タイトル
生きつづける顔
著者 / 話者

編集部
世界的にも稀有な面(おもて)を用いた舞台芸術である能を知ることで、「顔」というテーマに迫ることができないかと考え、現代を代表するシテ方である玄祥さんのもとに伺いました。まず率直に聞かせてください、能において面(おもて)とはどのような存在なのでしょうか。
梅若
能のなかで最も大切なのは面です。もちろん、装束とか、そういうことも大事でしょう。舞うこと、謡うことも大切です。けれども、一番の表現のもとになるものはやはり能面なんです。だから、面がいまどんな表情を「してくれているか」、その能面を使いこなせているかどうかが一番気になることです。例えば能面をこうして手に持てば見えるけれども、それをつけているときにはもちろん見えません。ましてやどんな表情になっているかはわからない。これは、自身の顔を見ることができないということと全く一緒なわけです。
世阿弥の言葉に「離見の見(りけんのけん)」というものがあります。「自分を見つめるもう一人の自分がいる」というような状態を表す言葉で、僕自身はこの言葉をそのもう一人の自分が僕を支配しているような状態だと受け取っているのですが、「離見の見」によって面を見ることが大切なのです。
これは父から幾度も言われたことなんだけれども、いい能面、例えば室町ぐらいから伝わる能面というのはあるけれども、じゃあ、そのすばらしい能面をかけたら、すごくいい表情をしてくれて、すばらしい能になるかというと、そうじゃないんですね。それをどれだけ使えるか使いこなせるか、面には、その面の中にある自分の持っている芸とか技術がどれだけのものか、それがもう全て見えちゃうんですよ。
なぜそんなことが言えるかと言うと、僕自身がそれを本当に体験してしまっているからです。梅若家にはあるすばらしい「若女」の面があります。まだ20代前半だった若い時分、「熊野」という演目を舞うとなったとき、父親に「この面をつけて舞っていいですか」と言うと、父は「まあ、いいけれども、無理じゃないか」といいました。でも、その頃は意気盛んで生意気ですからね、「いや、大丈夫です」ということで、その面をつけて舞ったんですよ。舞い終えて、自分としてはうまくいったと思っていた。ところが、半月ぐらいしてできてきた写真を見て、ハッとしました。面と体とが全く離れているんですよ。一体になってない。
編集部
それは写真を見て感じられるものなんですか。
梅若
写真でわかっちゃうぐらいダメだったのですね。本当に自分を恥じました。芸もまだできてないのに、使いこなせないものを使うなど、大きなことを言ってしまったというすごい反省があったのです。
その面をある程度使えるようになったのは40代です。もう怖くて、あんまり使えなかったんだけれども、あるとき、その人だったら遠慮なく感想を言ってくれる同輩の人の前で、「これをちょっと使ってみるから見てください」といって舞いました。舞い終えて聞くと、「先生よく似合っていましたよ」って。ホッとしましたね。芸がそこまで行ったということではなくて、やっとそれを使える入口になったということがね。でも、それを使えるようになることと、使いこなせるということは違います。この若女の面は、今でもまだ使いこなせるところまでは行ってないかもしれません。面とは相性もあるのです。たぶん、僕はその面と本当は相性が悪いのかもしれないね。本当に、すばらしい面なのだけど。
編集部
数は少ないですが、能には面をつけない「直面(ひためん)」というものもありますね。これはどのようなものですか。
梅若
「直面」という言葉の通り、あれも「直面」というひとつの面なのです。そういうふうに解釈しないと、これが私の顔だから梅若玄祥ですよといって舞台へ出て行くわけにもいきません。直面の場合、表情は無表情にと言われ、その役柄に合ったような顔をするわけでは絶対ないんだけれども、それでも心持ちが必要なわけです。心持ちがあれば、自然、その人の表情というのとは違う、面としての表情というようなものが出るのです。
歌舞伎には「見得」というものがありますよね。あれを表情と取ってはいけないと僕は思う。一瞬の何か、クローズアップということももちろんあるけれども、あれも一種の能面なんですよ。歌舞伎は化粧をしますが、化粧ということ自体がひとつの面だと思います。
この間、ロバート・ハインデルという亡くなった画家の個展を大阪でやっておりました。その方はバレエや能などを描く方なんですが、彼の能の絵には顔がないんですよ、全く。あえて潰されている。そこに顔を描いたらそれでもう表現が止まってしまう。描くのではなくて、見る人が想像するのだということです。おもしろいでしょう。僕らが「直面」のときは、もしかしたら、この顔というものは消えてしまわなければいけないのかもしれません。
