タイトル
エコとエゴとエロのアーキテクチャ
著者 / 話者

編集部

この図は多次元空間を3次元的に考えているんですが、上方向は人類にとってのある種の最適な方向で、個々は人を表しています。それぞれの人は、自分ないしはその集団が目指す山みたいなところを登っているんじゃないかと考えまして、それが今パワーズ オブ テン的な概念で区分けすると、個人や家族、企業、国家単位でもそのどこかの山に何かしら登ろうとしている。それが個々人のものすごいエゴ的な動きで登るのか、あるいは全体の磁場的な働きによるエコ的な動きで登るのか、利己的な遺伝子じゃないですがもっと根源的なリビドーの様な動きで登るのかは混在しているものの、全体としては人類としてでかい山を登ろうとしているんじゃないか。個々人はなんかよくわからない人もいて、何となく山を登っていると。そうしたときに、わりと一つのN次元空間にエコ・エロ・エゴをマッピングできないかと漠と考えてみたんです。

濱野

僕がパッと話を伺ったときに近いなと思ったのは、見田宗介さんの『自我の起原』。簡単に言うと、細胞レベルで利他性というか、結局、自己に閉じているように見えるんだけど、エコ的に絡み合わざるを得ないのだみたいなこと。そういうアプローチは可能だと思いますね。概念的に分けていくと、エゴとエコ、利己性と利他性ははっきり分かれているかもしれないけど、細胞レベル、分子レベルだと変わらない。見田さんよりも更にそれを推し進めたのが、大澤真幸さんで、大澤さんは実は似たスケールの話を書かれている。『身体の比較社会学』は、身体レベルからまさに国家とかのレベルとか宗教とかのレベルまで全部考えるという話になっていて、そんなすごい有名な本ではないんですが、日本の社会学の偉大な達成だと私は勝手に思っているんです。

大澤さんがここで言っている基本的な理論に、人間というのは求心化作用、つまりエゴに向かう、自分を中心に何か物事を捉えたり考えたりする作用と、遠心化作用と言って自分の身体の感覚を延長して考えてしまう作用があります。

遠心化作用は、例えば鞄を持っていてぶつけたときに「イテッ」と何か言っちゃうみたいな、つまり、自分が痛いわけじゃないのに、感情移入して、ミラーニューロンじゃないですけれども、自分もしくは他者も自分と同じことを考えているに違いないとか、自分の身体の感覚を延長して考えてしまう能力、それを遠心化と言っています。
この求心化と遠心化、つまりエコ、エゴという内への思考と外への思考が赤ちゃんの頃からずっとあって、我々はこうした内と外とのバランスの中で存在している。

いろんなエゴがいたときに、何か秩序をつくるときは、何かメタ的な超越点が必要で、これは普通、神様だったり、王様だったり、市長だったりするんですが、この勘違いでもいいから、あいつが守ろうぜと言っているんだから、俺らも守ろうぜと思えるとか、あいつが偉大なんだから俺らもちゃんとしようぜでもいいんですが、そういうふうに思える規模がだんだん人類において拡大してきたよねということを大澤さんは書いていて「第三者の審級」と呼んでいます。はじめはすごく小さな集団レベルだったのが、だんだん国家になって、地球規模になってという話を書いているんだけど、大澤さんの議論は、最終的にそれが行き着き過ぎると、これが抽象化して消えてなくなってしまうというような議論になる。エコを支えるメタ的なレベルが上がっていって、でも、やり過ぎると消えるあるいは磨耗してしまう。これを大澤さんは「現代における第三者の審級は機能不全になっちゃっている」と言っています。これをオウム問題や、9.11、3.11に適用し社会学的な議論を展開されているんですね。

近代社会はエゴが自由で、何をしてもいい。そのかわり責任を持てというか、ある種反省する主体として、みんな自重する能力を持っているという前提がある。

でも、エゴが自重する能力を持つためには、神様というか超越的なポイントが必要で、これが大澤さんなら「第三者の審級」で、エゴを支えるにはメタが必要みたいなことになる。この超越者は基本的にはいないが何となく無理に設定されている感がある。ゲバラやガンジー、ブッシュ、ヒトラー、ムッソリーニといった指導者、大英帝国やローマ帝国、ペルシア帝国といった国家そのものが神様の代わりをしていたり、フジテレビ、朝日新聞、読売新聞、博報堂、電通じゃないですが、マスメディアがそれを支えていたのかもしれない。
そういうメタ的なポイントが社会を支えているという議論をしてきましたが、個人的には、現在はメタなしで可能なんじゃないかと考えています。

今はアーキテクチャを結構いじれるようになってきている。つまり、サイバースペース上であればプログラムで自由に設計できるから、エゴの行動パターンを規定することもできるし、条件反射的なエロ的な行動もコントロールできる。エコがエゴ、エロをコントロールすることでエゴが再帰性を持たなくても秩序を維持できるというようなモデルも考えられるんじゃないかと。現実世界ではすべてに対して行動を物理的に制限できないですが、バーチャルであればプログラム・コードによって制限ができ、エコ・エゴ・エロをシステム的に制御でき得るんですね。

