タイトル
匂い
著者 / 話者

「草食系」という言葉を耳にするようになって久しい。草食系男子という言い方も定着していて、おとなしく攻撃的でなく、恋愛に消極的で性衝動も弱い男性たちを指すのであろうことは何となく理解はできる。草食系の反対が肉食系とされるところからすると、草食動物とそうした男性たちの姿が重なることによる命名なのだろうが、動物を少しでも知っている人ならわかると思うが、草食動物というのは決して「草食系」ではない。一見おとなしそうには見えるが、生殖力は旺盛だし、雌をめぐっての雄同士の戦いも珍しくはない。草食動物の代表とも言える山羊は匂いが強く、不快な臭気を持つその体臭成分は、山羊のラテン名カプラからとってカプロン酸と命名されている。発情期になると山羊はこのカプロン酸を含む強烈な匂いを発する。また雄は雌の匂いを嗅ぎつけようと歯をむき出しにして雌の体に鼻を押しつける行動をとることも昔から知られていて、人々は匂いが興奮を引き起こして交尾に至ることを理解していたのである。西洋社会では古くから体臭の強い男性は精力・性欲ともに強いとされていたが、そこに山羊の生態からの類推が働いていたのは間違いない。GOAT(山羊)は好色漢を示す俗語ですらあった。

草食系男子には確かに脂ぎったり体臭が強いといったイメージはなく、それがいかにもおとなしい生き物という感じを与えるのだろうが、このように草食動物は強烈に匂う。いや、草食動物に限らず、動物は本来匂うものなのである。それは、生き物である限り代謝に伴う化学変化は匂いを発するし、食べれば排泄もして悪臭を放ち、また体内や皮膚に常在する細菌類が常に匂いを産出してもいるからである。そのメカニズムに草食や肉食の区別はないし、もちろん人間も例外ではない。

生きている限りうまれ出るそうした匂いは、ある種の「情報」としても働いている。発情期であることを示し交尾に誘うことで種の保存を可能にする匂いもあれば、集団の中で自分が敵対するものではないことを匂いで示す、個体維持の働きもある。マウスは尿の匂いで配偶にふさわしい相手を見つけたり、同じファミリーに属するもの同士であることを認識し合う。言葉を持たない多くの動物にとって、匂いは生存の上で欠かすことのできない情報であり、コミュニケーションの道具なのである。

人間の場合はどうか。現在でも身につける香りの有無や質が、出自や民族、階級や性差を示す指標になることがない訳ではない。香水に男性用と女性用があるように、つけている香水は女性であることや、どんな女性に見られたいかを語る情報として機能する。しかし、それは文化記号論の枠組みの中で論じられるべきものであり、ここでは人間のからだから発する匂いに特定して考えてみたい。そうすると、現代の我々が体臭を消すことに躍起になっていることからもうかがえるように、からだの匂いが生存にとって何か重要な情報として働いているとは考えにくい。我々が他人の体臭から何かを読みとっているとは思えないのである。
では、何故、匂いの持っていた情報としての意味が失われてしまったのだろうか。実を言うと、人間にとって匂いがあまり重要でないことや、人間の嗅覚が他の動物に比べて劣っていることについては、かなり昔から自覚されていた。例えば古代ギリシアのアリストテレスは人間の嗅覚が動物に到底及ばないものであることを嘆いているし、古来その理由について哲学者、生物学者が様々な考察を行って来た。基本的には人間を他の動物から分かつ特徴、それも人間が他の動物に優越した存在であることを示す特性と考えられてきたが、進化論の登場によって、匂いの意味の低下や嗅覚の退化が人類の進化と結びつけて考えられるようになる。その中でも我々の興味を引くのは、進化論の家元ダーウィンと精神分析の始祖フロイトである。

ダーウィンは多くの動物が優れた嗅覚を持ち、特に匂いや嗅覚が生殖に重要な役割を果たしていることを指摘する。そして、雌が雄の匂いを好み、より強い匂いを持つ雄を配偶者に選ぶことによって、子孫にもその強い匂いと嗅覚が保持されるのであろうと考えた。匂いを孔雀の羽にも匹敵する、配偶者を選ぶためにキーとなる魅力と捉えていたのである。もっとも、人間については、特に文明化したヨーロッパ人において嗅覚が退化したように見られることを指摘するにとどまり、その要因については特に言及していない。

