タイトル
ぼくらの間にある見えないもの ぼくらの中にある見えないもの
著者 / 話者

編集部
待ちに待った岩井俊二監督の新作『ヴァンパイア』ですね。
岩井俊二(以下、岩井)
小説版の『ヴァンパイア』というのはある種、エコエゴエロのごった煮みたいな話なんですけど、ある変質者のウィタ・セクスアリス(性欲的生活)を描いています。そして、なぜそういう衝動がうまれて、それをどう持て余して現在に至ったのかっていう話です。まあ、映画の方は幼少期がぜんぜん出てこないので、小説のほうがよりそこが感じてもらえるはずです。文体自体を自問自答型で、自分が抑えきれない吸血衝動っていうものの正体がなんなのかっていうのを探していく彼の妄想のなかで、最終的に命とは何ぞやっていうところまで暴走していくストーリー。真に受けてもらってもいいし、きちがいのたわごとだよねって思ってもらってもいいんだけど。
編集部
ヴァンパイア自体が、野生と人間性の中間としてシンボリックです。
岩井
人間社会の中には具体的な捕食者と被捕食者、プレデターとその獲物みたいな環境は、普通、表向きのコミュニティーの中にはないですよね。本来、動物の野生ってのはそれを持っていて、どうしてもお互いのタンパク質を略奪し合わないと生きていけない。で、同時に繁殖しなきゃいけないってことで、動物すら、というか動物だからこそ、エロを持ってるわけです。例えば単細胞動物でさえ異性の単細胞をみつけると、お互いに近寄っていってDNAの交換をする。ただ、我々みたいになっちゃうと、もう単細胞生物ではなく、60兆あると言われている細胞の塊で、一つ一つの細胞の欲はもう聞いてもらえない。それはある方向の生殖機能だけに特化されて、ほかの細胞たちはその欲求をぜんぶ封印されている。 そういう意味でいうと、我々のこの組織的な体っていうのは、お互いに細胞個々のエゴを封殺してまで、この状態をみんなで一つの社会として使っているとも言える。その中には、必要なければ前向きに死んでいくということも含めて、アポトーシスなんて言葉がありますけど、そういうことも含めた調和のなかにいる。『ヴァンパイア』に出てくるのは、そういう細胞の集まりの自分って一体何なのか、「自分が自分として自覚できる自分」というのはなんなのかっていう問いでもあります。それは主人公の見解でありつつ、僕自身の見解でもあるんだけど、自分が自分として自覚してる部分っていうのは、あくまで五感をたよりにして作った概念であって、それは視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚に決定的に支配されている。脳があって脳が考えていると言いつつも、結局その五感のインプットから実感して得られるもの。五感を全部封印されてしまうと、体現できないわけですよね。自分が自分であることすら自覚できるのかどうかは危うい。つまり、脳だけ残ってても、たぶん自分すら分かんないと思うんですよ。てことは、じゃあ五感ってなんなのかっていうと、実は、ほとんどは自分の体のなかに向かっているものではなくて、外界を感知するためのセンサーである。つまり、自分っていうのは、自分の体の中の形成じゃなくて、外から入ってくる情報のなかでほとんど形成されていて。自分そのものとは直接関係ないということになる。じゃあ、私という生き物が生きていく上で、その私なる「体」と「自分」との関係はどうなっているかというと、意外と自分っていうのは体から疎外されていて、中のことはまったく窺い知ることができない。たとえば、心臓が動いていたり、胃腸が動いていてたりすることすら、うっすらとしか感じられない程度が、自分。冷静に考えると、ナンセンスで、はかない。 自我の意味を突き詰めるとそれは単なるセンサーであり、外側を見張る「見張り番」みたいなことをしてるだけとも言える。そこに多大な時間やいろんなものを費やしているように見えるけど、本来は、そもそもは、細胞を生かすためにすべて営みとしてあるだけで。だから、外側に対して干渉する必要がないとき、例えば寝てるときとかは、センサーは休んでいるけど、体自体は生きている。そういう状態に入るのは、人間ってこのうえなく気持ちいいわけじゃないですか。そりゃあたりまえだよなって。センサーがオフなんだけど、肉体が細胞レベルからそれを求めている状態は、絶対に気持ちいいはずなんですよ。なんか必要だから、食べ物を食べたいから、自分たちで食べたいから、自分というか細胞たちが食べたいから、自分なる自我に食べ物を探してこいと指令を出して、腹減ったと言って食べ物を探して口に入れさせたり。でも一旦口にいれた食べ物は、のど元過ぎればどこ行ったかわかんないわけで。それはあなたには関係ないよといわんばかりに教えてくれない。で、一連を経て、また出てくるときにまた出番だよ、出してくれっていう。その係をやらされているっていうのが人間。すると、ほとんどのことを教えてもらってないわけですよね、中に関しては。ビルで言えばビルの外を見張っているガードマンたちが、いつのまにか、そのビルの持ち主だと思い込んでいる状態とも言えなくない。
編集部
なるほど、それは面白いですね。本当の持ち主は細胞だと。その見方だと、ぼくたちは単なるガードマンにすぎない。
岩井
そう。ビルの中の細胞たちがエロを感じれば、その人を使って性的な行為に及ばせようとするだろうし、すべての行動は、見えざる60兆の入居者の意思に従って。そしてその入居者たちも自我を持ってるわけじゃなくて、あるやつは赤血球になって体中巡っているわけだし、あるやつはツメになったりしているわけで、だれ一人としてその恩恵を存分に受けるということはなく、それぞれの役割を演じながら、ひとつの大きな塊を形成している。そう考えると、中心にいる意志ってなんなのかっていうことですよね。創造主というか、一体何だろうという疑問がわいてくる。
編集部
岩井さんでもわからないですか、その創造の主。あらゆる主体の背骨となっているもの。
岩井
わからないですね。短絡的に神様がいるってところには着地できない話だと思う。ただ、そういったことが自分が今後作っていく作品のおっきなモチーフになっていったり、そういった考えを使って表現したいなとは考えています。また生命の成り立ちを考えるうえで、分子生物学などの科学分野で起きていることはすでにアップデートして、参考にしています。