編集部
能面をつかうのが上手いというのは、どういうことですか。
梅若
役の思いや表情を出せる人です。それから、能面によって、その能の色というものを見せてくれる人。淡い色なのか、濃い色なのか、褐色なのか、そういうのがその面の使い方によって何か能舞台を支配するときがあるのです。観世寿夫さんは、50ちょっとで亡くなってしまった僕の先輩ですが、その方が最後に舞ったのは「通盛」という能でした。その作品には海の中に沈む話が途中にあります。僕には、その海の中の世界が青い藻のような感じに見えたのです。びっくりしてね。モスグリーンの衣装で統一していたこともありますが、能面によってそういうふうに色が見えてくるということがあるのです。
編集部
ぜひ伺ってみたかったのが、梅若さんが実際に面をつけて舞われる一連のプロセスのなかで面との間にどのような関わりが起っているのかということです。例えば、まずどのようにして「面を選ぶ」のでしょうか。
梅若
例えば、喜多流の大先輩の方などは、何の曲の女性をやっても、いつも同じ面をおつけになる。もう選ばない。それだけ。あれはもう自分の顔なんですね。それがすごくよくわかるんだ。安心して舞えるわけですよ。今どういう表情をしているかわかるしね。
僕はそこまでではないけれども、一つの舞台で、使える面が数多くあるというわけではありません。まあせいぜい5~6面の中から選ぶわけです。例えば今度の演目が「羽衣」だったら、「羽衣」の天女というのは、どういった天女にしたいか。本当に清純な感じにしたいのか、もっともっと色気があふれるような豊満な感じの天女にしたいのか。それによっても全然違うわけですよね。だから、それをまず決めてから面を選ぶようにしています。
編集部
他の流派や家に伝わる面をお借りして舞うということもあると聞きますが。
梅若
あります。その面を手に取って、いいなということももちろんありますけれども、舞台でおつけになっていらっしゃるのを拝見して「この面はすばらしいな。僕も使ってみたい」ということがあるわけです。うちの面なんかにしても、5~6人の方が使いたいとおっしゃってお借りに見えることがありますよ。そうしてお貸しすることもよくあります。
編集部
面は家に受け継がれているものですが、考えてみると、私たちの顔自身もある意味では親から受け継がれているものかもしれません。家族の顔は似ているという意味で。「面を受け継ぐ」というのはどういうことなのでしょうか。
梅若
おっしゃるとおりですね。おもしろいことに、家によって伝わっている能面の何か風(ふう)といいますか色というものが違います。私どもでしたら、梅若風とでもいうのかな。丹波猿楽からずっと血がつながってきたわけではないんだけれども、芸としてつながってくれたとか、そういった何か、人間の想いみたいなものまでがつながれてきていると思うときがあります。確かに、どの面も芸風に合っているんですよ、どういうわけか。
だから、例えば他のお家の面を拝借することはあるんだけれども、僕がいいなと思っても、それは能面として良いのであって、家の流れの中としてはダメなときもあるわけです。そういうときは、やはり良い舞台にはならないですね。
編集部
それでは、梅若さんが実際にその「面をつける」時、そこには何が起るのでしょうか。
梅若
僕が一番大切にするのはタイミングです。面をつけるタイミング。「鏡の間」と言って大きな三面鏡のようなものがある空間で、その前の床几というのに座って、台に置かれた能面と対峙するわけです。そうして、タイミングを見計らって面をつけるのですが、なかなかつけられないときもあるわけです。タイミングを逸してしまうというのか、それをつける気持ちにならない。また、スーッと何事もなく「面」と言って、つけられるときもある。かっこよく言ってしまうと、その能面と向かい合って、気持ちが合ったときにつけるということなのかもしれないけれども、そんなにかっこいいものではないと思います。何か「間」みたいなものがあり、そこから能が始まるのです。だから、その間というものを十分に自分の中で納得させていないといけない。
面のつけ方は全て一つの作法に則っています。まず、後見の人が面を出します。面を受け取って、能面に向かって一礼。「つけさせていただきます」と心で言う。それで、紐を左右に振り分けて、面を顔につける。そうすると、後見の人が紐を後ろへやって、締める前に、紐の高さ、「あたり」をあわせる。後見の人が「おあたりは」と言ったら「はい、結構です」と言う。そうして紐を締め、全ての準備が整うわけです。それは大切な儀式です。面をつけない状態で鏡の前に座ったとき、それはもう自分ではなくなりかけているのです。カツラや衣装を全てつけて、鏡の間に座る瞬間には、もう99.9%ぐらい役のほうに気持ちが向かっています。そして、最後の0.1ぐらいのところの瞬間で面をつけるわけですね。でも、そのわずか0.1が、今始まる能を全て支配するものになるわけです。つけた瞬間は、何も考えないですね。「〇〇になりました」とかっていうことは考えない。考えずに幕の前へ行き、「お幕」と言う。すると幕がスーッと上がるんですね。そうして、いわゆる異次元へと入って行く。
