タイトル
感情を微分するときに世界が動きだす
著者 / 話者

なんなんだろう。この音楽的で、文学的で、振り回す感じで、優しくて、エゴイスティックで、風が鳴っていて、揺らぎがあって、きちっと決まってるものはなにもないんだけども、すうっとすっ飛んでく感じは、なんなんだろう。

登場人物で女子が多いのは、描いてて楽しいからです。

僕は、ピュアな人物像みたいなこだわりは、むしろ逆で、どちらかというと、ピュアという形容詞でくくられてるものとかも何か最初からまゆつばで、何かピュアピュアしたものは、どんど焼きみたく、神社で燃やして貰った方がいいと思っている。小さい子供とかは、何だかんが言って大人の顔色とかちょっとうかがってるの見て、ああこの感覚ってリアルで、「おっ、ピュアじゃない。いいぞ、いいぞ」って思うんで、僕ピュアさは、全然価値を認めたくないんです。たとえば、おじいさんがおじいさんらしく、おばあさんがおばあさんらしく話すのにも、結構約束事っていうか、何かそういうもんだと思って描かれているから、大概いやです。漫画では、いつも「じゃよ」って言うけど、「じゃよ」って話すおじいさん、聞いたことないですよね。自分が子供のとき、やっぱ子供扱いされたら腹立つし、年寄りになったら、年寄り扱いされたら腹が立つんじゃないかって。そういう気持ちがあります。あと、世の中には、好ましい人と好ましくない人がいて、好ましい人がひとりも出てこないと、やっぱりいやになるんですけども、好ましい人ばかりあんまり出てくると最高につまらなくなる。自分勝手で変な人が出てきたほうが世界が楽しくなる。

機材の制約がないのが漫画の利点のひとつなので、カメラワークは使ったほうがいいかなと思っています。逆光なのにアイリスが美しく絞れれば、映像表現では不可能な表現が漫画にはできる。機材の制約がないことが漫画らしい記号にだんだん変化していく。映画的な表現を形成するっていうのもあれば、いきなりそれをバーッて墨こぼすみたいな、 漫画っぽい表現を次のコマで出す。漫画は、映画も漫画も、どっちもできる。

作品について語ることは、その作品を描くこととはやっぱり全然別な次元です。僕は作家だから、作品を描くことのほうが偉くて、それについてうまい説明をするっていうことは、最高にうまくいっても、作品を描くこととよりは劣る。こう聞かれたら、この絵はこうだよってなるべく丁寧に答えるけど、その絵を描いているときにはそういうこと考えていないんでね。批評の値打ちっていうのは、そういう作品についてうまく語ることじゃなくて、何かこう違う知見を開いたりすることじゃないでしょうか。

個人の欲と社会の欲という点で言うと、やっぱりそれはつながっていて、社会を細かく描こうとしなくても、人を描けば社会がちゃんと背景としてにじみ出てくる。

やっぱり食べるシーンは大事だから入れようとは思ってたんですけど、技術的にこう描くと、うまそうに食ってるように見えるみたいのがあるわけでもないし。食べ物の漫画に出てくる食べ物とかみたいに写実的に描こうとすればするほど、仕上げが細かくなって、かえってなんか食品サンプルみたいだなと思って。あんまり出来上がりを精密に描写しなくてもいいのかなみたいな判断はしている。というか、あんまり僕、精巧に描けないんです(笑)。昔『ユリイカ』の大友克洋の特集号が出た中で、大友克洋の画力を褒めるときに、誰かが、直径5ミリの絵皿の上にカブ漬けのディテイルとかを大友克洋は描き分けられるってのが書いてあって、 そんな画力がない僕はどうしたらいいかと考えて、結局「カブ!」ってセリフで言えばいいんじゃないかと。さらに「何か裏の畑で余ってたからもらってきたよ」とか言ったりして、土でもつけてたらかなりカブらしい感じのカブになるぞと(笑)。

ちゃんとすね毛が生えてホルモンが感じられる大人のおっさんを描きたいっていうのはあった。いわゆる漫画のステレオタイプにはないし。触感みたいなのも大事で、おっさんだけでなく女の子も、3コマも歯を磨いてんだみたいな。なぜか磨きまくる。でも普通に、洗いものの合間にぺっと口の中の歯磨き粉を捨てる。リアリティをどう出すか。同窓会とかにしても、僕はそういうのの詰まらなさもよく知っているから、かなり端っこから見たおもしろさがあると思う。セリフの推敲はすごくします。ネームできて、原稿を描いて入稿するまでに、大体3回も4回も、てにをは削ったり。もう削れないと思ってからさらに2割は削れるとか言って。削りきったものからは想像力が生まれる。

