タイトル
愛が資本主義を生み、資本主義が愛を蹴散らした
著者 / 話者

ファッションにおけるエコ性

日本ではバブル経済の後、1990年代初頭から「エコ」という言葉がメディアで使われることが急に増えてきました。このような世の中の変化を、西洋の中世以降のファッション史に当てはめてみると、18世紀後半のフランス宮廷に生きた、国王ルイ16世の妻マリー・アントワネットを思い出します。彼女は、当時のヨーロッパのファッションリーダーとして高価なドレスや宝石などありとあらゆる贅沢をしつくした後に、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の庭園内にプチトリアノン宮という、農村に見立てた小さな宮殿を造りました。ありとあらゆる贅沢をやりつくして、「でも、ちょっと私反省もあるし。やっぱり田舎風な、こんなものも好きなのよ」というような気分でしょうか。景気が悪くなる中、ファッションでは何かを新しいことをアピールしたい。しかしそれがラグジュアリーでなくなったときに、「エコもラグジュアリーなのよ、心のラグジュアリーなのよ」という文脈に転換された。それはそのまま、イコールエゴなのですが。

最近のファッション誌を見ると、例えば今の『VERY』は10年前の『VERY』と全然違う。「何? この貧しい服は」というものがたくさん並んでいます。この変化は一体何なのかということを考えると、確かに人々の経済状況が悪くなったということが大きいのですが、それでもやはり一見貧しげに見えるシンプルな服を、「おしゃれ」だということにしてしまわないといけない業界の事情がある。ただ本当にお金がなくて「こんな服しか着れないのよ」というのをボンと出すよりも、「これが今おしゃれなのよ」という風に、雑誌のちょっとグロッシーな紙面で、シンプルな服を艶やかに見せる。そこには「エロ性」のようなものも生じています。やはり紙質はグロッシーでなければダメです。チラシのような紙に貧しげな服が載っていたら誰も買いませんが、グロッシーな紙に載っていることで、「これも素敵なのかもしれない」という幻想が生まれてしまうのです。

マリー・アントワネットは、ローズ・ベルタンという当時王室御用達でヨーロッパの上流階級で活躍していたデザイナーと、あらゆる豪華なファッションを一緒にやりつくした。結い上げた髪の上に船を載せるという荒唐無稽なことまでやった。そこで、全部やりきったところで、プチトリアノン宮というひなびた場所へ向かうわけです。簡素な田舎風の宮殿をお金をかけて建て、シュミーズドレスという白一色で華美な装飾を一切外したドレスを着て、「私、こんな乳しぼりみたいなこともするのよ」という肖像画を書かせた。その背景には国民の反感を減らすという意図もあったかもしれませんし、マリー・アントワネット自身が、「新しいお楽しみはないかな?」と考えた末に、その境地に行き着いたということもあります。ただ、田舎で何をやるにしても、簡素というところに「これがいいのよ」というおしゃれがなくてはいけない。そこに少しでも異性にも注目してほしいという「エロ」が交じっていたのではないでしょうか。

カサカサになってしまった、エロ性

2000年代の半ば頃から、つい最近まで、ファッション雑誌の表紙や電車の中吊り広告でも「エロ」というワードがよく使われる時代がありました。ありとあらゆるものに「エロ」をつけて、エロカワ、エロワル、エロクール、エロカジ、エロガンスなど、そういった言葉を総称して「エロ変格活用」と呼ばれる事もありました。「エロ」とついてさえいれば雑誌や洋服が売れるような時代。当時露出度の高いファッションで注目を集めていた歌手の倖田來未さんに一番勢いがあった頃です。しかし、そこで彼女を中心としたエロかっこいい女性たちから発信された「エロ」は、それが「セクシー」かというとどうも違う。エロというのは、ただ露出すればいい、心の中身も含めて暴露すればいい、というような「表面的な露出」のようにとられがちですが、本当のセクシーさは、実は隠さないと生まれてこないものです。「もうちょっと踏み込んで見たい」と思わせるような状態がセクシーなのですが、表面的なエロのほうは、「私を見て!」と向こうから押し付けられるようなイメージです。本当にエゴ性が丸出しで、それがセクシーかというとそうではない。そこに異性の視線があるのかどうかも分からない。どちらかといえば、当時のエロいファッションは、異性というよりもまず同性にとても支持を得ていたのが本当の構図だと思うんです。