幕の中は、古くは「母親の胎内だと思え」という言い方があります。体内から異次元へと入っていき、また、最後は再び幕の中に入って「母親の胎内におさまる」という。人間の生き死にというのは、この繰り返しです。
編集部
実際に舞台に出て舞われるときというのは、面とのあいだにどのような関わりが起るのでしょうか。
梅若
それは演目にもよるし、能面にもよると思います。時には能面のほうが先に行ってしまうこともあります。先へ行ってしまった面を僕が後から追いかけて行くみたいな。それがどういう感覚かを説明するのは難しいんだけれども。そういう場合は、たぶんその能面に舞わされちゃっているような感じになっているのかもしれない。
編集部
視界は相当に狭く、顔に合わなければ片目しか見えない面も多いと聞きますが、そこから見える世界というのはどういうものですか。
梅若
非常に心地よくて、僕は大好きです。視野はものすごく狭く、暗い。中には本当に見えないものもあって、どうしようかと思うことはあるんだけれども、むしろ、そうした面の方が集中できる。おもしろいですね。その暗闇のなかで、色々な世界が見えてくることがあります。見えるような感覚に陥ってくるようなときというのが。昔、うちの祖父が父親のことを稽古したときの話。お月さまを見る型があったんですって。父はこの角度だったらきちっと見えるからいいなと思って、パッと見た。すると「もう一遍あそこをやってごらん」と祖父が言った。「はい」。「全然だめだね」と言う。「おまえは何を見ているんだ」と言われて、父は「あの月夜のお月さんを見ています。あそこのちょうどあの辺の一角が一番角度がいいと思いまして」と答えた。父はえらくまじめな人なんです。祖父は「おまえさんね、月というのはおなかにあるんだよ」という。「おまえさんのはただ見ているだけで、そこには何も見えてない。見る前におなかで思いなさい」。心で思ってスーッと見たらそこに月が見えてくるんですね。何かすごい芸談になっちゃうんだけれども、そうじゃなくて、思いがなくて芸というのはできないだろうと、祖父は言っているのです。おまえさんのは、それはただ角度だと。顔の角度でしかない。心のないものだよ。ということ。祖父にはそれがわかってしまうのです。それが面の中の世界かもしれませんね。
編集部
面をつけて舞っていらっしゃるときに、梅若玄祥さん個人はどこにあるのですか。
梅若
個人があると感じとったことは、あまりないですね。例えば、「この役はどうのこうのってお考えになっていらっしゃるんでしょう?」と言う方がいるけれど、僕は何にも考えないんです。そこで考えてたんじゃダメなわけです。舞台に出るときは、全部もうない状態で、無の状態で出て、そこで何かが起こっていかなくちゃいけない。思いは持っていますよ。思いは持っているけれども、そこで発する声だとか何かは、どんな声とか、何にも考えないし、謡もなるべく考えないようにしている。幕から出て、その中を通り抜けて、また幕へ帰ってくる。そういった思いでやったほうがいいんじゃないかなと。そのように思うときがありますね。
編集部
女性の面をつけて性別を超えるということ、女性としての艶やかさや悲哀を醸すというのはとてもすごいことだと思うのですが、それは実際にはどのような感覚なのでしょうか。
梅若
例えば芝居を例に取るとわかりやすいと思います。芝居には女形というのがありますよね。逆に女性が男性を演じる場合もある。その場合は、やっぱり女性を何か再現するというような感覚がおありになると思うんですよ。衣装にしても、ちゃんと当時の風俗の衣装を着て、頭も髷をちゃんと結ってするとか、その演目によってね。お化粧も女性らしいお化粧をする。しかし、能というのは、唐織という装束、女性の姿となると、基本的にはこれだけなのです。いわゆる正装ですね。そうすると、これは女を表現するのかというと、そうでもない。能では、その女性の持っている何か内面みたいなものを表現すればよいのであって、もっと言ってしまえば、人間の奥底にあるものを表現すればいいわけです。だから、もしかしたら男も女もないのかもしれない。能の場合には、あくまでこれは仮の姿なのだから、声も、絶対に女の声を出しませんよね。野太い、男の声のまま女性をやるのです。