編集部

サイバースペースでは、アーキテクチャを作ることでエコ・エロ・エゴを規定できるということですよね。

濱野

そうですね。メタ的なポイントなしでも、エコそのものからまずいじっていくというタイプの社会理論というか、社会秩序の形成方法みたいな。
社会そのもでいかなくても、少なくとも2ちゃんねるの世界とか、ニコニコ動画の世界とか、数百万人いるレベルの世界はアーキテクチャに規定されて、まさにエロ的にというか、脊髄反射レベルでみんなそのアーキテクチャに従って行動していくうちに、何だかんだでおもしろいものが生まれてということになっている。
エロって、何か暴力的なものをはらむというか、基本的には放ったらかしにすると危険なものだから、家族とか恋愛という領域に押し込めて正しい基準とは合わないエロみたいなものはやっちゃいかんということにして、そのためにはエゴをちゃんと鍛えるというか、あんまりエロのことばかり放ったらかしてみんな勝手に考えちゃいかんということに一応建前として、特に近代以降はこうしていったわけですよね。環境問題やクリエイティブコモンズでもエゴをしっかりするしかないという基本的には発想になるし、エゴをいかに強めて、エコを救い、エロを抑えるかというのが基本的な今までの社会秩序だったと思うんですが、メタ的なポイントなしにアーキテクチャで規定してあげることで、この3つをコントロールすることも可能だと思います。

編集部

ある種のメタ化したレベル、超越したレベルというのは、管理者にとっては都合がいいわけで、管理者の立場としては、エコということを牛耳っていることが論理的にも倫理的にも正しいみたいなことの論理が本当はおかしいというのが僕は感覚的におかしいし、つまらないというのはわかる。そのときに、エゴとエロで自律的に何か振る舞いを野放しにしてうまくいくのかという問題のときに、ある種の知的で全体も見渡せる個みたいなものを信じるというか、性善説みたいな部分も必要になってくると思いますが、このあたりはどうお考えですか?ネット社会に限定される濱野さんだけでなく、何か全体の話も伺いたいなと。

濱野

エゴを放ったらかしても勝手にうまくいくというタイプの議論は、個々人がすごく賢い、ちゃんとした近代的自己というか、自己完結している自己で、放っておいても大丈夫だというタイプの議論になる。僕の考えとしてはそうではなくて、エロむき出しでもうまくいくパターンがあるという話で。ただ、社会全体に当てはめたらどうなるんだ? と言われたら、きついと言えばきついんですが。

ルーマンの社会システム理論だと、もちろんそんな完璧なエゴなんてあり得るわけない。社会学的な議論で言うと、エゴというのは、勝手に一人ひとりわけわからないことを考えてて必ずしも協力するとは限らない。それこそ自然状態じゃないけど、戦い合う可能性もあると。普通というか、ちょっと前までの倫理とか道徳の考えでは、エゴは一人ひとりしっかりしないといけないよねだったんですが、ルーマンは話がかなり急進的ではある。例えば経済システムは恋愛、政治とか全く関係ないし、ここは独立した、モジュール化、カプセル化されているイメージで運営される。特に緊密な連携なしに一応近代社会って回っているよねくらいなところまではルーマンは考えた。じゃ、各システムが何でうまくいっているのかとか、何で全体がうまくいっているかは説明は不可能みたいな、説明放棄的な部分がある。
個々の人たちはなんだかわからない山を登っていて、何となくみんなで大きな山を登っているみたいな。オートポイエーシスって、よくわからないけど、うまくいっている部分がありますよね。
一つひとつのエゴがそんなに社会のことを考えてないのに、社会全体はうまく回っている。これも一人ひとりが細胞レベルと見なせば、何かみんなガチャガチャやっていると、社会という一つの有機体みたいなものが生まれてくるというふうに見えていたわけです。エコシステムってそういうものだと。それでもいいのだという派が、ルーマンですが、その前まではそんなうまい話があるわけないと思われてた。
そして、やっぱり超越的なポイントがどこかにあるんだという話をするのがメタ的論者な訳です。
結局、どこにも超越的なポイントはなく、あれはすべて世の中、底が抜けていたヤベェみたいなタイプの議論っていっぱいあって。どっちかというと、ポストモダン系の議論はこんな話ばかりしていたんですね。浅田彰さんの「クラインの壺」とかも、よくそういう話をしていたし。カントの超越論的な議論は、超越的なポイントがあるかと思うと、延々探して結局ないから、ないという形ではあるみたいな、よくわからない議論を延々していて。こういった議論はものすごくしているが、結局、どこにもそのメタなこの世界の秩序を規定できるポイントはどこにもない。まさにオートポイエーシスであるというところまで来たんですね。大澤さんは、それをもうちょっと普通に、でもメタ的な規定ができるんじゃないのという感じで書かれている。じゃあどうしようかみたいな雰囲気になったと僕は思っています。
繰り返しにはなりますが大澤さんの言うメタ的な超越点なしにでも社会がうまくいくやり方はあるのではないかと。それがまさにオートポイエーシス的な考えに近いですが、エコ・エゴ・エロが相互に作用しあう、循環的、多重作動的なシステムでできうるのではないか。Googleやfacebook、スマートフォンがこれほど普及し、ジャスミン革命やネットアイドル、ソーシャルスーパースターがサイバースペースのアーキテクチャを超えて現実世界と密接に動いている今、オートポイエーシス的な多重作動性はますます進んでいく。ぼくらは何の山か分からない山を、わからないままに、大きな山に向かって登っているんだと思います。