同性に対して、「私はこんなに自分のことをあからさまにできるわよ。私はエロい女ということを全然恥ずかしいと思っていないわよ」という姿勢、それが格好いいという態度が、その頃生まれたのではないか。例えば、同時期に“トータルビューティーアドバイザー”として胸元を強調したドレスを着て登場し、様々なメディアで取り上げられていたタレントユニット「叶姉妹」の発言やライフスタイルに対する評価が高かったのもそこにあります。叶恭子さんが2006年に出版した『3P トリオリズム』で赤裸々に書いているのは、「お金とセックスが大好きで、メンズも大勢はべらせていて、あんなことやこんなことまでやっているのよ」という内容です。それを支持したのは同性でした。叶恭子さんのことを「アニキ」と呼び、同姓が恋慕するような構図がありました。そんな状況について男性に意見を聞いてみると、「ちょっと… 僕はごめんだね」のような反応がほとんど。当時、叶姉妹を追っていたのはおそらく女性ばかりですね。「セックスが好き、金が好き」という今まで表立って女性が言えなかったことをバンと晒した彼女達の姿勢は、とても潔くて、かっこ良くて、憧れるに値するものだという空気が、ちょうど90年代の終わりぐらいから2000年代前半にかけて出てきた。しかし、そのエロ文化に男の生々しい気配はありませんでした。叶姉妹の周りには何人もの男がいて、彼らの多くは外国人だとほのめかされてはいますが、具体的にその男像が見えるわけではない。倖田來未さんも結婚してから落ち着いてしまった。女性が先導するエロ文化がやや下火になった今、もう「エロ」が当時のようにファッションとして流行する事はないかな、という感じがします。エロをエンターテイメント化した結果、そこから何かが抜け落ちてしまった。エロから香り立ってくるジューシーさや、湿り気のようなものが失われ、カサカサな乾いたエロだけが残りました。

「カワイイ」は「モテない」のか

2000年代の「エロい」という言葉と同じくらい頻繁に、現代のファッションを表す言葉としてメディアで取り上げられている「カワイイ」という言葉があります。ひらひらしたレースやギャザーで装飾された「カワイイ」洋服で着飾る女性が世界中にいて、「カワイイ」はいまや世界共通語になりましたが、その「カワイイ」を華道や茶道のように「道」として突き詰めていく女性は、恋愛という世界からはどんどん離れていく傾向にあります。例えば、日本のポップカルチャー研究家の櫻井孝昌さんが2009年に書いた『世界カワイイ革命』という本には、「カワイイ道」を進むある女性が紹介されています。その女性の彼氏は「カワイイ」が嫌いで、つき合っている時に「カワイイ」ファッションは彼氏に遠慮してできなかったが、彼氏と別れて本来の私が好きな「カワイイ」ができるようになったというエピソードがあり、ここに「カワイイ」の「恋愛不在性」がよく表れています。プリティじゃなくて「カワイイ」。プリティのほうには男受けを狙った媚びがあるのですが、「カワイイ」の方は男性不在で、道として極めようとしている女性にとっては、彼氏はその道を邪魔して足を引っ張る存在でしかない。「カワイイ」も「エロい」と同じように男目線が不在で、同性に支持される世界であり、「カワイイ」の女の人たちは、同じ「カワイイ」サークルで集まって、みんなでファッションを讃えあったり、写真を撮り合ったりという同質的なコミュニティ内だけで盛り上がり、恋愛からはどんどん遠ざかっていくのです。