編集部
面は室町から何百年というときを経て伝わっているものもありますが、そうした、人よりも長い歴史のある面をつけて舞うというのはどういった気持ちなのでしょうか。
梅若
面には色々な人の息とかそういうのがしみついているものです。面の表ではなく裏面を見たときにより、そうしたものを感じますよ。この間、これは観世宗家の面だったのですけれども、もしかしたら世阿弥が使ったのではないかというような面があるのです。それを「今回はつけてください」とおっしゃったので、かけさせていただいた。本当に世阿弥がつけたか真偽はわからない。わからないけれども、でも、それぐらいな人がもうずうっとつけて代々観世家に伝わってきた、大変有名な能面なのです。そこには、何か畏れ多いといいますか、恐怖のようなものが一瞬あったですね。本当に私がつけてしまってよいのかというようなことを思いました。
編集部
玄祥さんがお書きになった「まことの花」という本のなかで、「面にいのちを吹き込む」という表現がありました。なにか“いのち”ということが大切なテーマだと感じられたのですが、それはどのようなものでしょうか。
梅若
少し話が違うかもしれないけれども、例えば文楽がありますね。文楽のあの人形の頭(かしら)ってあるでしょう。あれは舞台が済むと、無造作にポーンと抜いちゃいますよね。で、胴体と別に置くみたいです。だから、そこでその命を切っているわけですよ、残らないように。舞台で生きるようにしているわけですね。ところが能面は、ずうっと生きているのですよ。怖いときがあるのです、そういう意味で。
編集部
つけていないときも、面は生きているという。
梅若
息をしているように感じるときがあるのです。だから僕は、本当に、面は「顔」なのだという気がするのです。
編集部
面は顔そのものだと。