編集部
まさに岩井監督がおっしゃった細胞の話や、食の概念とか、生き物の構造の話なんですが、今号の「特集|エコエゴエロ」では、各方面の専門家にあってお話を聞いています。食の話って、内と外の境目だし、粘膜や循環という概念も含んでいて、もちろんエロスとも触感が近い。また、細胞に関しても生命科学の学者と討論したり、生き物のヒントをさぐるために昆虫の専門家とブレストしたり。あと、創造性を論じるときに、芸術家って、昔は科学からインスピレーションをもらうことが多かったんですね。ピカソとかダリとか、映画監督でもエイゼンシュタインとか、スピルバーグとかまさにそう。雑誌『広告』も、芸術とか自然科学とか社会科学の壁を突き破るような、そういう運動の一旦になればいいと考えています。
今号の取材の話に戻りますと、いまぼくらが問題意識として持っているエコとエゴとエロは、まったく別個に語られることが世の中では多いんだけど、これは単なる「レイヤー違いの欲」ではないかと話しています。つまり社会レベルでの欲がエコで、個人レベルがエゴで、細胞レベルがエロという、欲の最適解をどこに置くかだけの違いじゃないかと。これらは、本来は連環でこそ語られるべきで、 関係するからこその概念な気がしていて、それでここからちょっと飛躍するんですが、岩井作品を考えたときに、『打ち上げ花火、下から見るから?横から見るか?』から『花とアリス』、『リリイ・シュシュのすべて』、そして新作『ヴァンパイア』にいたるまで、共同体と個と細胞レベルの欲のレイヤー間における、言葉にならないような関係性を描いているような気がしたんですね。簡単に個人のモチベーションが割り切れずに、さらっと見ると主人公の気持ちを読み解くのが難解で、でも、観終わったあとに明るさとはかなさが混在しながら沈殿するような何とも言えない空気。主役が、あるときは被害者のようになにかに操られて、性の芽生えとか、集団の無意識とかに翻弄されながら。
岩井
完全にそういう明確な意識をもって作品を作っているわけではありませんが、たとえばエゴの問題っていうのは、相当多くの人が誤解しているんじゃないかと思っています。たとえば現代の社会って、個人の尊厳を非常に尊重している社会だと思うんですけど、ともすると尊重しすぎたっていう感じ。尊重しすぎた結果、封殺しちゃってる感じすらする。あなたはあなたらしくと言い過ぎて、実際はあなたを見ていない感じ。自我なるものってセンサーなので、起きている限りはだれでも発動し続けているから、別に人と交わってなくてもとことん元気に発動している。僕なんか子どもの頃は田舎だったんで、学校終わるとずっと草むらに飛び込んでいろんなものを探していましたけど、あの時代が一番元気だったと思う。だけど、人と交わると、自我と自我がぶつかりあってくるので、お互いに譲んなきゃいけなくなってくるっていう。あなたもわたしも尊重しましょうと。その数が増えてくればくるほど、例えばクラスで40人という単位にされると、やっぱり40分の1まで自我レベルを落とさないとそこでは生きていけない。みんなが好き勝手に発揮しちゃうと学級崩壊で、管理者側からはめんどくさい。でもね、もともとの自我ってもっと自由なもんだと思うんですよ。あらゆることに興味津々で、黒板だけ見てろっていわれても隣の女の子にも興味あるわけだし、後ろの子とも話がしたいわけだしって、まあそれが自然な自我だと思うんですけど、その自我が集まって形成されるコミュニティの在り方っていうのは、20世紀、決してうまくいってなかったんじゃないかという気がする。たとえば、団地ができて、マンションができて、隣の人間としゃべらなくなった。満員電車に乗っても隣の人としゃべらない。現代人は自我を尊重する、エコも尊重する、でも隣にすんでいる人は顔も知らない、ところがネットでは見知らぬ人に向かって急に饒舌になったり。そういう意味では、構造的に自我が迷走していて、いじめ問題も含めて、どっちかっていうと人間ではなくてそれを取り巻く「装置」の側の不具合なんじゃないかと思っている。