また、「カワイイ」は男性にとってロリコンや蹂躙の対象にも見えがちなファッションですが、実際には男性からも恋愛の対象としては見られにくい。ご自身もゴスロリファッションで身を包む社会運動家の雨宮処凛さんと以前お話したときに、彼女は「私のゴスロリはセクハラ防止服よ」とおっしゃっていました。「ゴスロリを着ていてカワイイ格好をしていたら、普通の男の人は、こいつは頭おかしいだろうって絶対声掛けてこない。だから私はこのゴスロリの服を着てデモ行進するのよ」と。だから一見カワイイように見えて、現実の世界では絶対に男を寄せつけない服なんです。例えば、男性とのデートのシチュエーションを考えてみても、男性にとっては「カワイイ」服の女性をどこに連れていっていいかもわからない、「お茶飲みましょう」とは誘いにくいんです。この服に合う場所をなかなか想像しづらい。いろいろ考えているうちに面倒くさくなって、やはり誘わない。
その一方で、いま一番モテているのは緩いワンピースを着てヒールの無いパンプスを履いた、“森にいそう”なファッションをした「森ガール」のような、一見、性を主張していない無垢なファッションです。実は、いま一番のビッチはこの「森ガール」なんですね。『ビッチの触り方』を書いた湯山玲子さんによれば、今、性生活がもっとも充実している女性のファッションというのは、ノーメイクで、例えば「無印良品」で売られているようなシンプルな洋服を好んで着ている、一番お金がかかっていない、サラッとしたファッション。かつてのモテファッションだったエロい服やカワイイ服が同性内だけで支持されて恋愛性を失う中で、一見「モテ」を連想させない素なファッションが実際にはめちゃくちゃモテているということですね。男性の視点では一見すると性に関係なさそうな女の人の方が、恋愛をする上では安心で、浮気をするにも目立ちにくいので安全。そしてなによりも、表面的にはエロくないのに中はエロそうっていう、そのギャップがエロい。

見た目だけでも癒されそうなルックスが近くにあった方がうれしい。GDPの低成長が続き日本の経済が落ち込んでいる中で、男性が自信を失っているのかもしれません。男性は本当は傷つきやすいし、弱い。昔はまだ虚勢を張らなきゃいけないという時代の空気がありましたが、今は「弱くていいんだよ、泣いていいんだよ」と、弱さが社会的に肯定されている。そして男性の方も「あ、そうか、僕弱くていいんだ」と、ますます弱くなっていく。このような時代の男性は「エロ」や「カワイイ」といった女性的なファッションを怖れ、逆に「森ガール」のような緩い感じのファッションに身を包む女性に心の安らぎを感じるのかもしれません。でも中身は一番エロくて、計算高いのがこの層なんですね。

なぜ若者は「コクる」のか?

日本語の「つき合う」という言葉。これは日本だけにしかない言葉なのでなはいでしょうか。「告白」とか、「つき合う」とか、男女の恋愛を語る上でこんな言葉は他の文化では見当たらない。日本では言葉で「コクる」(告白する)ことから恋が始まるんです。その前提があった上で「私たち、つき合っている」みたいなことを言う。私はいまだに感覚的に理解できません。例えばフランスに行くと、そこには成熟した大人の恋があって、肉体の接触も含めて阿吽の呼吸でお互いを分かりあうのは当然というような空気があるのですが、日本に限っては、とにかくもう「コクるところから」みたいなプロセスがあり、その予定調和な段取りが、いじましい感じがします。私は大学で教えているのですが、学生に「何で、コクるとか、つき合うとか、そういう言葉が出てくるわけ?」と聞くと、「え、だって私たち、つき合っているかどうか、やっぱり言葉で確認しないと分からないじゃないですか」と言う。つき合う人とはセックスまでするけれども、つき合っていない人にはご飯をおごってもらうまで、といったような言葉による段階や線引きを彼らなりにつくっているんです。日本人は言葉の影響をとても受けやすいのかもしれません。目の前にいて、好きだったらガバッとハグする、というような感じではないんです。恋においても段取り的で、女性誌『anan』のセックス特集のように、「セックス」や「恋」や「結婚」すらも、チマチマとした言葉でプロセスが細かく切り分けられマニュアル化され、恋の本質的な部分や全体性が失われて「色気」が無くなってしまった。恋の段取りを踏み外す人は、「あの人変わっている」という扱いを受けて、仲間内で無視されてしまうという恐ろしい状態もあります。今の20代の人を見ていると、仲間内での評判や場の空気にチラチラ気を遣いながら汲々と生きているという印象があります。

