところが、ギリシャ人だけは「They are us.(彼らは我々だ)」と。彼らは歴史の中で最初に、近代にそのまま繋がる哲学を生み出し、科学を行い、民主主義を実践し、文学を作り上げた。
なぜかという問い対してギリシャはアルファベットを最初に使った民族の一つだからとか、討議を重視した参加型の政治的慣習が歴史的に強かったなど、いろいろな説を検討した。だが、最終的に彼が到達した結論は、古代文明の中で最初にギリシャで貨幣化された経済が生まれたからということでした。つまり、それが人々がお金という存在に日常的に触れることのできた歴史上初めての社会だから、という結論です。
私は貨幣のことをずっと専門にしてきた訳で、同様の結論には達していた。だが、経済学者の私が、貨幣の流通が近代に繋がる哲学や民主主義や文学を生み出し、近代社会を作り上げたと言っても、それは我田引水で、誰も信じてくれない。ところが、経済学の利害関係者でない古典学者がその結論に達した。それは私にとって大きな、そして嬉しい驚きでした。
なぜ、貨幣化が近代を生み出すかというと、それはまさにお金がお金として流通すると、それはその実体的な価値を超越した抽象的な価値を持つからです。
では、なぜ哲学が生まれたのか?我々が日常的に触れているもの、例えば猫だったらば、タマやミケ、黒毛の野良猫、まだ名のないシャム猫などいろいろな猫がいます。ところが、哲学とは、そういう個別の猫ではなく、普遍としての「猫」について語ることです。宇宙とは人間を超えた何らかの法則性によって支配されているという認識。これがソクラテス以前の哲学者からプラトンにいたる哲学の出発点です。そして、プラトンのイデア論とは、まさにお金と同型です。個別の猫はさまざまな違いをもっている。だが、その個別性を超えた抽象的で統一的な普遍概念としての猫が存在する。その普遍性について思考することこそ、哲学の始まりであり、さらにいえば科学の始まりでもあった。宇宙には、現実の一見した複雑さや混沌さを超えた普遍的で等質的な法則性がある、と。
鋳造貨幣、コインの起源は、紀元前670年におけるリディア王国であったと言われています。ギリシャはすぐそれを真似してコインをつくりました。当時の鋳造貨幣技術は十分に発達しておらず、金と銀の合金を使ったのですが、合金を分けて純金と純銀にすることが出来なかったのです。ということは一つ一つのコインは金と銀の含有比率が違うことになります。ところが、それがお金として流通すると、その実体的な違いを超えて、すべて1ドラクマとして抽象的な価値で流通する。つまりギリシャ人は、貨幣経済の中に全面的に入り込むことによって、歴史上はじめて、雑多にしか見えない現実世界や、人間社会の一見した混沌さを超えた何か抽象的で普遍的な存在があるということに日常的に触れることになった。お金が示すこの抽象性普遍性が究極的にギリシャの哲学を生み、ギリシャの科学を生んだというのです。
そしてお金は抽象的な価値ですから、ギリシャでは奴隷でもお金を持てば、交換に参加できる。つまり、お金は身分を超えてお金です。そしてお金をためれば場合によっては自由人になることも可能です。もっと広く、1ドラクマのお金を持っている人間は、その人間の身分や貴賤と関係なく、一人の独立した人間として交換活動に参加できる。お金が普遍的な意味での「個人」を生み出したと言ってもよい。これが一人一票の原則による民主主義の起源でもあるという。
もちろん、人間はお金が生まれる前から交換をしていました。社会的動物としての人間の本質は交換する動物であることです。ギリシャの吟遊詩人ホメーロスの時代はまだ贈与交換の時代でした。『贈与論』で知られるマルセル・モースが示した共同体的な贈与交換の原理とは、自分が率先して相手にまず恩義や財産や婚姻相手などプラスの何かいいものをあげ、相手からいいものが返ってきたら、ちゃんとそれに返礼をする。返礼がなかったら、関係を切って、敵と見なし、それ以降の交換を拒絶する。この贈与交換の関係が編み上げていく共同体が共同体として機能するためには、誰が返礼し、誰がしなかったかを記憶しなければならない。すなわち、それはお互いの顔が見える世界だったのです。したがって、贈与交換の世界は閉じられた世界、すなわち共同体でなければならなかった。ところが、そこへお金が導入された。