これに対し、フロイトは一歩進めて大胆な仮説を立てている。まず、ダーウィンが示した、哺乳類の多くで特に生殖に際して匂いが重要な役割を果たしている事実をもとに、そうした発情期や性的成熟をあらわす匂いが生殖器や肛門から出ることに注目する。四足歩行の動物は鼻の位置が低く生殖器と近接しているために、そこから出される匂いを嗅ぎやすいはずである。ところが、人類の祖先は二足歩行を始め、直立の姿勢が常態となったために、鼻の位置は生殖器から遠く隔てられてしまった。そうなると匂いを嗅ぎにくくなり匂いが生殖行動を促進することが難しくなる。その一方で直立することによって大脳化した脳が視覚情報の処理を高度化させ、視覚を使っての生殖行動へと切り変わったのではないかとフロイトは考えたのである。

ヌード写真という目に見える情報によって欲情がかきたてられることを考えれば、その道筋は理解できなくもないが、嗅覚から視覚へと生殖を促す機能がそう簡単に移り変わるものなのか大いに疑問である。ただ、人類が視覚による情報処理の質を向上させていったのは事実で、さらに言語を獲得してからは、匂いという情報の価値が相対的に小さくなったであろうことは理解できないことではない。

また、フロイトの仮説に前後して、解剖学や脳神経学が、脳の進化の様相を明らかにしていくが、下等な動物になればなるほど嗅脳と呼ばれる原始的な脳の比率が大きく、進化に従ってその上に覆いかぶさるように脳が肥大化していくことが知られるようになったことも、嗅覚の地位低下に一役買ったことが知られている。フロイトより一世代前に属するフランスの神経解剖学者ポール・ブローカは、人間の知的営みに関与する前頭葉に対して、嗅脳を含む辺縁葉を「野蛮な皮質」と呼び、かくして嗅覚は人間の五感の中でも最も原初的で動物的なものとみなされるようになっていった。そうした発想の延長線上として、文明化された西洋人はそれ以外の野蛮な人種よりも嗅覚がより退化しているはずだとさえ考えられるようになる。

面白いのは進化の先端を行くものと自負していた西洋人が、自分たちの嗅覚が衰えただけでなく、自らの発する匂い、すなわち体臭についても未開人に比べて弱いはずだと思いこんでいたことである。それを証明するために、皮膚上に汗を吹き出させるアポクリン汗腺と呼ばれる組織の発達度合いを人種ごとに調べ、アポクリン汗腺が多く発達している人種ほど進化が遅れているとした。もちろんアフリカ系人種よりもコーカソイド系の西洋人の方が汗腺の数が少なく、それを証拠に自分たちが最も進化が進んでいると言いたかったわけである。ところが、後になって日本人を含む蒙古系人種の方がコーカソイドよりもアポクリン汗腺が少ないことがわかって、そういう主張はされなくなったという。東洋人の方が進化していては、西洋人にとって都合が悪かったのである。

もっとも、アポクリン汗腺の調査は無駄ではなく、実際にも他の人種・民族に比べてアポクリン汗腺の少ない日本人は体臭が弱いことで知られ、現在ではアポクリン汗腺から分泌される汗と体臭との関係もある程度理解できるようになった。その結果わかったことは、人間の体臭のほとんどが、毛穴に直結して皮膚表面へと伸びるこのアポクリン汗腺から分泌される汗成分や皮脂成分が、皮膚上に常在する細菌によって分解されることで発生するということである。

アポクリン汗腺からの汗というのは、暑かったり体を動かしたりする時にのみ出るわけではなく、緊張や興奮によっても出ることが知られているが、だからと言って人間は汗を出そうとして出せるものではない。しかも皮膚上の細菌の種類や数は人によって違うため、人それぞれ匂いが違う。従って、意識や意志によって体臭の強さや質をコントロールはできない。さらに、ひとたび匂い始めたら、シャワーでも浴びない限り匂いを引っこめることもできないのである。匂いを情報として働かせようとしても、その発信者である人間は情報を自らの意志で出すことも、消すこともできない。発信のスイッチのオンとオフともに、コントロールし得ないのである。しかも、己の体臭は自分ではわかりにくいというオマケまでついている。私たちは自らの発する匂いに関して何もなすすべがないことになる。

無意識に表出してしまうという意味で体臭はしぐさや表情に近いとは言える。しかし、それらは発信する方は無意識でも受信者側はそれを読みとることが多く、だからこそコミュニケーションが成り立つ。それに思わず出てしまうしぐさであっても、その意味を相手に読まれるのを知って発信者が極力特定のしぐさを避けようとすることは可能である。部分的にではあれコントロールできるということだ。