逆に野性全開で今でも頑張っているのが40代とか50代の人たち、バブルを経験した人たちはやはり凄い。段取りや周囲の目はもう関係ない。離婚を経験したり恋愛の場数を踏んでいる人たちは、もうやりたい放題みたいなところもあって、メディアが何と言おうとやることは上手にやる。さらに上の世代、例えば1990年代に男女の不倫をテーマに描いた、小説『失楽園』を書かれた作家の渡辺淳一さんは「色」に対する欲も凄い。この世代の「本能に忠実であれ」という傾向は震災後にもっと強くなった気がします。「人生が明日で終わるかも」と思った人たちは、本能に忠実に生きようとするのかもしれません。震災後、一時期みんな大人しくなりましたが、しばらくすると私の周りでもとにかくパーティが異様に増えました。様々な場所で様々な目的を持ったパーティーが開かれ、その会場ではかなり「肉食」同士の、刹那的な、いま楽しんでおかなきゃ損だという空気を感じます。あまりメディアでは取り上げられない現実ですが。

時代の空気が1つではなくなった

ファッションという英単語には流行という意味もありますが、今はもう「時代のファッション」を一括りにできなくなっています。私が大学で受け持っている「ファッション文化史」という講義では、まず最初にファッションの定義をします。「ファッションとは衣服のことではなくて…」ということから始まり、「時代の空気を形づくるのがファッションであり、時代の空気は何でできてくるかというと、皆さんが持っている個人のアイデンティティとか、周囲に対する、あるいは自己に対する見方、社会とか、経済とか、文化とか、広告とか、映画、その他いろいろなものが雑多に交じって時代の空気になって、それが形としてファッションになっているんだよ」と定義付けをしていくのですが、ある時代まではそれが一つのぼんやりした形にはなっていた。しかし、今は全然それが一つになっていない。時代の空気自体がいくつも細分化されて、その空気自体に問題があるのかもしれないですが、一括りに見るということがますます難しくなっているような気がします。例えばバブルの90年代なら、OLの人はこういうボディコンを着て、髪形も前髪を立ててワンレングスで、みたいなステレオタイプがありました。しかし今はステレオタイプそのものが無くなった。ひょっとしたら、あと10年くらい経って振り返ったときに、「あ、そうだったのか」というタイプが見えてくるかもしれないのですが、今は何かモヤモヤとしたいろんな要素があって、一括りにするのが難しいなというのが実感です。

男の子だけ見ていても、本当にそれを感じます。いま大学生でファッションが一番好きなのは男の子なんです。私の授業には一クラス200~300人くらいの学生がいるのですが、最前列にいるのは、まず男の子なんです。彼らはレギンスを履いていて「先生、あれ買ってきました」と、洋服を見て褒めてもらえると嬉しいみたいな感じの男の子たち。そういうファッション業界に就職したいというような男の子が最前列から2列目ぐらいにいて、一番優秀なんです。二番目は、その後ろに、学内では比較的おしゃれな「お花畑」と呼ばれている女の子の層が100人ぐらいあって、一番後ろに「ミツバチくん」と私が呼んでいる男の子の層があります。彼らはお花畑を目的に来ているだけで、ファッションなんか全然興味がないようなミツバチくんなんですが。だから、男の子といっても、それこそ安いユニクロの服を2枚だけ持っていて1日ずつ着替えていればいい、みたいな男の子もいるし、本当に細かくて、あそこのブランドのロゴじゃないとダメ、みたいな子もいます。
大人の男性も、本当に着飾ることが好きで、真夏でも三つ揃い着て蝶ネクタイしている人たちもいるし、スーツ族にしても本当にいろいろで、いま流行りの小さめなスーツを着ている人もいれば、昔風のテーラードスーツを着ている人もいる。各人の経済状況を反映しているのかもしれませんが、今は本当にファッションの「系」がバラバラになりました。「〇〇系」というジャンルやステレオタイプが無くて、ファッションを自分の表現の一部とすること自体を恥ずかしいと思うような雰囲気すら出てきているのが今。