たとえばいじめをした子供の首根っこつかんで、お前の暴力性の正体を出せ、いじめをするお前が悪いんだってなるんだけど、本当にそうかなーと。たとえば、どんな人間でも、マンションに住むと隣の人としゃべれなくなるし、満員電車に乗ってもしゃべらなくなるし、インターネットがあるとしゃべり出す。どうも装置が変わると、同じ人間でもいろんなふるまいをするのではないかと。すると、果たして「学校」という装置がどうなのかっていうことになる。戦後から日本にコンスタントに悪質ないじめが増えているということは、装置として、その中には、校舎の雰囲気とか教師ももちろん含まれるのだけど、学年で割って同じ年齢の人間だけをひよこのように集めてきて箱の中に入れるっていうシステムがおかしいんじゃないかと。どうもぼくたちはそういうふうに育てられてしまって、当然だって思いがちなんだけど、なんだか見逃せないことがたくさんぼくには見えてきて。
編集部
岩井作品においては、少年性や少女性がよく描かれますが、まだ純粋な自我を持つある少年なり少女が、学校という装置に入って、はじめて隣の席の異性を意識して、はじめてクラスという共同体の中で自我を40分の1にぶつ切りにされるときの「反応値」というか、その「ゆらぎ自体」を描いているとも言えますね。
岩井
僕のなかで、学校っていうテーマは、どこかで悲劇性がある装置なので使っていたのではないかと思います。学校の中にいること自体が悲劇であるって意識がぼくの根底にある。なにもしなくても可哀想な人たちが次々生まれる構造、つまり、自然にドラマが生まれてしまう。作れば作るほど、どうもそうらしいってところに辿り着いてもきたし、『リリイ・シュシュのすべて』の制作の過程でいじめの問題を深く調べたんですけど、実態は残酷すぎて映画にもならない。みんな多分、世の中のことぜんぜん理解してないと思う。傷つくようなことを言われて、心が傷ついて自殺したくらいにしか多分思ってないと思うんですけど。あるいは理解しない方が都合がいいのかも知れない。そして、そういう傾向は、地方に行けば行くほど強くて。
編集部
そうですか。『リリイ・シュシュのすべて』どころではないと。
岩井
現実は目も当てられない。情報を集めれば集めるだけ、ちょっとこれはどうにもならんなっていう、凄まじい状況がある。学校は今ほんとに一番の危険地帯じゃないかと思う。この日本のなかにある危険地帯で、無垢な少年少女を野放しにしたら、まあ適度に信じれる先生もいるし適度には抑えられている部分もあるけど、まあ、当然抑えこみきれないですよね。先生たちから見えない場所でほとんどのことが起きているわけで。じゃあ、なんで、そういうことになっているかっていう問題。
編集部
根っこには何があるんでしょうか。
岩井