さらに、フェロモンの研究が進むにつれてわかってきたことは、匂いやフェロモンが人間に作用する(=意味する)場合、受信者に匂いとして意識されるのではなく、むしろ無意識的に脳内を伝わって内分泌系に働いているということである。譬えて言えば、意味を成さない文字の羅列を無意識のうちに発信し、それを受けた方でも何かを受信したという意識のないまま、夢の中でその文字列を解読してしまうようなものである。そうした形で匂いがからだに何らかの作用を及ぼすとしたら、それは我々が「サブリミナル」という言葉で理解する働きに近いと言えるだろう。

だとすれば、体の匂いを介したコミュニケーションとは、我々が普通に理解しているコミュニケーションの概念から大きく逸脱したものと考えるより他はない。言語やしぐさ、みぶりを発達させて来た人類が、少なくとも意識のレベルで匂いを情報として用いることがなくなるのも当然かも知れない。

しかし、匂いが無意識的に内分泌系に働きかけて生理的な調整のようなことをしていることを示唆する研究結果は多い。よく知られているものに、ドミトリー効果といって女子寮などで一緒に暮らす女性たちの月経周期が同期するということがある。以前から事実としては知られていたが、この現象の背後に、グループの特定の女性から発する匂いが働いていることが明らかにされたのである。

生物にとって情報の価値とは、それによって引き起こされる行動や体内の生理活動が自己の生存や種の保存にとって役に立つか否かで測られるものであろう。人類が、例えば一夫一婦制をたて前とする社会体制が確立する以前のはるか昔のある時期、群の中で月経周期を同じに揃えておくことが種の保存や個の生存上有利に働いた時代があったことは考えられる。発情期の名残りと取れなくもない。しかし、現代社会において一定の集団の女性たちが一斉に生理を迎えることが何かの役に立つとは考えにくいし、逆に各自の月経周期がてんでばらばらであることで不利になるとも思えない。その意味で、いまだにそうした匂いが人間の生体メカニズムの中で何らかの作用を及ぼしてしているとは言え、情報の価値は低いと言えるかも知れない。

一方で、異性に接する機会がまったくないと性的成熟が遅れたり、月経周期が乱れることが知られているが、実際に接することがなくても異性の匂いを嗅がせるだけでそうした異常が正常な状態へと促進されることもわかっている。このように、からだの匂いが脳を介して内分泌系やホルモンに働きかけて生殖に関る何らかの役割を果たしているとしたら、現在のわれわれがその意味を理解できないとしても、匂いは立派に情報として機能していると言えるのではないか。視聴覚を刺激する情報が溢れ、言語による意思疎通を中心とした人間社会の中では匂いの情報としての価値は低いのかも知れないが、生物としての人間にとって、からだの匂いという情報を無意味、不必要と断じるわけにはいかないであろう。それなのに、現代の我々が自らの体臭を厭い、できる限り消そうとするようになったのは何故なのであろうか。

今までの説明からも明らかなように、人間の体臭忌避の傾向というのは生物学的に必然なものではない。むしろ生物としては特殊な例である。と言うことは、この傾向は歴史的社会的に形成されて来たことになる。フランスの歴史家アラン・コルバンはその著『においの歴史』において、ヨーロッパ近代を対象に、その過程の解明をおそらく世界で初めて行った。その中で人間の体臭に対する感じ方を決定的に変えてしまった要因に、病原菌の発見とそれに伴う衛生観念の発達・普及を掲げている。

ヨーロッパではそれまで、水質の悪さもあり、水を介してペストなどの伝染病が猖獗を極めた記憶もあって、入浴は奨励されていなかった。キリスト教の倫理観によって裸で温水に浸ることは肉欲的快楽として糾弾されることさえあった。そういう社会で体臭が問題視されることがないのは当然である。当時は体臭を気にするまでもなく、都市も農村も現代の我々の感覚からすれば悪臭に満ちあふれていたのである。それがひとたび、伝染病の原因が微生物であることが明らかにされると、公衆衛生の名のもとに清潔さを保つことが強要され始める。病原菌から身を守る為に入浴や身体洗浄が奨励され、不潔であることは本人のみならず社会にとっての害悪とみなされるようになる。不潔は見た目と同時に、匂い=体臭によっても監視されることになったのである。