お金を媒介にすると、顔が見えなくても取引できます。相手は身分違いかもしれない、さらには性別も民族も違うかもしれません。お金はまさに抽象的な価値それ自体だから、それが媒介する人間関係も抽象的になります。それだから、どんどん顔が見える世界を駆逐していく訳ですが、そこで様々な対立が生まれ、闘争が生まれ、悲喜劇が生まれます。お金が生み出す抽象的な世界と、それ以前の顔の見える贈与交換的共同体のあいだの価値観や倫理観の激しい対立、それを世界で最初に最も激しい形で経験していたのがギリシャです。例えば、ギリシャ悲劇の構造を見ると、お金によって共同体から離れてしまった人間と共同体的な正義を体現する人間との対立が大きなテーマです。ホメーロスは英雄の世界でした。英雄とは共同体の酋長さんのことです。だが、ギリシャ悲劇では、代わりにタイラント、すなわち暴君が登場する。タイラントとは、お金によって共同体の正義を超越した権力を握ってしまった人間のことです。また、お金にとらわれてそれまでの人間観から見たら考えられないような愚かなことをしてしまう人間を描くのが、ギリシャ喜劇です。いま見てもどれも面白い。蜷川幸雄さんがギリシャ劇を現代劇に仕立て上げることができる。
ギリシャは最初にお金が流通した社会であることによって、まさに近代社会の問題を最初に経験し、哲学や科学、民主主義や文学を最初に生み出した。したがって我々になった。つまり近代人になったのです。

【お金の持つ抽象性に気付いた時、世界は面白くなくなった】
お金の本質は太古から変わらない。しかし、現代になって変わってきた点があります。昔は、少数の例外的な天才を除き、みんなその実体それ自体に価値があるから、お金としての価値をもつと考えており、お金の本質を理解していなかった。
ところが、現代になってお金がこれだけ溢れかえり、しかも非常に抽象的な形をとって流通するようになった。日本の戦前の1円札も兌換券で、「この券と銀1円と引き換えいたします」という文言が書いてあります。まだ実体論的な貨幣論を信じることができた。だが、現在は不換紙幣になり、1万円を日銀へ持っていっても、新札の1万円を渡してくれるだけです。背後に何の実体もない。日銀あるいは政府の権威が、1万円札の価値を支えているのではないかと思うかもしれません。ですが、ドイツが第一次大戦後にハイパーインフレーションになってしまったように、国や中央銀行が発行した紙幣も結局紙屑になってしまう可能性があるのです。つまり、国の権威もお金をバックアップしない。
貨幣はそれ自身価値があるのではなくて、単にほかの人が受け取ってくれるから価値がある。しかもそのほかの人も他の人が受け取ってくれるから価値があると思っているだけです。誰も何もお金に対して実体的な価値の根拠を与えていない。お金は誰もがそれがお金だと思っているからお金として流通し、お金としての価値を持っているだけです。これを私は「貨幣の自己循環論」と言っています。それは純粋に抽象的形式的な存在であり、その価値もなんの実体性を背景にしない純粋に抽象的な価値なのです。そして、お金とはそういう抽象的な価値なのだということが、不換紙幣や銀行預金口座や電子マネーなどを貨幣として使う現代では、誰の目にも明らかになってしまった。
今は誰もお金の背後に何か実体的な価値があるから価値があると思わなくなってしまったということです。お金には単に流通している価値があるだけという認識を持つようになった。それをポスト産業資本主義、ポスト近代と言うわけだけど、そこには本質的にはどこにも新しいことは含まれていない。かつての古代ギリシャ人も、先端的な哲学者や劇作家、そして彫刻家や政治家などは、直感的にかもしれないですが、お金の本質をとらえていました。これに対して、今は誰もが、もうお金の背後には実体がないということを知ってしまった。単に認識が大衆化したにすぎない。それが大きな違いです。
言わば、哲学が消えてしまった。哲学の問題をお金が解いてしまった。はたして普遍なるものが個別と独立に存在するかという問題、プラトンとアリストテレスの対立も、お金が解いてしまった。普遍は存在する。しかしそれはイデア界という世界に存在するのではなく、人びとの社会の中における実践活動の中に存在するということです。……それがポストモダンと言われたらそうかもしれません。ただ、世界は始まったときからすでにポストモダンであるという意味においてです。もう、どこにも中心がなく、本質もなく、究極の実体がない。そして、それがお金です。お金がわかれば、その原理は他にも通用可能で、言語の意味とは何か、法の力とは何か、倫理命題とは何か、美術作品の価値とは何かなど、それらの問題も解かれてしまって、今は哲学が終わってしまった時代なのです。そういう意味では、時代としては面白くないでしょう。
