タイトル
人を魅了する技術
著者 / 話者

~ まさか!と本質を行き来する

対談 Dialogue

編集部
本日は東京藝術大学の宮田亮平学長と、京都造形芸術大学の秋元康副学長をお招きして、「人を魅きつける世界のつくりかた」についてお話していただきます。
秋元康(以下、秋元)
はじめまして。本日は、よろしくお願いいたします。さっそくですが、宮田学長の本をあらためて読ませていただきました。本当に紆余曲折を経ながらも、多くの作品を国内外で生み出していらっしゃいますが、まずは佐渡島でお生まれになったこと、そこで体験された幼少期が、宮田さんのすべての創造性の原点になっているような印象を受けました。金工職人であったお父様、芸術家であったお兄様、佐渡の厳しい自然、色濃い風土、すべてが“作家宮田亮平”に入り込んでますよね。
宮田亮平(以下、宮田)
人生っていろいろな人と出会ったり、時が経つと、どうしても変化していきますよね。でもその変化がわかるのは、生きざまの根底にある、変化していない自分がいるから。そこから客観視しているのです。僕の原点、変わらない自分は、振り返れば佐渡島の自分です。
秋元
東京藝大を卒業されたあとに、ドイツに在外研究員で行かれて、そこで日本人作家としてのアイデンティティを強くされたと。
宮田
そうなんです。佐渡島のことや、幼少期のことなど、もう一度ゼロから考えました。
秋元
原体験をどれだけ見つめられるか、そこに作家性の強さってあると思うんです。僕はなんでも食事にたとえてしまうんですが、「すべての人間の舌はマザーコンプレックスではないか」と。僕たちが、どこかで味噌汁をいただいても「これはしょっぱい」とか「甘い」とか「具が多すぎる」というのは、結局、おふくろの味との比較ですよね。カレーライスでも「これは辛過ぎるよ」とか。それと同じで、生まれ育った環境と、はじめて受ける教育が、僕らの感性にはすごく大事だと思うんです。教育ってあなたが何者であるかを教えてあげて、それを許容しながら選択肢をどう見せてあげるかですよね。
宮田
東京藝大にも、いろんな学生が来て、変化していきます。嬉々として目の前で変化していきますが、ときどき教育機関としてそれは良くないのではと思うときがあります。それは何かというと、変化していくのではなくて、今、秋元さんがおっしゃったみたいに、原点があってそれが増幅していくイメージになって欲しい。急激に変化するということは、前の自分のカラーをなくしていくようなところがあるんです。成長と変化は違うと感じています。さっきお母さんの味という話がありましたよね。あれは、まさしく僕なんかそうですね。僕の色彩感覚とか、まさに子供の時の延長上にあると思います。秋元さんの場合はいかがですか。
秋元
どうなんでしょうか。実は、僕の場合、思春期からずーっと浮遊してきた感じが強いんですよ。まずは中学受験に失敗したんです。それでくやしくて、中高で結構勉強していたのですが。高校2年のときに受験勉強中に聴いていたラジオに自分でも書けるんじゃないかと台本を送ったんですね。始めは、ほんの冗談ですよ。するとそれがするするっと評価されて、次から次へと書いてくれとなって。学生のうちに、いつのまにかラジオの仕事を複数かかえてやっていたんです。それが今まで続いているという(笑)。
宮田
本当ですか!?
