タイトル
クリエイティビティという言葉を振り回すのではなく、本質的に創造的であれ
著者 / 話者

『クリエイティビティという言葉を振り回すのではなく、本質的に創造的であれ』

石井裕 [MIT Media Lab副所長]
Hiroshi Ishii

聴き手
市耒健太郎 [『広告』編集長]
Ichiki Kentaro

MIT Media Labの石井裕副所長は、触感あるデジタル単位、「タンジブル・ビット」の提唱者であり、エンジニアリングと感性が世界最高レベルで衝突しているMIT Media Labでもっとも重要な人物のひとりだ。「広告を中心とする祭り」から、「創造性を中心とするラーニングプログラム」へと変身しようとするカンヌが、その象徴として招いた石井裕。彼が見る世界とはなにか、創造性とはなにか。カンヌの会場をスタンディングオベイションの波へと変えた、スピーチの興奮がまだ冷めやらぬ翌日に、雑誌『広告』編集部@カンヌにお越し頂き、一時間半の単独インタビューを行った。


『広告』編集部(以下、編集部
昨日は、ものすごいスピーチでした。カンヌが変わろうとしている。広告業界が変わろうとしている。その象徴としてのMIT石井裕教授の招聘スピーチでしたが、SF映画『マイノリティ・リポート』と未来創造との関係から、「タンジブル・ビット(=触感のある情報単位)」を超えて、「ラディカル・アトムズ(=革新的な原子)」の紹介まで、抽象的な示唆に富みながら、具体的な事例までお話されて、強い感銘を受けました。
石井裕MIT Media Lab副所長(以下、石井裕
ありがとうございます。
編集部
そもそもカンヌフェスティバルがなんで、石井先生のようなエッジーな学者をお招きしているか。これが10年前だったら、カンヌフェスティバル自体が、CMの品評会そのものだったわけで、絶対にありえない。しかし今は、「新しい創造性のレイヤー」を、広告業界の枠を出て、フェスティバル総出で、探しているわけです。参加しているのも、広告業界だけでなく、メディアエージェンシー、デジタル系クリエイティブブティック、コンサルティングファーム、プログラマー、そしてクライアントも多く参加する催しになった。
石井裕
今回初めてきたのですが、会場中が非常に興味深いピクセル(絵柄を形成する最小単位)であふれていますよね。挑戦的に未来を探そうという態度が伝わってくる。僕もイージスメディアの社長ナイジェル・モースにお呼ばれして、SF映画『マイノリティ・リポート』にみるフィクションの未来創造と、MIT MediaLabというアカデミックな現場での未来創造をつなげる構成にしようということで楽しみながらやりました。まず、ずっと考えているのは、「クリエイティビティ」と口で言うのは簡単だけど、なにが本当の創造性なのかという根源的な問題。まず伝えようと思ったのが、僕らがMITでやっているエンジニアリングやアートを結びつけようとする方法論や物の考え方。それは、広告だろうが、映像だろうが、プログラムだろうが、企業だろうが、分野横断して共有できる視点だろうとまず思うのです。
編集部
僕たちは、石井さんの講演を見て「創造性のレイヤー」という問題を強く感じました。広告業界の視点から見ますと、僕たちの日常は、まず広告をつくってと言われて、基本的にはまずテレビCMをつくってくださいと言われます。
ただ、N:Nの時代には、テレビCMをつくっても、その商品が悪ければ、評判にもみ消されて、すぐ売れなくなっちゃう。だから、プロダクトのパッケージをやり直させてくださいと。するとやっぱりパッケージでなく、もっと中身の方が気になる。すると、さらにUI(ユーザーインターフェース)とかUX(ユーザーエクスペリエンス)の話になってきて、そうすると、さらに下の階層のアーキテクチャ(創造を下支えするための構造)の話になってきて、結局、コーポレートカルチャーの話しにもなったりする。一口に、創造性と言っても、発想と技のレイヤーを行き来するわけです。
象徴的な例として、今年新設されたカンヌのイノベーション部門では、Cinderがグランプリを受賞しました。
石井裕
イノベーションのレイヤーが縦横無尽に拡張されている感覚はよくわかります。まさにMedia Labそのもの。しかし、受賞されたCinderはソフトウェアですね。