社会の中で個人の衛生や清潔が強く求められるようになったのはそれ程古いことではなく、西欧でも十九世紀半ば、すなわち日本が開国し明治の世になる少し前の頃のことである。ところが、江戸末期の日本は、世が泰平であったことやもともと入浴習慣があったこと、そして生ものを好む食習慣などにより、当時の世界の国々・民族の中で、例外的に清潔な民族であったと言われている。その日本人が、開国によって病原菌の存在や衛生の大切さを知ることにより、一斉に同じ方向に走りやすい国民性の中で何が起こるかは想像に難くない。

もちろん、それら以外にも様々な要因が絡まっていたに違いないが、日本人にとって清潔は強迫観念の如きものとなる。そして、「禊」に端的に見られるように、日本の文化的伝統の中で、もともと「無色」「無臭」といった水の持つ特徴が清潔さの観念と馴染みやすいこともあって、結果的に無臭が清潔さを示すひとつの指標となった。そうした無臭の清潔さが極端な形で求められたのがからだに他ならない。からだから匂いをさせることは不潔さに直結して忌避され、恥とすらみなされるようになる。体臭や腋臭は文字通りの「悪」臭になったのである。
その背後には、人間のからだは本来無臭であり、何か異常―病気であったり不潔や不摂生であったり―がある際に悪臭を放つものというイメージがいつの間にかできあがっていたことが考えられる。体臭はマイナスの価値を持つ兆候として措定されたのである。私が「無臭身体の神話」と呼ぶ独特な身体観の誕生である。それは、人間は生まれ落ちた際には、出荷時のコンピューターのように、初期化が施されただけの、まだ何も書きこまれていない無垢の状態であるという観念に他ならない。

こうした身体観のもとでは脳が特権化することも理解しやすい。養老孟司の言う、いわゆる「唯脳」化が進み、理性・知性の座である脳がからだ全体を支配下に置くような構図ができあがる。脳はからだの隅々までコントロールしようとし、その支配の及ばない領域を自然に属するもの、動物的なものとみなして敵対視さえするようになる。脳がコントロールでき、そしてもうひとつ大切なポイントである「目に見える」もののみが「自己」として認められるわけである。

考えてみると、我々のからだから出る匂いというものは、こうした脳の支配から最も遠いところに在るのかも知れない。と言うのも、匂いは目に見えず、すでに述べたように我々は自分の体臭の発生も消去もコントロールし得ず、しかも一方で体臭が無意識のうちにからだに何らかの働きをしている可能性があるからである。そもそも、からだから発する匂いというのは、自分であって自分でないような、自己という存在の輪郭を曖昧にするものではないだろうか。確実に自分のからだの一部であったものが、目に見えぬまま私のからだの周囲に拡散してゆく。どこまでが《私》なのであろうか。

この曖昧さを厭うところから、無臭身体の神話はうまれ出るものなのかも知れない。しかし、人間も所詮は自然の一部であることを謙虚に思うとき、自己というものが、自分の意志でコントロールできると勝手に思いこんでいる境界をはみ出した、曖昧で不可解と言うより他ない領域を含み持つことに気づかざるを得ない。「自己」という意識をも含むこの《私》という生命体は、有機体としての絶えざる代謝によって匂いを発している。放出された分子たちは自分とも他者ともつかぬ曖昧な空間に拡散していき、やがて立ち消えてしまう。人間存在のゆらぎを直観的に気づかせてくれるものこそ、この匂いというものなのではないだろうか。

人間は五感を通じてしか世界や環境と関わることはできない。高度情報化社会と呼ばれる現代にあって、匂いや嗅覚が情報のタームで扱われることはほとんどなかったと言っていいだろう。しかし、急速な進展を見せ始めたフェロモンや嗅覚の研究が進むにつれ、匂いが人間に対して果たす情報としての役割について今後多くの事が明らかになってゆくに違いない。特に、性や生殖の領域での匂いの重要性について、驚くような事実が知られるようになるかも知れない。

言語と視覚中心の文化は確かに人類の文明化を推し進めた最大の功労者ではあろう。しかし、そのはてに今日人類が地球規模で直面している混迷があるのだとしたら、今こそ脳や自意識を中心とした人間のあり様を越えた、世界とのつながりの中にしかありえぬ《私》という存在を理解する必要があるのではないか。匂いをキーにして世界観や環境観を再構築することは、その手始めになるのではないかと私は考えている。