タイトル
生 NAMA
著者 / 話者

現代の創造性において「生(ナマ)」こそが重要である。現代なんて言い方がすでに時間軸の傍観者となりその力学を失ってしまうのだけど、今わたしがもっとも欲しているのはとにかくそういうことだ。決して美術館の白壁の空間に入った旬の作品が「生」なのではない。荒っぽいだけの材料という意味でもない。世界にはこの瞬間にもだれにも目撃されていない「生」がたくさんある。生とは、その存在自体の直截性が、器からあふれでてしまっている状態。それを説明しようとする体系自体を失墜させるぐらいの強さ。ピナバウシュの舞台設計には、その帝国主義さゆえにわたしの立場としては双手を上げての賛美はできないのだけれども、その熟練されきったものからこぼれ落ちてくるなにかには、それは圧倒的な存在感があった。確実に無視できないなにか。この一点が世界の全体を呼び込むことができるという可能性。ウィリアムブレイクはそのような状態をfulfillment=充溢性と表現した。もっと言うと、外側からの圧と内側からの密度が完全に均衡している状態、ヌメヌメでパンパンな状態。表象の生々しさと文脈の生々しさとの拮抗。あらゆる体系化に対してあらがう原生的ななにか。音楽でも、美術でも、思想でも、文学でも、闘争でも、わたしはそういう部分に「生」な輝きを見出す。美術という形態においては、メディウムの特性がまだ初期の頃に、創造性が加速度的に流入し、祝祭的な雰囲気が一気に満ちてくることで、ある種の「Euphoria=多幸的陶酔性」を獲得することがある。Man Rayの写真にしても、Bill Violaの映像冒険にしても、土方巽の舞踏にしても、この一点が全体を引き込んでしまうかもしれないという凄みのある真空状態がある。その生の充溢性とは「真空状態」と言い換えてもいいかもしれない。人間はだれもが生まれた瞬間は未開である。10日間もたてば文明化され始めちゃうのだが。動物は本来、たとえば、恐い動物に食われないような生き方ができる。突発的に恋ができる。恐いものににらまれた記憶が脳裏にある。そういったものに反応する直截性は、生物的組成あるいは神経系統において、いろいろな進化の過程で私たちが獲得してきたものと捨ててきたものとがあるのだが、わたしたちが「個体としての純度」をあげるときにその系統発生を無意識的に一気にさかのぼるときがある。そのような状態では、今、かりそめに採用している社会的風潮や美的前提をのびのびと無視しながら、時空間や主客体のすべてを飲み込んでしまうような現象を、たった一つの個体が起こしてしまうことがある。