一番簡単な理由は、やっぱり学年で分けているっていうことだと思う。本来、子どもなんて大人のコミュニティのなかに10%程度の比率で自然にいればよくて、たとえば今日の取材でも、そこら辺にでも2、3人くらい転がしておけばいいわけで(笑)。普段は子ども同士で遊んで、大人がしゃべってるときにちょっと絡んできて「うるさい」って言われてるような。子どもって自分=世界で、つまり、自分と世界は等価値だと思うんですよ。だけど、どうもその社会っていうのは、おっきい人たちもいて、どうもある順番を自分は待たされているっていうか、自分はどうも主役ではないっていうことを身体で覚えさせられる。自分から見てると主役にしか見えないんだけど、おっきい人たちがいっぱいいて、自分のこと相手にしてくれてないっていう。その安心感が、いつか自分もおっきくなるんだというよろこびとか、いまは自分は猶予期間で自由に遊べてるけど、なんだかやるときがくるんだなっていう張りみたいなものも生まれる。
ところが、いまの子どもたちってまず学年で割られちゃうんで、その中にいるともう社会なんですよね。小学校1年生であろうと、その中で勝手に力関係も生まれてしまうし、大人もなければ子どももないっていうところに連れて行かれて、自我が割り算されちゃって、疑似大人化したり、純粋さをバカにしたり。なんかぜんぶが嘘っぽくなる。
編集部
小学一年生なんて無邪気なだけに、ある種のモードに一気に連れて行かれますよね。それこそ入学式のあとに一気に、学校という社会に。僕なんかもまだ覚えている。
岩井
それは非常に嫌なことで。僕も小学校の時とかそうでしたけど、なんだかんだで同じ学年の子が一番怖かった。家帰ると、3歳とか4歳とか上の近所のお兄ちゃんとかがいて、そこに殴りかかったりして、殴り返されてぼこぼこにされたり。よく泣いてたし、で、またやられて。でもそれは怖くはなかった。それは居心地いいんですよね。
編集部
それはきっと流れがオープンだから。
岩井
そうですね、心を許してるわけですね。でもクラスの中で泣いたことなんか一度もないですよ。本当に頑なに。もう恐怖で。とにかく何されるかわからないし、感覚的に怖いし。もし、おしっこ漏らしたなんて言ったら死ですよ。そういう緊張感の中にずっといるってのは、子どもにとってラクなわけない。そういう社会勉強がいいんじゃないかと、分かってない大人は勝手に言うけど、みんな忘れているだけで、忘れていくから勝手に誤解していると思うんだけど。
編集部
たしかに、一番人間として、センシティブでナイーブなときに、エゴが割り算されて、突然あいうえお順に着席させられたり、背の順に並べられたり、成績の順に呼ばれたり。確かに、誰かがいじめたりすると、もうあの子は悪いみたいな話で終わらせようとするんだけど、それはその子が悪いのか、装置が悪いのかっていう問題はありますね。装置を前提として考えているから、結局どこどこの家の子はすごい悪い子とか、育ちが悪いとか、親の顔が見てみたいとかいうことになる。
岩井 今の子たち草食系だとか言うけど、自我レベルは絶対落ちてないんだと思うんですよね。むしろ、それを外に出さなくなっているだけで。だから危ないと思う。細胞壁で野性を閉じ込めて外から見えないようにしてる。出せばぶつかりあい傷つけ合うし、だったら出さないほうがいいっていうあきらめっていうか。そうすると、暇な時間とかに、ついつい自分の中を見つめちゃうけど、家に帰って夜自分の心の中を見つめようとしても、さっき言った通りで、心の中なんか見えないわけで、それこそ体の中身ですら、ぼくらには見えないわけですよね。外を知って初めて相対的にゴーストで現れるので、それを全部排除して自分の中に戻っても、何もないわけですよね。暗い闇しかない。だからどんどん負のスパイラルで鬱化していく。だからよくスタッフとかには、とにかく自分だけは見つめるなと言いますね。そこ見つめると何もないからってよく言うんですけどね。そのくらいにしとかないと、危ないよって(笑)。