編集部:カンヌが初めてソフトウェア自体を、創造力として評価したんです。広告クリエイターや映像作家がつくる作品ではなく、その作品を作ることを可能にしたコーディングのアーキテクチャ自体に賞を与えようと。むしろ、作品そのものより、アーキテクチャ自体のほうが創造的な時代なんじゃないかと。自分たちクリエイターに警鐘を鳴らす意味で、アーキテクチャをグランプリにしたと。そこら辺を僕なりに解釈しますと、アーキテクチャの対極にテクスチャーという考え方があって、テクスチャーという概念自体が、石井さんが「タンジブル・ビット」を発表された2000年頃から、ものすごい勢いで、日本でも世界でも流行ってきた。それは言葉を変え、企業の組織を変え、メディアを変え、タンジブルとか、アフォーダンスとか、あるいはエルゴノミクスとか、タクタイルとか、そういったキーワードが無数に氾濫したと思います。一方で、強く感じるのは、常に石井さんがやられていることは、テクスチャーとアーキテクチャが概念的に一切離れていなくて、まさに合致できているのがすごいと思う。最近は、「タンジブル・ビット(触感のある情報単位)」が進化して「ラディカル・アトムズ(革新的な原子)」のお話をよくされています。

石井裕:タンジブル・ビットを扱っていて、一番悩んだのは、デジタル上の状態と、フィジカルな状態の「非同期性」なんです。たとえばコップをテーブルの上に置くと、コンピュータはそれを認識する。コンピュータがコップのモデルを描くからです。ただし、コップをどこかに持っていても、テーブルはコップを検知できなくなるのに、情報環境としてはそれが存在しなくなったことを理解できずに、計算を続けてしまうということがある。さらにその下の階層では、どれだけコンピューテーションが進んでも、情報環境上のコップはディフォームしたり、ワープしたりできるのに、アトム(原子)の方のコップはちっとも踊ってくれないという退屈な乖離。そこの辺りが気になっていました。

編集部:情報空間と物理空間の差異から、新しい現実を作ろうとしているのは、科学的な発想でありながら、同時にとても哲学的なアプローチにも感じます。

石井裕:僕の中では、そこはまったく同じなんですね。哲学も科学もない。それを決めているのはラベルを張っているこっち側なわけで、あっちには関係が一切ないということです。そもそもコードを書くということはコンピュータを踊らせるということ。要するにプログラマーが神になることができる。ピクセルなら踊れる、ならばアトムとは未来の人間はどういう関係ができるのか。アトムも、ラディカルになって、一緒に踊れないか。分子レベルから高位のモジュールまで、個々の構成要素に、記憶と計算や通信の機能があって、外界からの信号にあわせて、変形したり、再構成される。色も、固さも、なにもかもが環境に合わせて変化するマテリアルができれば、アフォーダンスもなにもかも変革するでしょう。

編集部:石井さんチームの、そういった微視的な世界と巨視的な世界の結合はとてもビジョナリーで、刺激をうけます。僕らもよく話すのですが、広告でもクライアントへのコンセプトワークでも、物事を細かく見る顕微鏡と物事を俯瞰して見る望遠鏡の両方を持っていなければならないと。

石井裕:(『広告』の過去数号を手に取って眺めながら)『広告』は、今までの号を見ても、非常に面白いフレームワークを提案していますね。この「エコエゴエロ」とか「君の言っていることはすべて正しいけど、面白くない」なんて、特に面白い。昔、『エピステーメー』という雑誌があったのをご存じですか。非常に哲学っぽい雑誌です。あるいは、ICCが昔『インターコミュニケーション』という雑誌を出していました。もうなくなっちゃったけど、そういった志を感じますよ。まずすべての始まりとして、いわゆる文系とか理系とか言う分類、芸術と科学の敷居を作っちゃうような「ラベリング」がすべてを悪くしちゃうんだよね。

自分は理系だとか、自分はネクタイをしめているサラリーマンだというように、「ラベル」を貼った段階で、既に決定的に、自分の戦う空間を狭くしてしまっている。インターディシプリナリー(専門領域を超えること)はすごく大事なんだけれども、理系、文系、デザイナー、アーティスト、技術者がコラボレーションするというのは、本当のインターディスプリナリーじゃない。
アーティストというだけで、C+を駆使して、コーディングすることが、全く期待されてないのはなぜか。プログラムが、どういうふうにつくられるのか、何なのかが理解できない。何がつくれるか、つくれないかもわからないで良いと思っている。それは大きな機会損失だと思う。