秋元
本当なんです。だから僕は、今でもどこかで自分のことをプロでないと思っているんです。早く受験勉強しなきゃとか、大学に戻って授業を受けなきゃとか、そういう思いがずっと強かったんですよ。そしてなにをやるにしても、いわゆる自分はプロでないという感覚。つまり専門的な知識を学んだのではない「素人の目」こそが、僕なのかも知れません。
宮田
何事も一番大事なのが、新鮮な目で見つめるということ。僕にとって秋元康さんは今一番理想とする芸術家の一人だと感じているんです。今日は午前中に何も予定をいれずに自分を素にして、頭を空っぽの状態にしてお会いするのを楽しみにしてきました。
秋元
とんでもないです。ただ、素人の話でもう少しお話ししますと、今日の対談のテーマである「人を魅きつける」ということは「人を魅了する技法」にすぐれているではなくて、「結果的に」魅力になっているんだと思うんです。たとえば、歌手になりたいと言う人がいっぱいいますけど、なまじうまく歌えちゃうから歌手になれないことの方が多い。なぜなら、うまい人は世の中にいっぱいいますから。そうではなくて、大切なのは、その人だけの人生を投影した声や歌い方の「味」だと思うんですよね。本当に絵がうまくて、写実的に描けてという人はいっぱいいるかもしれないけれども、そうでない何かプラスアルファこそが、クリエイティブなんですよね。
宮田
そうそうそう。うまいだけではだめなんです。実は、僕が藝大受験したときの話ですが、一浪目のときは絶対入れると思っていたんです。自分はうまいなあと思っていた。過信もいいとこだったんですね。もちろん死ぬほどデッサンしたけど。でも、軽く落ちるんです(笑)。あれは僕が写実的技巧などが劣っていたのではなく、きっと僕らしい絵が全然描けていなかったのだと思います。
秋元
率直な質問ですが、デッサンって練習すれば誰でもうまくなるものなんですか。
宮田
ある所までは、なります!
秋元
そうなんですか、なるんですね。
宮田
なるんですよ。訓練というのは恐ろしいもので、必ずなるんですよ。
秋元
子どもの頃に、絵がうまい人とへたな人とが、もうすでに分かれているような気もするんですけど、そんなことはないですか。
宮田
子どもでも、ある種の訓練による差はあるかもしれない。でも誰でもうまくなるんですよ。ところが、藝大の中には、うまい、へたは、ないですね。ベースの上にある個性の方が大事になってくる。
秋元
僕の教えている京都造形芸術大学でやりたかったテーマは「日本一へたな絵コンクール」なんです。それはなぜかというと「へたとは何か」ということを知りたいから。そこで絵画の教授陣に見てもらって、へたな理由をみんなの前で議論していただこうじゃないか、と。まずへたであれば、誰もが応募できますよね。だけど、この企画は逆説的なんです。「何をもって、へた、うまいがあるのか」ということは実はあいまいだと思っているんですよ、僕は。そんなことは芸術にとっては関係ないんだよということをやりたかったんです。でも、この企画は没でした(笑)。
宮田
おもしろい! やりませんか、二人で(笑)。よく世の中で評論している人たちって、もったいぶっていろいろなことをしゃべっているじゃないですか。でも、あの人たちは描かないんですよね。
秋元
そうですよね。だから「へたとは何か」を論じてもらうことで「うまいとは何か」がまったく意味ないことを証明しようと。たとえば、この目の前の氷と水が入ったコップを、写真で撮ったように写実的に描ける人がいる。氷だけのシズルというか、氷のカラコロンという音がもう今にも聴こえてきそうな絵を描く人もいる。でも、ゆがんでてなんだか変だったり、あるいはわけの分からない形の、だけど絶対忘れられないかたちのコップを描く人がいる。どれがへたなのかというのは、もう、最終的には好みになってしまうと思うんですよね。
宮田
そうですよね。
秋元
でも、先生がおっしゃるように、技術的なことでまず基礎を押さえて、全部できるようになってから、個性を身につけるというのがやはり一番いい道順なのでしょうか。
宮田
基礎を磨くということは、共通言語がわりに描けるという意味で、ある程度やっておいても損ではないです。だけど、それに縛られるのがだめなんです。いわゆるオーソドックスに優秀な子っていますよね。そういう、どんな課題でも器用に綺麗にこなすような子に限って、成長に苦しむことが多い。
秋元
わかります、すごく。歌手でも、素人からデビューしたアイドルでも、トレーニングして、だんだん周りに評価されて、自分がうまいと気づいたところで、急に輝きを失うんですよね。自分の魅力を客観視できすぎちゃうと、その子はもう光らない。
宮田
(テーブルを叩いて)いやぁ、まさに、その通り!