かつてのように、お金についていろいろ哲学ができた時代、お金の価値の背後に、呪術性があるとか、性的な象徴だとか、糞尿行為の代理だとか、そういうことを考えられているうちは人間も楽しかったんですが(笑)。今はもう、単に流通しているから流通しているのだと。お金をお金だとみんなが思っているからお金がお金になるという原理が誰にもわかってしまった。この原理は言語の意味においても法の力に関しても基本的には同様です。それらはすべて自己循環論法になる。イデアと現象、形式と本質、記号と実体、表象と現実、代表と集団……。そういった形而上学的二項対立はお金によって実践的にしかも日常的に乗り越えられてしまった。
 まだ理解していない人ももちろんいますが、それはしょうがありません。形而上学的な二項対立的思考は、おそらく人間の脳に刻み込まれているので、それから脱するのは常に困難です。ただ、繰り返すと、このたぶん一番ポストモダン的な認識は、すでに少なくとも古代ギリシャにおいて予期されていた問題、いや、おそらく人類が言語を使って思考し始めたときからすでに予期されていたはずです。その意味で、ポストモダンという言葉ほど陳腐な言葉はありません。

【お金が人間の無限の欲望を生んだ】
 「お金が資本主義を生んだ。」こう私は言っているのですが、なぜかと言うと、人間はどんなにお金持ちでも、リンゴを数個食べたらもう満杯になってしまいます。一方、お金は抽象的で、それ自体は我々に何ものも与えてくれない。食べることも着ることもできない。ところが、お金を持っていると、可能性として何でも買える。「お金の魔力」とよく言われるのは、お金それ自身は人間にとって本当に何でもないものですが、それを持つと世の中のすべてのものが手に入る可能性を手に入れるからです。モノに対して欲望は限りがありますが、可能性に関しては、人間の欲望には限界がありえない。ひとつのモノに飽きても、常に別のモノがある。
お金は、人間に「可能性」という抽象的な存在に対する欲望を与えた。ここで、因果関係の大いなる逆転が起こる。お金とは本来何か有用なモノを手に入れるための手段でしかない。その本来は手段でしかないお金を、人びとは「可能性」という何かを与える存在として、それ自身を目的として欲望し始める。しかもこの可能性に対する欲望には限りがないことで、それは人間に無限への欲望を与えてしまったことになる。具体的には、お金を無限に殖やしていくという欲望です。お金を増やすためには、もちろん、利潤を追求しなければならない。
すなわち、お金が資本主義を生んだということです。資本主義とは、利潤の追求を自己目的とする社会システムであるからです。これはアリストテレスが『政治学』で述べたことを私なりに言い直しているだけです。なにしろ、アリストテレスは人類の最大の天才の一人ですから。結局、資本主義の最初の思想家はアリストテレスであるということになる。もちろん、アリストテレス自身は、ギリシャの都市共同体の思想家です。共同体の自足性の擁護者であり、共同体の倫理の提唱者でもあった。だが、まさにその彼が都市共同体がいかに成立しているかを思考していく中で、お金について思考し、さらにそのお金が無限の欲望を生んでしまうことも思考し、最終的に資本主義についても思考した。お金は、そして資本主義は、共同体の自足的な秩序を壊す共同体の敵であるけれども、そのお金について資本主義について徹底的に思考した。都市共同体を守るために、こんなものはけしからんと言いながら、徹底的に思考したんですね。
 そして実は、このようにお金によって人間の無限に対する欲望が生まれると、それはもっと一般的な意味で、人間に無限に対する欲望を与えてしまった。これは、たぶんその後の様々な人類の文化活動、芸術活動にも通じていく訳です。有名なゲーテの『ファウスト』で、主人公のファウストは無限の知恵を求めました。ロマンティズムは無限を求める文化活動です。