一方、エンジニアに対しては、アーティスティックな、まさにこういうコンセプチュアルな貢献がまったく期待されてない。それぞれ自分たちの役割分担の中にとどまっている。
そういう定義された区分けから産まれるもの自体に、明らかな限界があって、各人が美学と工学の両方をつかんでいなければ本当はダメなんです。すなわち、アート、デザイン、サイエンス、エンジニアリング、そしてビジネス、この5つのランゲージを全部しゃべれて、すべての世界に翻訳するに耐え得る深いアイディアだけをやろうとしなければ、これからは一切戦えない。ですから、理系・文系とか、あるいは課長・部長とか、メディアとかアイディアだとか、なんだとか、ラベリングが完了した時点で、ものすごく人間本来のルネッサンス的、躍動的な才能の半分が封鎖されてしまっているということ。

これから求められるのは、絶対に、ルネッサンス・ボーイズやルネッサンス・ガールズです。
つまり、全知全能の興奮を謳歌できる人材。本当に頭の中に完璧にフュージョンしている人でない限り、創り上げられないビジョンが世界を引っ張ってゆく。大学を筆頭にコンパートメントライズされた学部と学科がばらばらになっているのでは戦えない。
そういう意味でMIT Media Labがユニークなのは、芸術と科学といったような分類学自体もほとんどなくて、サイエンスをやりながら音楽をやったりすることとかが、スタンダード。最高のハッカーでありながら、すごいスカルプター(彫刻家)であるとか、コンピュータグラフィックスのプロなんだけれども、ダンサーであるとか、少なくともアート&デザイン、アート&サイエンス両方ですごくとんがったものがない限り、化学反応は起きない。そういう意味で各人の頭の中にそういったエージェントがいて、切磋琢磨しながら常に議論している。それが普通。

編集部:これからの広告クリエイティブとして、僕らが目指しているカオスもそう。カンヌでも、SXSWでも、まさに世界中が、そういった物づくりのアーキテクチャを探し始めています。

石井裕:そういう意味では、今回のカンヌも短い期間ながら、スピーカーとしても、ビュウワーとしても、僕にとってもすごい刺激になった。いろいろなものを見させてもらって。ことに一番うれしかったのは、セダクティブ(煽情的)なピクセルが多いこと。そういうところに、僕の存在理由があるんです。なぜかというと、僕は、ピクセルを超越した世界、踊るタンジブルの世界をデザインしているのだから。映像や広告のクリエイティブには、ひとの感情を動かす技術が、ひしめき合っている。そういうところは大変、刺激になる。僕がこういうカンヌという場所で、広告や映像のクリエイターを前に話すのは、言わば「他流試合」なんですね。

僕自身も、MIT MediaLabにも、こういう他流試合を強く促しています。カンヌはサイエンティストの学会ではないので、昨日話したアイディアは、技術の詳細やアプリケーションの実用性ではなく、理念駆動の独創&競創文化に焦点を当てました。当然エンジニアリング的に書く場合は内容も狭く深くなりますし、サイエンティフィックな論理でもって、ペーパーを書く。それで、学会にインパクトを与える。なにごとにも、量と質の圧倒が大事。そういう意味で、アートとかデザインの分野でも、いろんなショーとか展覧会とかやらせていただいている。なぜそういうのをやるかというと、自分の土俵でないところの様々な分野に自分のノウハウを持っていってリアルタイムで翻訳してみると、そこでまた僕の頭が活性化する。そのリアルタイムの翻訳力、インプロビゼーション、自分と違ったコミュニティの価値観が刺激になる。違う業界のランゲージをできれば500ミリセカンドで理解する。次の500ミリセカンドで自分のアイディアを翻訳して投げかえす。その訓練がとても大事なんです。

編集部:昨日話されていた中でオーラリーの天体模型のハンドルの話が、とても印象的でした。血液など循環系、身体性から筋肉、細胞に至るまでを動かしているハンドル、そういった部分を人間になぞらえると、極めて多くの情報をアニメイトしていくこと、それらを同期していくことで我々は生きていると。一つ一つのパーツは可視化できなくても、そういった情報の総合系としてタンジブル・ビットを、オーラリーのハンドルを作りあげるんだと、そして次はラディカル・アトムズだと。