編集部 自我とか自分とかエゴとか言葉では簡単に言うけど、自分って実は一番遠い場所なんですよね。わかんないっていうか。

岩井 わかんないですよね。

編集部 岩井さんの描く世界では、学校をテーマにしながら、性の問題やお金の問題もよく出てきますね。

岩井 そうですね。やっぱり、性問題、お金問題っていうのは、人間が生きていく上で必ずつきまとってくる重要課題なので無視できない。

編集部 性の問題だと、最近、恋においても「セックス」や「恋愛」や「結婚」を部分最適で分けちゃうって話を編集部でしていたんですが、岩井さんの描く世界には、つねに言葉にならない全体性というか、人の描き方にも分断されない色気があると思います。

岩井 うまく答えられるか分からないですけど、ぼくは、いつも手つかずの切り口を探してるんだと思うんですよね。まだ誰も見たことのない、初々しい、みずみずしい人間の断面をどうやって見つけるかっていう。それ自体が結局、創作の一番の拠り所になっていく。 
性の問題に関していうと、ぼくたちの社会ってなんだかんだ言って、女性社会だと思うんですよね。女性に認められてない価値観は、割と封殺される。男性の性欲みたいなことっていうのは、やっぱり女性が認める限りの部分においてのみ認められていて、それだけが社会に出ていってもいい。だから恋愛小説とか恋愛映画はばんばん成立してくるわけですけど、それがアダルトビデオぐらいになってきちゃうと、もう女性的には認められない、男性の中だけに押し込められてしまっているようなね。でも本来は女性に認められないそういうものも、本来共存しててこそ、そういう全体的な色気が匂い立ってくるんだと思うんですけど。意外とそこはだいぶ整頓されちゃったんだろうなという。70年代ごろとかまだそこは渾然一体とあったと思うんですけど。特に、いまの10代20代がどうなのか。もともともっと近くに重なって共存してたものが、ビデオ屋のジャンル分けのように分けられちゃってるんじゃないですかね。恋の対象がアニメにいってしまう男の子だって普通にいますからね。あっちいっちゃうと、もう出口ないですよ。永遠に直接抱けるものじゃないですからね。

編集部 岩井さんの作品にある色気っていうのは、決して色っぽい人が出てるという意味ではないですが、 世界が、なんでなんですかね、エッチな感じするんですよね、すごく。次の瞬間なにが起きるか分からないドキドキで空間が満たされている。

岩井 実際、手塚治虫なんかもそうだったかもしれないんですけど、意外と男の子、女の子がはっきり分かれてないのかもしれないですね。

編集部 あーなるほど。

岩井 男の子として女の子として分けて描いているというよりは、人として渾然一体として描いていく中で、役割として偶然男だったり女だったりしてるので。描きながら、まあこれ逆でもいいんだけどなって思いながら描いていることはあって。人間として生々しく際立って描きたいと思う結果、そういう部分も結果的に匂ってきてるのかなって思うんですけど。僕のなかでは、ある男の子がいて女の子がいたりして、その関係性っていうか、「二人の間にある見えざる空気」っていうんですかね、それだけが一番描きたいところで。自分が生きていてめちゃくちゃ楽しい時とかを、これみよがしみたいに描きたいと思うことは一切ないんですね。でも逆に、すごく心細いときであったり、なんとも切ない時であったりっていう、そういう見えない関係性を音楽にしてみたりとか、映像にしてみたりっていう、そういうところから始まっているんだと思う。

編集部 典型的なフィルムスクールの技法ですと、起承転結のドラマツルギーがまずあります。でも岩井さんの場合はそうじゃなくて、見えざる空気や関係性を探しているというお話・・・はっとしました。たとえば『リリイ・シュシュのすべて』では「エーテル」っていうのを大事なキーワードにしていて、それは光の媒介だってことですけど、科学的でもあるし哲学的でもあるモチーフで、ものすごく神秘性を帯びて使われていますよね。岩井作品ってまさにすべてが「エーテル」だと思うんですよね。空気自体のバイブレーションが主役になっている。主従で言うと、普通は人が「主」で、空気感が「従」のはずなんだけど、逆に空気自体が「主」になって、人はどうでもいいみたいに浮遊することが多い。いま初めてそれを言われて思ったんですけど・・・目に見えない関係性。