ファッション誌自体も売上げが下がってきているものが多く、まだ売れている雑誌も一部ありますが、昔ほどファッション誌に対する憧れや、信頼はなくなった。雑誌とタイアップするマーケティングも、今はその裏をみんなに知られてしまっていて、かつてほどの効果は望めません。最近、高級ブランドがよくやっている販促キャンペーンのなかに、お客さんを囲い込み、ホテルの一室やショップの一角でトークショーやパーティをして、そこで商品を売るという方法があります。特に時計などは、時計について詳しい人や絶対買いそうな人を20、30人呼んで、実際に買ってもらう。例えばある男性ファッションディレクターは、ファッションブランドが主催するイベントにゲストトーカーとして呼ばれていき、男性の客に対して「これを着てください、こうしたらモテます」というふうに話す。するとお客さんはそれを買う。中年の男性客には「そこのお父さん、じゃ着替えてみましょうか」と、彼が選んだものを着せてビフォー・アフターを見せて買わせる。女性に対しては、「僕はこういう女の人とデートしたいですね」と、会場を熱気で包んで洋服を買ってもらう。食器や調理器具を料理の実演パーティで売るのと似たような状況になっています。

ファッションの多層化

かつてラグジュアリーブランドは、伝説に彩られた社史や王侯貴族、芸能界のスターなどの華麗な顧客リストを礎にして、華美な贅沢さをブランドイメージとして売っていましたが、2000年代後半からはそこに”倫理”を意味する「エシカル」という要素が加わり、「エシカル・ラグジュアリー」というスタイルがもてはやされるようになりました。「エシカルだから… 」、と自分を納得させるエシカルファッションも新しいエゴのかたちかもしれません。同じような背景で「エコ」という言葉がファッションの分野でも使われていますが、例えば、ちょうどエコバッグが世の中に出始めた2007年頃、アニヤハインドマーチという高級バッグのブランドが世界各都市で数量を限定して2000円のエコバッグを販売しました。客達はその限定バックが欲しいがために、シャンパンを飲みながら一晩中行列して、東京でも1時間くらいで完売しましたが、その日のうちにインターネットで8万円で販売されていました。2000円のバックですよ。その上に、「I'm not a plastic bag」、使い捨てのビニールバックじゃないよ、って書いてあるだけなのですが、そういう感覚っておしゃれでしょう? と自慢するためのエコバックです。世界の各都市で行われていたのですが、これは果たしてエコなのか? という疑問もあります。ファッション雑誌でも様々なキャッチーなワードで流行ファッションを切りとることを一通りやりつくし、新しいキーワードはないかと探していた絶妙のタイミングで「エコ」というワードが出てきて、これはいいと最初に取り上げたのが『ELLE』でした。つまり、ファッションでいう「エコ」の記号を取り巻く構造は、それを新しい波として売りたいメディアとそれを所有したい先端層の「エゴ」でしかない。

また、ファッションが多レイヤー化していますね。服というレイヤーがあり、自分の肌にはエステやメークというレイヤー、最近では体内エステみたいなところにまでレイヤーが及んでいて、それぞれファッションの言葉で語られるという多層化現象が見られます。体内の毒素を排出するデトックスという食事療法や、ファスティングという短期間の断食も流行していますが、自分の心と身体の内面をピュアにしたいという気持ちがあるのかもしれません。身体の外に着るのではなく、お金をかける部分が「自己の内側」に向かう傾向はさらに進み、ヨガや内蔵エステなどの「身体の美」や「スピリチュアル」までがファッションの大切な一部になっています。自己啓発書が流行しているのも、その一部かもしれません。『TARZAN』を買う女子も、マクロビカフェ飯を食べ歩く女子も、ファッショナブルな行為としてそれをやっている。時代をかたどるファッションがぼんやりしてきた理由として、こういう身体や気持ちへのファッションのレイヤーが増えたことが多いんでしょうね。美やファッションの総量は、この20年間で不変、あるいは増えてさえいると思うんです。それは人々の不安の表れで、昔は着飾る事で不安を解消しようとしたのですが、それでも残ってしまった心の空虚さを埋めるために、今ファッションが身体の内面へ向かっている。