石井裕:そう。今の広告業界には残念ながら、その「ハンドル」がないように見える。興味深いパーツは無限にあるのに、中心となるエンゲージメントやエンボディメントが見えにくい。ハンドルがなくて、いかに美しいものを見ているだけでいいかという情けない議論に陥ってはいけない。コピーライターが多い業界だからこそ、安易でキャッチーな言葉の使い方、概念の使い方にも、注意しなければならない。「グリーンの嘘」ってありますよね。企業の根底の思想がエコでないときに、エコの広告を客引きとして使って。嘘つきのグリーン君になったら最悪だ。僕が、企業のトップと一番よく議論するのは、本当に地球のエコシステムのことを考えて、考えて、考え抜いているんですか、と。だったら、この製品をつくらないほうがエコじゃないですか。もっと大胆に変えちゃったほうがいいんじゃないですか。明らかに先行ブランドにこういうコンピュータがあるのに、なんで似たのを作ろうとするんですか。みんな中身は、アンドロイドじゃないですかって。そういうところまで突き詰めて話をすることなしに、いくらエコとかグリーンとか主張しても、生産ラインの一部分だけで風車でつくった電気使っていますから、うちはエコですみたいな、そういう小学校1年生みたいなばかな話が通った時代はあったんだけれども、もう通用しないですよ。

カンヌフェスティバルも、クリティカルなセミナーのタイトルなどを見ていると、本当かよ、本気で考えているのかよと、議論をふっかけたくなります。この製品を本当にアドバタイジングしたいのか、このパッケージを、この会社を。
クリエイティビティ・フェスティバルと銘打つのであれば、その場しのぎの雪かきみたいなものは、やめて欲しい。飛行機の機内誌のただページを埋めているだけの商品広告とか。21世紀に創造的に生きようとしている人がこれだけいる中で、「一体これは何ですか?」と思わず言いたくなるのもあるじゃないですか。創造性という言葉だけは会場中を走り回っているのに。

編集部:厳しいご意見ですが、本質的なハンドルがないという話しは受け止めなければならない。ただ業界全体が色々なレイヤーで、ハンドルを懸命に探しているというタイミングではあります。1:Nの時代から、石井先生のおっしゃるN:Nの時代のエコシステムに急激に変化しているので、ハンドルを探している、あるいは作り直している状態。広告業界はその成り立ちから、思考と行動の手癖みたいなものが根強い。
たとえばクライアントの宣伝部からのお題を部分最適で返すのがいまだ中心です。でも世の中のN:Nでつながったユーザーは、もはやそんなことはどうでもいいんですよ。革新的な商品と敬愛できる企業哲学の融合を見たいだけで。広告は長年、マーケティングと広告クリエイティブという、限定された左脳領域と右脳領域の掛け合わせでやってきました。これでは、石井さんの言う通り、MITで発表されているようなトップ企業50社のイノベーションのスピードにも着いて行けないですし、N:Nの時代の世の中の流れに対してのハンドルを作ることもできない。

石井裕:プロダクトやデヴァイス自体は毎日変わりますから、そこには意味がなくなってきている。それよりも全体の「エコシステム」の中で、自分がどこにいて、どんなメッセージを送ろうとしているのかを、すべての企業が本質的に突き詰めなければならない。あと、芸術と科学という二極対立は、気をつけた方がいい部分もあって、それはなにかと言うと、言葉遊びになってはいけないということ。つまりサブスタンシャル(実質的)な動きになっているかどうか、ということが重要。文系と理系の垣根を取り払うなんて当然のことで、その前提からどう跳躍できるかが問題。
ルネッサンス型の才能を集めて、どういうふうに彼らの脳細胞のシャッフルをするか。他流試合を繰り返して、反対意見、対立意見、違うカルチャー、異なる遺伝子を取り組んで、自分の技を変換していかなければいけない。それにつれて強くなる。僕は、「隠喩概念空間連想連続跳躍」の技と言っているんですが。隠喩と連想と、跳躍を手法として、見たもの、感じたものから、概念構築を一気に転がしていく訓練ですよね。それをするときに、サイエンスも必要だし、アートも必要だし、デザインも必要だし、あらゆるものを総動員しなければいけない。そういう意味で感性を磨き、人と共有し、それを鍛えるということを僕の研究室では、やっています。そのときに各人がコンパートメンタライズしたエンジンを持っていたら解釈ができない。いろんな解釈ってあるわけですね。なぜこれを見ているか。それはたまたま博報堂さんが何らかの理由で、こういうふうに貼ったということだったらちっともおもしろくないわけですよね。