岩井 これは口で説明するのは非常に難しいですけどね・・・。なんか軌道だったり抽象的な何かに共通する、なんて言うんだろう。たとえば、織姫と彦星がいて、年に一度しか会えないような話に思いを馳せるとする。すると、たまたま年に一度しか会わないわけじゃなくて、そこって、誰も頭のなかにも、会いたいんだけど会えないという星の軌道が頭に描けて、それが交われないから、一年に一度だけ会えるっていう図が浮かぶと思うんですよ。実際には、二つの相対位置は一定だから、それだけ見るとすごく即物的なんだけど、本当の暗闇のなかを一年もの間、お互いがそれぞれを想いながら巡ってんだって考えると非常に感傷的なところにいくわけですよね。そういったことが、人間関係においても常に見いだせるというか。とくに映画っていう表現って、文章とかと違って言葉で解説できないので、どうしても画で見せていかなきゃいけないっていう。これもたまに喩えで使うんですけど、たとえば、海があって、波が穏やかにたゆたっている状態があって、それをもし自分が見てたら、久しぶりに海を見てるし、飽きずにしばらく眺めてるかもしれない。でも、いずれ飽きてくるかもしれない。そこにたとえば、一個の麦わら帽子が浮かんでいると、たぶんそれを追っかけちゃう。波は放っておいて、そのことを追いかけるでしょう。そのうち見えなくなったり、またぽっかり浮かんできたりして、そうすると、なんかそれを追っかけながら、自分のなかできっとそれを、いろんな空想や喩えを、無意識にやるんだと思うんですよ。それを人に置き換えてみたり、だから急に見えなくなると「あっ」と思ったり、麦わら帽子が沈んでるだけだから誰も困んないわけですけど、いなくなられると「ああっ」てちょっと心配になったり。ただの麦わら帽子に対して。そのうち麦わら帽子が、もう一個突然現れて、ふたつになる。そうすると、麦わら帽子がお互い近づいたり離れたりを、なんとなくずっと眺めるんだと思うんですよ。もうこれだけで映画なんですよね。つまり人間ですらなくても映画になっていく。見えない引力と斥力、偶然の軌跡、人と人が偶然に出会い、言葉を交わし、そして離れていくようなことの軌跡を描くだけで、非常にスイートなところが描けるっていう・・・。それは必ずしも恋人同士でなくても可能で、たとえば『花とアリス』だと、それをあえて父親と娘って関係で意図的にやってみた。つまり、親子関係のところにラブストーリーのパターンを持ちこんで描くとどういうふうになるんだろうっていう実験だったんですね。なぜかそれがやりたくなって。そこにこう、親子という近いようで遠いような関係を置くというか。
もうひとつ、主人公にいま起きていることをどこまで自覚させるのかってまたあって。ぼくのスタイルは、意外とそこをできるだけ本人に自覚させない、自覚しない瞬間を撮りたいってのが多いんです。現実には、本人が、自分すごくかわいそうなところにいるなって自覚しちゃうこともあると思うんですけどね。だけど僕はそこじゃないところを描く。さっきの海の上の麦わら帽子じゃないですけど、お客さんが見て、そのふたつの関係を見ていろんなことを想像してしまうようなところを描きたい。それができないと自分のなかであんまりぴんとこない。そこがうまく描けたりすると、自分の中で「おおっ」ていう。その正体がなんなのかわからないけれど、どうもここが自分の、自分にヒットするポイントがありそうだなみたいな、それ自体が常に実験で手探りなんです。この男の子はこういう感情で彼女はこういう感情だから、こうでこうでってのは意外と興味ないんです。逆に、それはとても煩わしいことで、あまり使いたくないんですよね。この子は今こういう心情だからっていう展開はしたくない。

編集部 それは脚本? あるいはテキストにしているんですか。

岩井 頭の中でこそこそやったり、ストーリーボードにしてみたり。ストーリーボードで意外とそういうのを作りやすくて、人物を思いっきり小さく描いておくとそれを見る人が感情移入できないので、そうすると本当に遠景からみてる、景観のなかの人間関係だけで麦わら帽子ができる。

編集部 なるほど。役者の方もある程度自分で想起していかないといけないですね。

岩井 『花とアリス』の父親と娘のシーンなんて、絵コンテ自体がそういう絵コンテでしたから。顔のアップなんて一切出てこないっていう。父親の顔すら描いてなくて、ほとんど二人の後ろ姿だけで描いていって。役者にも見る側にも、いろいろ想起させていいという・・・。ただまあ、この方法にもひとつ問題があって、たまに感情がつながったのかわかんないとこがあるんですよ(笑)。