 現代、お金の持っている抽象性がこれだけ完全に100%日常化した社会の中で、今までお金の背後の本質を見出そうとして何か面白いものをつくろうとしていたものの、その余地がなくなったときに何が変わるのかが新しい問題です。もう後戻りはできない。つまり、それが、ポスト近代、ポスト産業資本主義であると思います。この純粋に抽象化された社会で、何か面白いものが可能かという全く新しい問題が突きつけられています。実はギリシャの時代から最先端の芸術をやっている人は、その問題をずっと突き詰めていたのです。ギリシャの古典を読むと、今我々が直面している問題に彼らも直面していて、ちゃんとそれらの解決を与えている。ある意味もうすでに問題は解かれてしまったところはあるんですが、同時に、現代人として、すべて解かれた時代は面白くない訳です。そこで、哲学の問題は解かれ、芸術の問題も解かれてしまった中で、哲学は可能か、芸術は可能か、さらに言えば、倫理は可能かという問題ですね。そこに今直面しているんだと思います。

【お金の力が弱まった時代】
 今回の金融危機に関して「お金が支配する時代だから金融危機が起こったんだ」というのが巷に流布している解釈です。しかし、私の解釈は全く逆です。ポスト産業資本主義とは、お金の力が弱まった時代なのです。
 18世紀後半のイギリスから始まった産業資本主義は、機械制工場による飛躍的な生産性の上昇が可能にしました。機械制工場さえ建設できれば、農村から絶えず流入する低賃金労働者を雇い入れて大量生産を行えば、大きな利益を生み出すことができた時代です。そして、重要なことは、お金で買えないモノはないと言うことです。機械制工場はモノなので、お金さえ持てば、モノである機械制工場を買うことが出来、機械制工場さえ持てば、大量生産によって利益が得られたという訳で、産業資本主義の時代とはお金が支配した時代なのです。ところが、20世紀最後の4半世紀、日本を含めた先進資本主義国では、農村の過剰労働が枯渇してしまう。それは、機械制工場を建設しただけでは利益が得られなくなったということです。これが、産業資本主義からポスト産業資本主義への移行です。私がいつも言うように、利潤は違いからしか生まれません。ポスト産業資本主義とは、創造的な違いを不断に生み出さなければ、利潤を生み出すことができない時代ということです。創造的な違いを意図的に生み出すには、人間の頭脳がどうしても必要です。他の人、他の企業と違う製品や技術や市場や経営方法を創り出さなければならない。しかも、違いはすぐ真似されてしまう。したがって、絶えず新たな製品や技術や市場や経営方法を開拓していかなければならない。この違いを生み出せるのは人間、特に人間の頭脳だけです。先ほどお金で買えないモノはないといいましたが、お金で買えない「何」かはある。それが人間です。人間はモノではない。ドレイ社会でない限り、人間は買えない。札束は人を動かしますが、人間には自由意思があり、とくに人間の頭脳、その創造性をすべてお金で支配することは出来ません。
 つまり、今はお金が利益を生み出せない時代になったのです。結果として今の時代に利益を生み出している人は、例えば一握りのエンターテイナーやスポーツ選手、そして、もちろん、様々なイノベーションをもたらすシリコンバレーのIT企業創業者であるのです。
 つまり、今はお金に大きな価値がなくなった時代だからこそ、お金は少しでも利益を生み出す場所を求めて世界中を飛び回っています。右往左往していると言ってもよい。それが金融市場化であり、グローバル化です。ポスト産業資本主義の時代において一番先端的なところは、グーグルだったり、フェイスブックだったりするかもしれない。ですが、そういう企業は創業者がやっており、しかも創業に必要な資金は僅かなものでした。そういう企業が上場する頃には、もはや手遅れで、株式投資をしても大きな利益は望めない。ですから、お金は、少しでもいい投資先を求めて、例えば先進国の資本ならば、中国やインドなどの発展途上国へ行き、まだ安い賃金を使って産業資本主義的に利益を生み出さざるをえないのです。これがグローバル化です。
 または、さまざまなリスクの差や時間の差、地域の差などに関して非常に複雑な組み合わせを行う金融派生商品をつくって、なんとか利益を出そうとする。これが金融市場化です。今は産業資本主義のように確実な貸出先が無くて、お金が困っている。お金が支配しているのではなく、いわゆる金余りの状態なのです。多くの人が金融資本主義の支配と見なしている事態は、実は金余りであることの結果でしかない。金余りだから、お金の移動が目に付くだけなのです。そして、お金が余っているときに、一番短期的にお金を生み出す方法が、バブルです。その意味で、今回の金融危機はお金が余った結果です。金融資本主義とは、「お金のあがき」なのです。