ですから、クリエイティブな方にいつもお勧めしているのは、NASAの「今日の1枚」という写真があって、それに関してツィートしてもらう。この星のパターンはどういう意味を持ちます?この軌道は?このテクスチャーは?インパクトは? 科学的でも芸術的でも文学でも、独自な発想ならなんでもいい。それを見てツィートして、明日来くてださい。リツイートが50以下だったら採用しないみたいな、そういうテストですね。インタープレテーション(解釈)、漁師が海からとってきた魚を、瞬時に目の前で料理できる。その力とスピードがとても大事で、そのときにはいろんな包丁を持っていなければいけない。

編集部:僕らが具体的に接するのは日本の企業が多いのですが、実際に話すときに、石井さんの言う、果たしてどこまで本質まで考えられるのかという問題。企業の現場ってどちらかというと部分最適解になりがちで、こういうふうに考えるという組織の習慣や、こういうふうに問題を設計して、解決しなきゃという固定観念が強い。大学卒業したての個々の新人なんて、先生が言うほど、僕は悲観してなくて、すごく自由で野放図な学生が企業に毎年入ってきているのに、でも新人研修だとかなんだとかで、あっという間に洗脳されて、その部分最適解を解くということの企業ミッションを勝手に帯びちゃうという問題。たとえば、石井さんに企業がアプローチしてくるときは、こういう問題があるんですけれども石井さん一緒に考えてくださいと言われても、いやいや、その問題設計がもう既に違うんだとか、間違っているんだという感覚はありますか。

石井裕:まさにそうというか、問題提起こそすべてです。一番大事なのは、本質的な問いを問うこと、生み出すこと、それがはるかに大事で。

編集部:問いを生み出すほうが大事。

石井裕:問いをつくること。受験戦争みたいに、正解の存在が保証された問題を速く解く、間違いなく解く。あるいは、あったりまえのことを言う。日本の優秀大学系の人は、いわゆる古い意味での優秀なので、失敗したくないんですね。例えば「どう思いますか」と聞くと、「とてもおもしろいです」。確かにそういう考え方もあると思いますが、全く意味がないですよね、悪いけど。エントロピーが全く減らない。一言で言うと、人の人生を無駄にする。ピンぼけで7秒無駄にしたという話で。君との対話を通して、僕は一体どんな新しい事を学んだのだろう?「とてもおもしろかったです。ありがとうございます」どんなレッスンを学んだの?140字に要約して呟いてみて。顔が点になってしまう。だから、何を学んだかも言えない。学んでない。学んでも、それを表現できない。人に伝えられない。
例えば、とある家電メーカーが、Media Labに、テレビのリモコンは、どうしたらもっと使いやすくなりますかということを質問してくるんですけど。違う違う。何で今の時代、これからの時代に、リモートコントロールが必要なんですか、何でテレビが必要なんですかって。MITって、教授陣と学生の60%ぐらいは、もうすでにテレビを持ってないんです。企業人はそういうのを理解できない。テレビって、ある意味でもう存在そのものが、ディフューズし始めている。ですから、そもそもテレビというのは何なのか。なぜ、でかいスクリーンなのか、知的刺激のないコンテンツが大部分なのか。一家団欒という昔の幻想なのか。このリモートコントロールをいくらきれいにしたって、根本的にこいつのリエゾンデートルが終わりつつあるときに、そんなことをやってもしようがないじゃん。世界でも伸びているエレクトロニクスのブランドは、そういう議論を真剣にできる。徹底的に未来がどうなるかに関して議論していく。だから、儲かりまっせの自分の部分を超えて、こういった議論に賛同してくれる。ですから、これこそ、アーキテクチャですね。その上で、あんたはどこへ行くの? どこでお客様に価値を提供してお金を払っていただくの?そんな風に議論を深めて行かないと。