編集部 現場でってことですか。

岩井  物語として。それを裏打ちするために小説書くんですよね。登場人物の主観で書き直して、ちゃんと成立してるのかどうか見たいから。感覚的に進めすぎると、実は全然成立してないことが起こっているのに気づかなかったりする。この人がもしこのモチベーションでここまで来てたら、これ起こんないよねっていうのが、現場で発生しちゃうんですよ。ちょっと待てよ、成り立ってないじゃんってことが、起こり得るんですよね。だから、台本書いたりとか、小説とか書いて、内面心理とかも一応裏付けとかないとは考えています。ぼくの気持ち的には、なんだか遠景で紙芝居みたいな感じで、それでいて人と人の関係性が描けたら、それが一番美しいんだけどなっていう、ひとつの理想形はあるんですが。

編集部 演出上で、そういった監督が見てる役者同士の、もしかしたら監督だけが見えてるアルゴリズムみたいな、ここが面白いな、この関係が、っていうそれは、役者さんとか、現場のスタッフには、しっかり伝えるんですか。

岩井 いや、言わないですね。

編集部 100%言わない?

岩井 自分だけで見えてることですね。それを意識されても困りますから。

編集部 意識しないように意識してくれってことじゃなくて、もう全然言わないわけですね。なんにも意識させないわけですね。

岩井 そういうコミュニケーションはとらないですね。こういうふうにしていきたいんだっていうのは、あんまり言わない。ただそれは演じてもらう上で、こういうインプットをしとくと、この人はこう動きやすいっていうことは言います。でも全体像として実はこういうことが描きたくてっていうのは、言わない。

編集部 たとえば、蒼井優さんは、もうほんとに長年一緒にやってきて、それこそ発掘されたのも岩井さんですよね。たとえば、今回の『ヴァンパイア』とかでも、狙いとかあんまり言わないんですか。

岩井 ぜんぜん言わないですね。役者自身が、台本やストーリーボードから想起して自分なりに構築していく。そこを監督やカメラとの間で、コンセンサス取る必要ないんじゃないかと思っている。特に言葉で「こういうことだよね」って約束することほど不毛なことはなくて、たとえば、自分がこうやってしゃべってるときに、「岩井さんってこういう癖ありますよね」って言われたら「えっ」ってなっちゃって、気になって意識しちゃうじゃないですか。だから、役者が自然に演技できてるときって、その人のふるまいとかパターンをあんまり言いたくない。むしろ、次に起こることにこっちはいろんなことを用意して。役者の演技見ながら、小道具の子とかに、ちょっとコーヒー用意しといて、とか、本1冊持ってきてとか言って、一回カメラテスト終わったら、役者に「ちょっと本置いとくからこれ読んでくれ」で、「じゃ、もう一回いきます」みたいな感じで作っていくことが多い。その本が何のために必要なのかとかじゃなくて、たぶん役者もそれを触って、そこでまた自分で足していってというふうになって、なんかそのくらいがちょうどいい関係な気がする。

編集部 永遠性というか時間への憧憬を、岩井作品から強く感じるのですが。ドビュッシーがすっと流れ始めて、空気が身体の中を通過していっちゃう感じというか・・・。

岩井 永遠とかノスタルジーに対する特権は、普通は若い人たちのもので。つまり、若い人たちは、肉体と精神が同時に、芽吹くわけですよね。

編集部 芽吹く。

岩井 子ども時代になかったものが、ノスタルジーなんか感じなかったものにノスタルジーを感じるようになるってことで何かが芽吹いて、それに驚き、そこに関心を持っているような。で、そういう時期を過ぎても、なおまだ人は生きていて。さらにまだ生きていて、まだ生きていて。昔、”Don't trust over thirty”なんて歌っていたロックバンドが、今60代とかになってまだ現役で歌ってたりして(笑)。

編集部 芽吹く瞬間。よく考えたら、すべての作品で監督は、その瞬間を描いていらっしゃいますね。『スワロウテイル』でも『リリイ・シュシュのすべて』でも『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』でも。その芽吹く瞬間って、無垢にはぐくまれた小さな自我が、社会性や性と向かい合う初めての瞬間のことなのかも知れないですね。ぼくという概念が、仲間とかを意識し始める気持ちと、エロ、この女の子といい関係になりたい、この女の子ってドキドキするなっていうのと。そういう意味ではエゴの後に生まれるのって、エロとエコの気持ち、どっちが先なんですかね。