秋元
たとえば、歌がうまいと自分で思っている子の歌はおもしろくないんですよね。だから、なんでも1位、1位、1位で熟練されたすばらしい人は、それだけで予定調和になってしまうのかもしれないですよね。
宮田
だからこそ学生は失敗が大事なんです。教授には失敗の話をするのが学生にとって一番いい教育になるから、してくださいってお願いしています。僕が今でも思うのは、僕自身がまったく完成されていないということ。もしかしたら秋元さんもそうだと思うんですけど。ざっくばらんに言うならば、まだあれもやりたいし、これもやりたいというのがあって、今の自分を通過したい。
秋元
僕も学生にはいつも、素人の新鮮な目を持ってくださいと言っています。放送作家でも、映画をつくるにしても、作詞でも、僕は何も専門的には勉強したことがないので、かえって好きに書けるんですよ。たとえば、最近の作詞家になりたい人たちは、作詞教室に通って過去のヒットを勉強したりして、過度に学び過ぎている。本当は「人」を見なきゃいけないのに、「技法」ばかり見ている。基本はあるにこしたことはないと思うけれど、遊び心とか、壊すということが、必ず中心になければいけない。知ったようなプロはどうしてもまとめようとするから、どっちにしろ、プロの手垢がついている。でも素人がパッと書いたものには、勝てないんですよ。
宮田
そうだろうな、そうだろうな。
編集部
素人のほうが強いというお話、すごくおもしろいんですけど。でも日本一の量を書いている秋元康が「意識的な素人返り」をされたりするんですか。
秋元
ありますよ。うまく書こうとしていると全然書けない。心のままに書けている時は、あ、これは行けるなと思う。
宮田
なるほど~。僕ね、一度聞きたかったんですけどね。美空ひばりさんの「川の流れのように」の仕事のときや、あるいはAKB48の仕事のとき、そういう全く違うものってどのような気持ちでつくっているんですか。
秋元
あらためて今考えなおしますと、表現方法としては案外一緒のような気がするんです。料理のジャンルが違うだけで、料理の原理は一緒。ただ、そのときに見ている自分の人生観が主体にはなっているような気がします。「川の流れのように」を書いたとき、僕はNYに一年余り住んでいたんですけど、今思うとその人生のタイミングで感じていたことがすごく表現されていると思うんです。で、今はAKB。この中にも実は隠れメッセージがあって、ポップな恋の歌の中に『命の使い道』なんて歌詞をすっと入れています。それがどこかで若いひとたちが「命の使い道って考えなきゃな」ってなんとなくでいいから引っかかってほしい。
宮田
ああ、知らないうちにとか、数年経ってからとか、気づかされるメッセージが入っているんですね。
編集部
今の時代と表現の関係についてちょっと具体的に質問を。テクノロジーが大きく動くときに、アートやエンターテインメントは、手法主体に動きがちな気もするのですが、そのときに創造性の根源自体は変わるのでしょうか。
秋元
いや、何も変わらないでしょう。本当に、何も変わらないと思うんですよ。僕がよく例に上げるのは、時代というのはケーキみたいなものだと。僕のころは、ケーキの王様はショートケーキでしょう。つまりイチゴがトッピングされているケーキ。それからグレープフルーツが輸入されたり、キウイが輸入されたり、今だったらマンゴー。でも、ベースにあるスポンジは変わらないんですよね。
また、僕が中学生のときは、女の子にラブレターを出して、返事をポストの前で待っていた時代。それがやがて電話のコールバックを待つようになり、ポケベルのコールバックを待つようになり、今だったらメールじゃないですか? そこの上の部分だけは変わっているけれど、その本質はまったく変わらない。僕の時代で言えば、たとえば五木寛之の『青春の門』とか、石川達三とかをむさぼるように読んでいたわけなんですが、それが今だったら、村上春樹かもしれないし。僕らの頃の吉田拓郎だったり井上陽水だったり。あるいはビートルズだったり、ツェッペリンだったりする。それが今ではミスチルかもしれないし。ファッションで言えばVANのアイビーだったけれど、今の子たちは、それがストリートファッション。もうベースは同じ。