編集部:去年ここで審査員をさせていただき、ひしひしと感じたのは、カンヌフェスティバルで受賞している企業って、結局、広告だけじゃなくて、会社の業績も企業カルチャーも非常にうまくいっているブランドばかりです。Google、Apple、BMW、MERCEDES、NIKE、素晴らしいフィロソフィーを発信するという広告と、商品設計が世界をリードしているということが、ほとんどイコールというか、いい意味での連鎖反応になっている。つまり「ものがたり」と「ものづくり」の関係性こそが、企業じゃないかと思うのです。僕たちはその循環で企業を再生することに興味があります。

石井裕: それは本当にそうですね。Media Labもそういう存在でありたいし、広告業界や、映像の世界には、人を感動させる技術があります。そういう部分は本当に見習いたい。

編集部:日本のものづくりに関して「0→1→100」という議論があります。無から有を生み出す「0→1」と、エンジニアリングで量産したり改善したりする「1→100」で言うと、日本の企業はなかなか「0→1」のディスラプティブな発明が起きにくくなっていると言われていて。一方で、日本企業は、ベルトコンベアーやカイゼンに代表されるように、1から100に大量生産化していくのはいまだ得意だと言われます。何かプロトタイプがあれば、それをきれいにつくるとか、早くつくるとか、改善するとか、量産するとかは得意であると。アメリカから長年ご覧になっていて、どう思われていますか。

石井裕:一番嫌いなのは「日本人て独創性ないですよね」って決めつける論調。そんな論調やってる暇あれば、ばんばん創造してほしい。メモリーの量産化ができても、すごいCPUがデザインできないっていうけど、日本製のセルプロセッサを見てみてくださいよ。日本人はすごいんです。一番大事なのは、自分たちはだめだなと思った段階で、ラベルを貼った段階で半分終止符を打っているわけで。なぜ、自分の発想の、あるいは若い人たちの発想の可能性を否定するようなばかなことを言うのか。仮に思ってても言っちゃだめ。

精神論を脇に置くと、当然いろいろな分析がありますけれども、やっぱり同じデヴァイス、同じハードウェア、最高の品質という前提の中で、勝負の軸が細いところに行ってないか。タッチの感度がいいとか、なになにが薄いとか、そういう。それで負けている。この悲惨さ。もうちょっと根源的に言うと、昔、日本のブランドって世界中の目標だったわけです、スティーブ・ジョブズにとっても、Samsungにとっても。もう一回そうなりたいのか、なりたくないのか、そこですね。それにちゃんと、イエスかノーかで答える。ノーだったら、儲かることを目標に、ニッチな世界で効率的にやる。でも、屈辱的ですよね。プライドオフになる。あるいは、大きな看板を下ろして、スタートアップでどんどんやったほうがはるかにいいんじゃないかということもある。

クルマや家電、PCにおけるこのスペック競争。何か思考停止しているんじゃないのと感じる部分もある。More is Betterじゃなくて、Less is Moreという、そういう哲学でなければいけない。昨日の講演後の対談でも言いましたが、サイレンス、あるいは空白が大事だということ。人々の想像力と記憶で補完されて初めて完成する作品の強さ。

編集部:伺いました。余白の美の話し。

石井裕:だから、エンプティーな心と物体の間を埋めさせること。音とドットの間にサイレンスがある。それが日本の美であって、そこを完膚無きまでにあらゆるピクセルで埋めてしまうのは、センスレスではないか。うちの父はIBMのコンピュータのプログラマーだったんです。彼からもいろいろ学びましたが、彼が持ち帰ってくるIBMの広報誌が『無限大』というすばらしい雑誌で、そこには文化的・哲学的なすばらしい考察があふれていました。たとえば歌舞伎や能に対する感性の考察で、余白にどれだけの趣が構築されているかを論じていた。アメリカ人というのは、文化的な不安で、無言を嫌ってしゃべりまくるでしょう、でかい声で。日本の美は、サイレンス。あるいは、空間の白い部分。余白の設計で受け手の想像力を生めることが、日本の美学のコアだと思う。