愛は資本主義を生み、資本主義への行き過ぎは愛を蹴散らした

そもそも、中世以降のヨーロッパにおける資本主義の発展は、富を持つ男性たちの違法恋愛への欲求が育んだ部分があるんです。つまり、富を持つ男性は、家庭内の正しい恋愛という形式の他に、高級娼婦たちによる性愛の喜びを目的とする非合法の恋愛を享受できる権利があった。それが都会の「奢侈(しゃし)」を育て、いわば富の形成のステイタスになっていった。それがファッションとどう関係があるのかというと、お金のある男が、そこで女性にお金を渡すと売春になって、捕まってしまう。だから、女性を贅沢品を扱う商店へ連れていき、「なんでも好きなものを選んでいいよ」とモノを買ってあげる。すると小間物商が発達する。女性が欲しいものをそろえるショップが増える。シーズンごとに女性は新しいものを身につけたがるので、季節ごとに愛する女に贅沢品を買い与えるサイクルが生まれて、そこから「モード」が生まれた。すなわち、愛が資本主義を生んだんです。しかしそれが行き過ぎて、「季節ごとのモード」が、行き過ぎた資本主義を成り立たせるために「消費するためのモード」へと変わってしまった、本末転倒な状況が現代に見られます。そして現代、そのモードを消費している女の人たちはどういうことをしているかというと、トップモードで着飾った女性同士でレストランに行き、女性同士で旅行し、女性同士でホテルのスウィートに泊まり…という贅沢を享受したりしているわけですが、そこにもう「男」はいない。男は男で、高級時計や車を見せびらかしたいときは、銀座の高級ブランド店でオーナーの集いをやる。そこもやはり男ばかりで「女」がいないんです。例えば、高級紳士靴ブランドのベルルッティが開催している「スワンの会」という靴磨きのパーティーでは、そこに集まった愛好家たちがディナーテーブルの上に自分の履いている靴を出し、シャンパンをつけて磨くということをやっているのですが、そこにも男だけで女がいない。現在の高級品市場は、上客たちが同性だけで固まっていて、それでマーケットが回っちゃている。違法恋愛は一番お金が動き、お金を動かした分だけ背徳感も増して、恋愛の炎が燃えあがる。それが資本主義を加速させたのですが、今は行き過ぎてしまい、そこに愛が介在しなくてもよくなってしまった。背徳から立ち上る芳香、セクシーさや色気のようなものもファッションの世界から消えてしまいました。

私が学生時代にお世話になっていた蓮實重彦先生がよくおっしゃっている言葉、「マテリアリズム」という思想が今後重要になるのかもれません。唯物主義、と訳すよりはむしろ、実物主義というのかなあ、観念論の対極にあるものです。「現象そのものを曇りなき目で見よ」「ただ、実物に対峙せよ」というのが、蓮實先生のマテリアリズムの教えです。言葉や情報でファッションも世の中も本質が見えなくなって錯綜していますが、余計なもの、社会の安易な先入観を取り払って、この目の前の物、存在そのものにダイレクトに接しなさいということです。例えば目の前の男、目の前の女に対して、その人間が持つ情報をすべて取り払って、相手の存在そのものに対峙する。現象であれ、何であれ、あまりにも情報や縛りが増えてしまうと、人間は鬱血してしまう。生きることの、根源的な、野性的な全体性、生きる喜びを回復しようとする衝動、そんな衝動に応えるには、もうマテリアリズムに行くしかないような気がします。そして、蓮見先生は「色気」について「人格の脊髄から立ち上る、自分でももしかしたら気づいていない、そして他人の証明も必要としていない全体的な存在である」ともおっしゃています。そのような存在から立ち上る「色気」こそ、もっとファッションあるいは社会に必要なのかもしれません。