だからよく50代半ばにして何で10代の気持ちの詞が書けるんですかって聞かれますけれど、変わらないもの。そのときに、あ、あのときはポストの前で僕は待っていたけど、今の子は携帯の前で待ってるんだろう。だったら「着信のドレイ」っていうタイトルにするかなとか。
編集部
よく秋元さんが言うのは「まさか!の力」、つまり「予定調和を壊す」ということです。かたや、さっきのスポンジケーキの例えは、人間の本質を見つめるということですよね。予定調和を壊すには変化が必要で、一方で、本質は変わらないですよね。何かそこのぶつかり合いみたいなところにすごい興味があって、それは芸術も似ていて、本質と時代らしさ、ケーキの上と下に近いのかもしれないですが、その関係はどのように考えればいいのでしょうか。
秋元
例えば、若い女の子と話していると「私って変わってる人なんです」と言う子がいますよね。そういう子って絶対変わっていないんです。そういうことを言う子に限って、ね。「新しいことをやるんです」とか、「自分は改革をしているんです」と言う人ほどしていない。宮田学長じゃないけれども、自分の大もとを見ている人こそ、そこから離れていろんなことができる。
よくないのは、「自分」という「ものの見方」を持たない人が、自分は予定調和を壊してます、というケース。例えば、こういうキャンバスがあったら穴を開けるんですとか、やったとしますよね。すると、穴を開けるということが奇をてらったことに終わってしまって、ベースがないからお里が知れちゃうんだと思う。僕らがものを作る上では、変わらないものも大事にしなきゃいけないし、変わらなきゃいけないし。問題は軸足がぶれていないかどうかだと思う。
宮田
本質も新しさも大事ですが、僕は、あんまり分けて考えたことは無いです。直感でとらえるんですよ。そうすると、案外ぶれていないんです。その現象の見方、つまり視覚とか、聴覚とか、嗅覚とか、そういう基盤の中で、やっぱり選んでいる。まず何かありきというのを考えるとそれに近づかなくてはならないから、その時点でもう澄んでいないんですね。たとえば予定表なんて、それは未来のことを書いているのに、明日は何が来るか分からないからいいのに、明日の予定を一所懸命書き込もうとしますよね。するともう、新しい出会いがなくなるような狭い世界に行こうとしている。あくまでもきっかけぐらいにしておいて、現象が変わったら、全然それに合わせていけばいいし。たまたま初動ぐらいは調整するけど、あとは結構違うことをやっているんです。
秋元
学長は芸術家ですし、それを無意識でやっているんだと思うんですよね。
宮田
そうね。それはあるな。あと、流行りのもの。どうせあいつは流行りのものをやっているんだって、言う人がよくいますが、あれはどうなんでしょうか。たとえば、「今の若者は」という言い方がありますよね。「学長として、今の若者はどう思いますか」などと聞かれると、ムッとしてしまいます。「あなた、何て質問しているの。何を質問したいの?」って。その時代の中で生きていて、自然な形で出てきたのが今の若者であって、「変わりませんよ」って。
秋元
そうですよね。変わらない、本当に変わらないと思います。
宮田
表現する方法は変わっているかもしれませんが、本質は全然変わっていません。
編集部
この雑誌は、本号からテーマを【恋する芸術と科学】として、ひとの持つ「芸術的な感覚」と「理性的な感覚」の衝突について考えています。その芸術的な感覚なんですが、もともと芸術というものは人間全員が持っている感覚のはずなのに、「芸術」や「美術」みたいな言葉で言うと、美術館だけにあるもの、美大の人だけが持っているもので、一般じゃない特殊ジャンルみたいな響きが、この国には特にありますよね。