梅若 はい。面は決して物ではないのです。仮面、仮の面ではないのです。この部屋にある写真の面も、おそらく何百年もの間使われていなかった面なのです。成田山新勝寺に寺宝の能面が30面ぐらいあることを僕が知って、父親に「あそこにいい姥の面があるから、使われたらどうですか」と言ったら、「うちにちょうどいいものがないから、では、拝借しようか」ということになった。これがとっても父親に合っていたんです。何百年使われてなくても、この面は生き続けてきたわけです。

編集部 面を選ぶとき、つけるとき、舞うときのお話を伺ってきました。「面を外すとき」についても聞かせていただけますか?

梅若 余韻と言ってはいけないのかもしれないんだけども、僕は、外すときのほうが愛おしいときがありますね。「やれやれ」というのではなくて、なにか非常に充実感を持って幕の中に入って、ずうっとこのままでいたいなと思うときがあります。そういうときは、静かに座って、ゆっくりと面を取ってもらうのです。なにかこう剥ぎ取られてしまうのは嫌なの。みんな、暑いだろうと思って、一生懸命早く取ってくれるんだけれども、ちょっとゆっくりゆっくりって、よく言うんです。
面を外すのは、自分に戻るときです。だから、それまでの間はもちこたえなくてはいけない。父や祖父も言っていましたのは、装束を取るまでは役の気持ちといいますか、女性だったら女性の気持ち、思いみたいなのをきちっと持っていないと、無造作に歩いたりしちゃダメだというのです。全てを取って初めて素になって、浴衣でも着たときに、本当に自分になる。

編集部 徐々にほどけていくような感じなのですね。それが急に外されてしまうと、違和感があるということですか。

梅若 そのときやったものがダメになっていく気がする。今勤めたものが、見えないところで台無しになってしまう気がするのです。つけるときと同様に、外す間というのも、僕はあると思いますね。

編集部 いや、本当に面白く興味深いお話を沢山聞かせていただきました。不躾ですが、改めて聞かせてください。能における面というのは、一体何なのでしょうか。なぜ能には面があり、面とは何なのでしょうか?

梅若 そうですね。それは一番難しいご質問になると思うんですけれども、その問いが今、僕たち能役者の一番の課題だと思いますよ。面とは何か。なぜ面をつけるようになったのか、という原点のところへもう一遍かえっていかないと本当の意味はわからないかもしれない。僕らは子どものときから面をつけて遊んでいたりして、なにかそれがもう自然になってきているわけですよ。だから、これで何をするとか、何になるとかっていうふうなことはね、ひとつも教えてくれないんですね。祖父も教えてくれない。父も教えてくれない。先輩も教えてくれない。意地悪じゃなくて、もしかすると自分たちもわからなかったのかもしれない、正直に言うと。それは、理屈で言えば簡単です。能というのは仮面劇であって、面によって最小の表現をするものであるという。こう言っちゃうとこれで済むんだけれども、僕は、そうじゃないだろうと思う。よく言われる「仮面劇」というのに、すごく抵抗があるのです。面は「仮の面」じゃない。「生きているものを生きている者がつけるんだ」という意識なんです。だから、そこには一種の闘いがあるんですよ。面と人間との。

編集部 面と人間との闘いですか。

梅若 そう。変な面は絶対につけたくないですからね。嫌だと思った面、変な面をつけてしまうとね、自分が全て否定されてしまうみたいに考えちゃうのかな。これからやろうとすることもね。役者にもプライドがあるけれども、面にもプライドがあると思いますね。おまえなんかにつけられてたまるかというプライドが。だから、さきほどお話したような拒否、面が僕を拒否するということも出てくるのかもしれない。
能にとって面は何なのか。もちろん大事なものには違いないし、必要不可欠なものでもあるし、能面がなかったら、能というものはあり得ないということもわかるんだけどね。「じゃ、何なんですか?」という問いにこたえるのは、僕たちの永遠のテーマだね。本当の意味で。