編集部:MITのような未来創造、ルネッサンス的発想と、いわゆる日本の企業の日常的現実とは、一体どう重ね合わせていけばいいのでしょうか。日本の企業は、具体的に四半期で収支を上げて、株主に業績報告しなきゃいけない。部署内のミッションもあります。つまり電機メーカーで言うと、例えばこのテレビという黒い箱を売れというミッションの中に存続を保っている方々もたくさんいらっしゃるわけです。もともと優秀で天才的なエンジニアとかクリエイターがいても、そういうものを現実の会議では負わされているというその距離を、具体的にどういうふうなかたちで埋めていけばいいのでしょう。

石井裕:一番大切なのは切磋琢磨の教育。僕がMITで教授をやらせてもらっているのは、自分で勝手に天職だと思ってて。僕のグループ、競争率は100倍なんです。世界中からすごいポートフォリオを持った連中が200~300人来て、その中から財政的な枠があるので、2人ぐらいしかとれない。その才能から、非常に強烈な技術力と、芸術的なデザイン力、コミュニケーション力を持った人間をつくり上げる。そういうやつと徹底的に次のビジョンを議論する。会社でも、学校でも、人を育て続けることが一番大事だと思っています。他流試合、異種格闘技を通して、彼ら、彼女らが急速に伸びる、そんな環境を作り続けたい。

僕は、出る杭力、道程力、造山力の3つって言っている。出る杭力って、結局、出る杭は、力いっぱい頭を打たれて、打たれて。だから、生き延びるためには打たれないところまで、出すぎちゃうしかないんだと。道程力は、僕の前に道はない、僕の後に道はできる。要するに、自分で道を切り開く。100m競争で人より速く走ることは競争じゃない。誰も分け入ったことない原野を一人切り開いて、孤独に耐えて全力失踪する。そこには観客も審判もストップウォッチもないんだということ。最後の造山力は僕の経験から。僕はMITに来たときに未踏の山を登ろうとやってきた。しかし、結局山は自分で造らなければならなかった、ということ。僕はゼロから山自体を造り、それに最初に登頂することができたからこそ、MITで生き残ることができた。そういう真剣勝負の緊張感を学生にも伝えたい。

編集部:率直に言いますと、MITの石井裕教授というと、ジーニアスで創造的な科学者だと思われて、『広告』の読者に思考停止されるのが一番嫌なんですね。石井さんは、実は、その昔、NTTという言わば日本一巨大で階層的だと思われている組織から飛び出して、フレキシブルで実験的なMIT Media Labへと跳躍したわけです。その辺りで、恐怖とか葛藤はなかったのでしょうか。

石井裕:NTTは確かに大きくて保守的な側面がある会社かも知れませんが、僕はNTTじゃないですし、MITでもない。僕は僕なわけです。僕の仕事とか、僕の人間性を、見る人は見る。パーソナルコンピュータの生みの親であるアラン・ケイが、僕をある学会に招待してくれた。僕は昨日みたいな講演を同じようなパッションでやった。その直後にMedia Labの創始者であるニコラス・ネグロポンテとアラン・ケイが僕のところへ来て「MITへ来い」と。休憩は10分だった。「10分考えさせてくれ」と言って、10分考えて「わかりました。行く」と答えた。

彼らも教授会だとかなんだとかで、僕を推薦するリスクをとってくれた。僕にとっても、すごいリスクなわけですよ。アメリカに住んだこともないし、アメリカの大学を卒業してないし、あの頃は英語も得意ではなかったし。でも、きっと何かやっていけるんじゃないかという期待があって、それに絶対応えなきゃいけないって、本当に必死で山を造り続けたんです。

ニコラス・ネグロポンテは僕を、MITに呼んだときに言ってくれました。「HIROSHI、これまでと同じものはやめろ。人生は短い。新しいことに挑むことこそが最高の贅沢なんだ」と。

ラディカル・アトムズの研究は、傍目から見ればクレイジーかもしれない。しかし、僕の人生は長くないんだ。50年後には僕はこの世にいないんです。あなたも、2100年にはおそらくいないんですよ。では、2200年の世界はどうか。僕たちが科学や芸術やデザインの力を結集して何かを作るということは、そういう未来の次世代に手紙を送っているのと同じなんです。

2200年の子孫に、2200年の地球に、一体どういうメッセージを、どういう文明を、残すことができるか。
僕はそれだけを考えて、毎日、生きています。