何かこうシーンがばあっと思い浮かぶときが一番いい。そういう発想でできたときが一番強い。

社会に対する主張っていうのは、僕は漫画の中で描きたくない、どちらかといえば。出ちゃうのはしょうがないんだけど。何か、主張するために漫画を描くようになるのは、だめ。ただ、描き進める上で、いいよね、いいよねっていう読者の期待が集まってくると、何か、やっぱりどんどん自分の身の回りとか、自分の描くものがどんどん狭まっていくから。そうしないように、しないように。

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100年、200年じゃ、人間なんて変わんないんじゃないですかね。エゴひとつとっても、単に利己的な行為ってことと、利己的な自我を持っていてそれに忠実に生きていくってのは違う。だから人間が利己的に自分で考えて生きるようになることは、一般論としては僕はいいことだと思う。共同体の和を乱すとか、空気が読めてないとか、人の気持ちを考えろっていうのは、当然出てくる軋轢だから、迷惑が見受けられたなと思ったら、「俺はお前のそういうとこが気に入らないんだよ」と言って大いにけんかをすればいい。エゴが増えるっていうことは、むしろ世界をおもしろくするんじゃないかと。

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戦後高度成長に入って、だんだん格差がなくなってきて、そのせいで教養とか文化というのは、テレビや映画の普及で、かなり雑に一般的に拡散した。でも逆に、ハイカルチャーで、ある種閉じていて本当に優れたものっていうのは、もう今に伝わらないものが多くなったかもしれない。どっちがいいかっていうのはわかりませんね。それもやっぱ500年、1,000年先まで考えたら、どっちでもいいようなことなのかもしれないし。なるようにしかならないし。

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漫画を描くときってのは、僕の場合、ただの追憶なんですけれども。だから、写真を撮ってきて、それをトレースするんじゃなくて、何か、電柱っていうのはこういう形だなっていうのを思い出しながら描くほうが、やっぱり描いてて楽しい。正確に描けてるとかはどうでもとくて、頭の中の僕の「電柱ぽさ」っていうのを絵にしたい。

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カット割で一秒、一秒、って割ってて、そしていきなり100年経過、みたいな。そういうのが漫画だと思う。

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わりとオタクらしい退屈な会話というのは、「あれはあれですよね。AはBですよね」「そうですよね」っていう定義を確認して終わっちゃう。でも何か、そういうあいさつみたいなもんだと思えば、そういうのが日常の中で別に珍しくもないんですけども、そのラベルからこぼれ落ちるものって何かなとなると、もっと感情的な、情緒的な、「Aは、あれはいいものでさ、あれは気持ちいいんだけど、なんなんだろう、あの感覚」とか。普段の会話からこぼれ落ちちゃうものは、そんなことだったりする。そういうものは拾いたいと考えています。

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映画は、監督以外に、役者やカメラマンやら照明さんやら、大勢で作品をつくる。漫画は逆に、個人的に閉じた自意識を肥大化させたもの。

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スコット・マクラウドというアメリカの漫画家が書いた『マンガ学』っていうのがあって、90年代に日本で翻訳が出た。コマとコマがどう飛ぶか、時間を接して飛ぶとか、コマ割りの類型っていうのを細かく分類して、アメリカの漫画と日本の漫画はこういうくせが違うみたいな。そのなかで僕が一番印象的だったのは、絵柄の具体性のレベルによって自意識が投影されるものとされないものの話。つまり、描かれた絵とは、自意識を投影する器なんですね。顔も描き込みすぎると読み手が自分を投影できない、筆数がすくなくて雑に見える方が自分を投影できたりする。例えば、自動車を運転しているときでも、自分の自意識は自動車になってる。サイドミラーどっかこすったら、思わず「イテッ」って言ってしまうのが漫画の身体拡張だし。そのとき写実性が写真まで行っちゃうと、もう固定された写真のイメージが、その日、そのとき、その時間の、その光の、その状態に固定されて、それ以外ではない。すると物語は動き始めない。コマとコマの間においても同様のことが言える。感情の微分、時間の微分じゃないんだけど、つまり飛ばした分だけ読み手の中で補完されていく。

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漫画という物語で、あえて世界を狭めて描いちゃう必要はない。象が出てもいいし、時間が飛んでもいいし。端的に言うと、若者は出てくるけど、大人とか子供が全然出てこないとか、ほかの職業が出てこないとか、ある種の文化的なグループだけを描いたり、そういうのって、描き手と受け手が確実に共感できる心地よい世界なんだろうけれども、何かそれはこう、やっぱり広がってはいかなくて、ぼくは面白くないって思っている。だから、そうじゃないようにはしようってやってます。まだ出してない人とか。まだ行ってない場所、つながってない場所とか、まだ描かれてない時間とかを。