編集部 その問いを、真剣に問うている姿というのが、能にある種の生命力を生んでいったのではないでしょうか。本当に謙虚に能を舞っていらっしゃる方の面とのじりじりとした格闘みたいなものを、特にシテ方が舞台中央に黙ってじっと座り地謡が主人公について語る「居グセ」とよばれる場面をみていると感じます。やはり面あっての能なのだと。

梅若 でしょう。

編集部 すごく良いお能を観ているときって、なにかフッと全然関係ない物思いに飛んじゃうときがあるんです。あれはとても不思議なんですけど。舞台をすごく集中して観ているのに、ふだん考えないようなことをフッと考える。やがてまた物語のほうに戻る。そういう何とも言えない余白の感覚がたまらなくて、能舞台に足を運んでいます。

梅若 はい。よくわかります。演じている者にも、そういうときがありますよね。役に集中しながらも、フッと役と違うところにいっているような。

編集部 そうですか。では、それが観る人に伝播しているのかもしれないですね。

梅若 自分がどういうふうに動いているというより、「動かされていた」というような感覚になっているときもあるのです。これはね、僕の失敗談でもあるんだけども、今までに一回だけ、シテ柱に激突しちゃったことがある。『空海』という新作をやっていてね、幕のとこからドーンと走っていって舞台へ入る。変な話、普通だったら僕は絶対そういう失敗がない人なんですよ。ちゃんとこう行って、今度こちらに立ったら、絶対この角度でこう回る。でもその日に限って、どういうわけか、なにかそれがスポーンと飛んじゃったんですよ。飛んじゃって、ふっとなったら、ボーンとぶつかった。えらい勢いで跳ね返されて、またそのまま舞い続けましたけどね。あれは失敗ではあったんだけど、逆に、「僕もこういうことが経験できたんだ」と思ったの。うれしいということもないんだけれども、失敗したということで、「あぁ、これはよかった」と思ったんですよ。

編集部 そのとき、計算されたものではない、何かに飛んでいた感覚ですか?

梅若 うん、飛んでいましたね、その点は本当に。だから、ぶつかった瞬間、何だかわからなかった。「えっ、ちょっと待って。何が起こったんだ?」って。でも、その時は、もしかしたら初めて本当に集中できたかなと思ったくらいの瞬間だったんですよ。
これはお能ではなくて、踊りの話ですが、六世藤間勘十郎さんと、歌舞伎の名女形と言われていた中村歌右衛門さんがいらっしゃいましょう。あの方が『二人椀久』をされたんですって。もうわりとお年になってからです。そうしたらね、どういうわけか二人一緒に間違ったんだって、それで、一瞬、知っている人はどうしようと思ったんですって。そうしたら、その瞬間、ワーッて、今度はすっごく素晴らしい踊りになっていっちゃった。有名な話なんですよ。失敗というもののなかから、なにかゾーッと気持ちが静まってくるような集中力が生まれることがあるんですね。

編集部 80を越えられるようなお年を召された方のお能を拝見していると、時に本当に立ち上がれなくなられたりすることがあるのですけど、なにかその後から、フッっとエネルギーが増すということがあって、それはたぶん囃子方や地謡の方もハッとして、そこでグッとエネルギーを入れてくるというのもあるのだと思いますが、そうした瞬間に、「あぁ、いいものを観た」という気持ちになることがあります。

梅若 よく分かります。僕はこの間、片山幽雪先生の後見をしたんですね、あの方のすばらしいのはね、立つときは手を突いて立たれたが、それでいいんですよね。その瞬間から、集中して舞台にグッと力が出る。もう幽雪先生の思いが、こんな塊がグーッと舞台に出ているんですよ。本当にすばらしかった。

編集部 私たちがつくっている雑誌では、今回エコ・エゴ・エロスという3つをテーマにしていて、顔はその3つが渦巻く場ということで注目したのですが、舞台という場のなかでひとりひとりの想いや力、エゴがぶつかりあいながら、そこに艶やかさや色気が生まれているという意味で、まさしく能舞台そのものにエコ・エゴ・エロがあるとも思うのですが、いかがでしょうか。