【交換の本能を刺激する仕組み】
 そもそも日本に住む人の多くは、アメリカ人や中国人、ユダヤ人や華僑アジアに比べると、そんなにお金に興味がないと思います。昔ならば故郷に錦を飾るほうが良かった。共同体の中での地位や尊敬のほうを欲しがる傾向がありました。一方アメリカという社会には故郷がなく、共同体がない。特にアメリカで資本主義の中核にいるユダヤ系の人たちは、故郷がない。そして、故郷がない人たちはお金が唯一の価値になるのです。
 そのようにお金が価値を持つのは、共同体を失った人たちなのです。そこから考えれば、日本やヨーロッパは、まだ共同体的な価値や、お金で買えない価値がどこかで重要な部分を常に持ち続けている社会でしょう。逆に言うと、お金が重要ではなくなるポスト産業資本主義の中で、日本やヨーロッパなどの方が可能性を持っているとも考えられるでしょう。
 ただ、ここで重要なことは、アリストテレスが言うように、人間は社会的存在であると言うことです。それを、マルセル・モースの人類学的研究で補足すれば、人間は「交換」することによって社会的になる存在です。人間は、おそらく人類として成立したときから、さらにその前の原人のレベル辺りから、たぶん交換し続けてきたと思います。人類の脳が大きくなったのは、まさにそのためだと言われています。農本主義が理想とする自給自足とは、人間にとっては最も不自然な状態なのです。
 ということは、お金が重要でなくなったとしても「交換」の本能は無くならないということです。お金とは、本来、交換する存在としての人間の「交換」を容易にする手段として生まれました。しかし、お金の本質とは、その抽象性形式性です。お金は生まれたときからその実体的価値を上回る抽象的な価値を必然的に持っていた。それが、時代が新しくなるにつれて、その本来的な抽象性をだんだんと高めてきて、今では電子マネーのように、純粋に抽象的な存在になってしまった。その結果、誰も交換という意識をほとんどもてずに、単にキーボードを押すとか、クリックするだけで、交換をおこなってしまう。交換という行為から完全に離れた交換です。人間の本性である交換のために生まれたお金、つまり交換のために生まれたお金が、人間から交換という行為を失わせてしまっている。それが極限に達したのは、ポスト産業資本主義なんですね。
 それだからこそ、逆に交換の喜び、交換の本能に呼応するようないろいろな仕組みが新たに出てきたと思います。ヤフオクなどのオークションサイトもそういう側面があるかもしれません。そういった意味では、お金自体は電子マネーでありながら、交換それ自体の楽しさをその抽象性に付け加えること、すなわち交換を不純にすること、これが現代では重要なビジネス・モデルなのかもしれません。
さらに言えば、お金が余った時代になり、人びと、特に創造的な活動をする人びとは、お金で買えないモノを一番欲しがるようになっています。もちろん、一定程度のお金は欲しがります。しかし、一番欲しいのは、自由な時間や、文化的な環境や、社会的な尊敬や、信頼できる仲間といったお金で買えない「何か」なのです。そして、そういう「何か」を提供してくれる企業で働きたいと思っているし、そういう「何か」が得られる消費活動をしたいと思っている。例えば、グーグルという会社には「20%時間ルール」というのがあります。1週間のうち1日は、自分に興味のあることを追求しろというルールです。グーグルは、まさにこのようにお金で買えない何かを提供する環境を従業員に与え、そして会社自身のミッションにも、お金の追求については一言も触れず、世界の情報がすべての人に開かれ、有用になるために存在する、といったことしか書いていない。だが、その結果として創造性のある人間を集められ、資本主義的に最も成功した企業になっている。お金を離れることが、お金を呼び込むという、大いなる「逆説」がここにあります。そういう逆説が起こることが、ポスト産業資本主義の時代に他なりません。
いまグーグルの話をしましたが、グーグルの宣伝をするつもりはありません。実は、ポスト産業資本主義の時代ではシリコンバレーが最終的な勝者であると必ずしも言えないとも私は思っています。大袈裟にイノベーションという風に考えずに、「お金では買えない何か」を追求していくこと、それが、新しいタイプの資本主義、いや新しいタイプの社会への近道なのだと考えているのです。