秋元
それこそ、美術は美術館から出て行くべきなんですよ。街や道に出て行かなければならない。先日『美術手帖』を読んでいて、こういうものを一般のひとが読んでこそ面白いと思いました。だからこの前『美術手帖』にAKB48を出させていただきまして、美術に興味のないAKB48のファンがそういう文化に触れて、なにかが起きたらおもしろいなと思って。日本は、そういう間口をどんどん作っていけばいいと思います。
宮田
芸術って堅苦しいことではない。秋元さんが例えに出された「食」もそうですし、お茶の文化なんてそうですよね。お茶といえば、いつでも飲む身近なものです。その茶に利休は宇宙を見た。その目線が芸術であって、でも高尚なところに行ってはいけない。
編集部
さきほどの本質と変化の議論にも少しかかわってきますが、「今この瞬間に時代に愛されるもの」と「歴史に愛されるもの」とは、一体何が違うんでしょうか。
宮田
理想的には何も違ってほしくないですね。両方、正義。
秋元
それはそうですよね。今愛せるものをつくり、その継続が結局は20年後、30年後、100年後、200年後にも愛されるわけだから。モーツアルトは宮廷のヒット作曲家だったわけで、それがクラシックになる。ただ一方で、僕自身に関して思うのは、自分は「来年まで流行るレストランをお台場につくってくれ」って頼まれたら、超満員にする自信はあるんです。だけど「50年後、100年後続いているそば屋とかうなぎ屋をつくれ」と言われても僕にはつくれない。僕は、そういう一朝一夕にはできないものに、猛烈な嫉妬を感じる。なぜなら自分が、その瞬間、その瞬間の刹那的な仕事をしているから。そういう継続しているものに対する憧れが人一倍あるんです。だから僕は職人芸や骨董とか、歴史あるものに魅了されてしまう。
宮田
その反動なのでしょうか。そういうものが好きだからこそ、今の瞬間をポーンとはじける目線が持てる。
秋元
そうですね。だから僕はきっと伝統工芸をやっていたら、今というものに嫉妬を覚えたかも知れませんしね。
宮田
やっぱりね、秋元康さんを飴に例えると、金太郎飴か金平糖かと言ったら、まさしく金平糖なんですよ。芯は本質なんだけど、何かおもしろいかたちを、丸かったり、とんがってたり、同時に探しているんです。金太郎飴だったらいつも同じだけど、金平糖は形ばらばら。
秋元
金平糖ですか(笑)。
宮田
それと、新しいものというのは、無からは生まれていないということ。
秋元
はい、そうですね。まさにその感覚ですね。
宮田
何か新しいデザインを考えたときに、頭で考えていては、ろくなものはできない。時間が詰まっていたりすると、何か書いたりして無理矢理出したりするけれど、そうではないんです。後で見ると全然良くない。それよりも、自分が何を見つめようとしているか、その何かが分からないと。そして、先人は先人の中での最高を必ずやっているし、今は今の中で誰かがやっている。
秋元
まさに宮田学長がおっしゃるように、僕は作詞を始めたときも本当に素人だったから、おニャン子でも、とんねるずでも「自分は新しいものをつくっている」と信じていたんです。でも、後で考えてみると、あ、とんねるずでやって僕が新しいと思っていたことは、全部、青島幸男さんがクレージーキャッツでやっていたということになってくるわけです。僕がやっていることは、先人たちがやっているんです。
宮田
だから先ほどの話の中で、今やっていることがすぐ消えるかどうかでは、流行は一見消えているみたいだけれど、実は消えていない。形は変えているけれども、消えていないんです。それで、また別の時代が同じ本質を要求してくるし、渇望してくるときに、そのときどきの寵児が生まれてくる。その表現は少し違うかもしれない。でもケーキのスポンジは変わっていないのかもしれませんね。
秋元
まったくそのとおりですね。