梅若 例えばオーケストラだったら、中心になるコンサートマスターがいらっしゃいますよね。能で言えば、大鼓と謡をリードする地頭、この二人です。二人の息と信頼関係、それの上に乗っているのが主役のシテなんです。エロスとおっしゃったけれども、その役割というのは、もちろんシテ役にもあるかもしれないけど、僕は地謡だと思っていますよ。あの地謡による華やぎとか、華やかさだとか、思いとか、それこそ愛とかいうものをちゃんと歌い上げていかないと、シテは乗れない、乗っかれないんです。その上にシテが乗れば、舞台はもっと華やかなものになるし、愛を表現することもできる。逆にいったら、シテはそれを否定することもできるわけです。無機質な舞をすることで、「こういうふうにあなたは歌うけれども、私は違います」っていうような感じでスッと外すと、そこにおもしろさが出てくる。表情豊かな地謡と、それを盛り上げるような囃子があって、そこに無、本当に無機質なものを表現することによって、それが渾然一体となってすばらしいものができることが多いですね。だから、お年寄りがいいというのは、わりと無機質に舞えるからです。

編集部 無機質な舞いというのが、やはり一つの境地ということですか。

梅若 そうですね。全部あなたたちのものを受け入れてあげるよという舞い。この体に全部おいでというようなものだと思うんです。若いときというのは、自分というものがあり過ぎるから、それを否定しちゃうときがあるんですね。弾けちゃうときがあるんだ。

編集部 ほかの地謡であったりを弾いて私が出てきてしまう?

梅若 そうですね。だから、入るというより、通り抜ける。「体を通り抜けていく」といった表現が理想になります。本当に能というのはすごくよくできていると思うのが、地謡と囃子の関係ね。これはやっぱり650年間かけてつくり上げてきたものだなと思うんですよ。父も祖父もよく言ってましたけれども、地謡と囃子さえよければ舞える。父親はね、僕を10代のときから地頭として徹底的に勉強させたんですよ。何百番、1千番近いのを歌ってるのでないかな。自分の理想の地謡をつくりたかったのかもしれないね。

編集部 新作能もそうですけれど、玄祥さんは新しいことにも次々とチャレンジされているという印象があります。これから先、玄祥さんの能全体に対する思いというのは?

梅若 そうですね。僕は能はなくならないと思うんだけれども、御国が保護するような芸能だけにはなってほしくない。だったら、そうなったときに僕はやめたいと思っている。偉そうなことを言っているけど、なんかもっと自由でありたいのです。だから、能楽師はこうあるべきだとか、能役者はこうあるべきだというように何か定義づけるということではなくて、僕らが何かを、別に能舞台じゃなくてもいいから、舞台という空間に出たときに、能役者であり能楽師であればいいと思うんです。そこで誰かに否定されれば、それまでですね。それは僕の技量が、足らなかったのでしょうと思います。
僕は例えばバレエのマイヤ・プリセツカヤさんであるとかヤンヤン・タンさんと一緒に舞台をしました。別にバレエと一緒にやったから、バレエっぽく能を舞うとかいうことじゃないわけでしょう。自分の思っていることをその場で表現すればいいんだから。私がバレエをやったら、おかしいですよ、それは。

編集部 玄祥さんのバレエというのも拝見してみたいですけれども(笑)

梅若 やってみてもいいけどね(笑)僕が出れば、能役者が出ればそれは能であると思っています。良い意味の自由。自由といったって、何事も全部がそういうわけではないですが、それをわかった上での自由ですからね。能役者がやるという意識で何事もやっていけばいいのだと思います。

編集部 僕らのようなものの訪問に答えてくださること自体が、玄祥さんの自由さというか心深さだというように感じました。周りの人間からは恐れ多いことをと言われたりもしながら、少し緊張して来たんですけど、やさしく迎えてくださってありがとうございました。

梅若 とんでもない、楽しかったです。