岩井 うーん、どっちが先かなー。

編集部 岩井作品の中では、異性への気持ちと仲間への帰属心が、結構同時に芽吹いてるなって感じますね。

岩井 個人体験でいうと、女性に関心を持ったのと、友達と一緒にいたいという想いが芽吹いたのは同じ頃でしたね。

編集部 『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』で言うと、山崎裕太が、夏の花火を、奥菜恵と、あるいは男友達と、どっちと一緒に見るかっていう問題。普通、それは男友達と見なきゃアウトですよね、田舎での夏は。でも奥菜恵といるって選んだ、というか運命が選んだ部分が大きいんだけど、なんかあの感じとか完全に、エコとエロが溶けてますよね。むしろ、自意識なんてものは運命を前に消滅しちゃうようなはかない美しさ。でもその中にぱっと戻ってくる自意識。それは昇華されていて、本当にきもちいいエゴなんですよ。
岩井 ほんとにこう、ぼくにとっても思春期っていうのはいろんな意味で衝撃的な時期だったんです。ずっと、見えないものを探していたような気がするし、そういうものを今でも探しているんだと思うんですよ。物語のストーリーラインとは別に、その見えないものとか溶けていくものをもし観客と共有できているのであれば、まさにそこが一番やりたかったことですよね。ただそれは裏を返すと非常に危ういことで、見る人に捕まえきられたくないっていうところもあるんですよ。そういうのって、捕まえたら終わってしまうようなものだから。

編集部 捕まえられたくない。

岩井 そう。そして自分も、それを捕まえきりたくもないし。

編集部 捕まえられたくないし、捕まえきりたくない。

岩井 うん、なんかそれはやっぱり永遠に捕まえられないものだからこそ、それを追いかけたいものだと思うんですよ。ちょっと論理的には矛盾しているんですけど。でも本当にそういうものだと想う。だからまあ、『リリイ・シュシュのすべて』なんかは、見えないものに「エーテル」なんてわざわざ名前までつけて、どちらかというとそういうほうにいってしまう人間関係を描いたんだと思う。

編集部 見えないものに向かわせていく、見えない装置。

岩井 物語の中では、現実の世界が広くなればなるほど、エーテルにすがっていくわけですけど、ところがエーテルにすがった者たちが、最後にコンサート会場で集まると非常に殺伐としていて。おかしなことに、喧嘩になっている。非常に心狭い人たちがそこにいたっていう。そういう現実も描いていて、こういうものにすがったからって、人間がより高い高みに行けるわけじゃないっていう。どっかでオウム真理教とかもあったし、そういう物質的なものから透明なものを追い求めるだけでも、決して人を幸せにするものでもないし。自分たちがやってることに対する反省も込めて、ちょっとアイロニックに描いたっていうのがこの作品だったと思う。

編集部 今朝改めて見直したんですけど、バスハイジャック、援助交際やいじめなど、そのときの時代の空気がかなり入っていたのに、まったく古びてないですね。すごいと思いました。いまの中学生にほんとに見てほしい。

岩井 そうですね。やっぱりその時代は、酒鬼薔薇事件とかその前の宮崎事件とか、いろいろありましたよね。そういう空気に対するアンサーには自然になっていた。でも本質的には、今も昔も、なにも変わってないのかも知れない。表出するものがなにかというだけで。そんな中でぼくは真剣に「学校って必要なのかな」って考えたりします。もしかしたら学校は必要なのだけど、少なくともここまで学年別とか受験とか画一的にならなくてもいいはずです。一方で、たとえば中国の田舎とかカンボジアとかに行くと、そういう場所の子どもに触れあったりできると、驚愕させられますよ、子どもの天然の底抜けな魅力に。天然って言い方がおかしくて、子どもってもともと天然なはずなのに、日本となにが違うんだろうって考えると、彼らの場合、自分で考えて好奇心があるものを勝手に学んで、勝手に怪我したりしながら、勝手に走りまわっている。じゃあ同じように生命力が宿る細胞をもっているはずの、ぼくたちをこういう風にしてしまうこの装置はなんなんだと。そういう装置に、いとも簡単にふるまいを変えられてしまう、ぼくたちってなんなんだろう、この細胞はなんなんだろうと。