タイトル
数理アプローチと文学テクスチャ
著者 / 話者

形式・テーマ・デバイス

元々本を読むのが好きで、特に僕は「変な小説」が好きなんですよね。一応、小説には筋があることになっていますが、別に筋なんてなくてもいいし、家族の生活とか人の感情の揺れを描く必要もない。登場人物が内面をまったく独白しないまま進行してもいい。そういう形式上の工夫されているものを楽しいと感じます。「あ」を使わないとかでもいい。実際、フランスで「e」を使わない小説があって、なんと翻訳までされています(ジョルジュ・ペレック『煙滅』)。そういう変な、共感も経験もなくて文字なんだから何をやってもいいだろう、みたいな取り組み方をしている作品が、筒井康隆さんなんかそうなのですが、全体で見ると減っている気がする。その原因は売れないからなんでしょうけど、そこに加勢したいという気持ちがありますね。

自分としては結構素で書いているんですよ。これまで読んできたものや好きなものから自然に出てきた作品なので、自分が最前線を切り拓いているとか、そういう意識はありません。とはいえ「前衛」と呼ばれるのも分かるし、「80年代の再来だよね」と呼ばれるのも分かります。ただ、「理系」と括るのはそろそろやめたらどうかという思いはあります。日本の人口の半分くらいは理系と呼ばれうる人で、そっちを無視して文学を続けるのは無理なんです。僕たちの生活には電子機器やテクノロジーが浸透していて、おじいちゃんが孫と話すためにSkypeを使うという時代になっている。それを無視して理系vs文系とか言っていてもしょうがない。テクノロジーが出てきたらSFと判断してしまうのもある程度は仕方ないんですが、周りをよく見れば、現代はもはやSFっぽいテクノロジーが実現しています。例えば『これはペンです』にはテクノロジーの話が入っているけれど、現時点でそんなに無理なものは出していないんです。つまり、あそこに書かれているものは現実に存在するものだし、それに従事している人が結構いることは忘れないほうがいいと思うんです。

こうした「何を書くか」という問題と同程度に、「どうやって書くのか」というのも意識しています。ワープロがなかったら僕自身はたぶん文章を書けない。今でも原稿用紙に書いてらっしゃる方もいらっしゃいますが、僕は機械支援がないと無理で、入力デバイスは重要と思っている。考えてみれば、岩にノミで彫るような時代には書き手が後世に是非残したいことを刻み込むはずで、「今日、鳥を食べた」とか彫るような人は少し変ですよね。同様に、かな漢字変換システムの候補から探す人の文章と、漢文の教養を備えた人が書く文章とは全く違うものになるはず。つまり、メディアやデバイスの変化に伴って、コンテンツの中身、作り方、そして受容のされ方が変化するのは自然なことなんです。そのどちらが良くてどちらが悪いみたいなことは僕は思わない。それに、僕自身も、やはり楽になる手段をいつも考えています。極論してしまえば、編集さんから指定を頂いたら、それを機械に入力して作品が出てくればそれでいいじゃないですか。完全に機械化されると僕が不要になるという問題がありますけど(笑)、作者をブラックボックスと捉えれば同じですよね。それの何がいけないのか。実際、ハーレクイン・ロマンスが筋を自動生成しているとか、映画シナリオは経験則から脚本の構成をある程度決められたりと、今も既に事例はあるわけです。それを小説でやらない理由はない。同時に、そうやったら、そういう手法を使ったらできないことも当然出てくるだろう、とも思っています。その「できないこと」を探っているのかもしれません。

物語ブロック同士の関係を描く「変な図」

お仕事をいただいたときは、まず枚数を訊くんです。枚数が決まっていなくても書けて、自分が完成と思った所が終わり、という人も結構いらっしゃるんですけど、僕は予め枚数、そしてできれば行数と文字数も教えてもらいたいと思っています。そういった枠と、掲載される媒体の性質、どんな人が読む媒体なのか、などを考えるのが最初です。そういう方式を採っているのは小説を仕事と思っているから。「俺は芸術作品を作るのだ」という人は素晴らしいと思うのですが、僕の場合はそれでは飢え死にしてしまうので、締め切り、枚数、自分のカラーなどを勘案して、受注されたものを納品するというイメージに近づけられればいいな、と思っています。実際にはなかなかうまくいかないんですけど。

例えば、僕は一日20枚以上は書けないので100枚の依頼が来たら最低5日掛かる。しかも小説はよくわからないところがあって、最後まで行ってから廃棄する可能性がある。それでは怖いので、チェックポイントを作って、この日までにここまでできればOK……といった「制作管理」をしている。ただ、僕は「プロット」とか「変な図」と呼んでいる図で管理していて、人と共有するのが難しい。小学校のときにやったような、この場面では何が起きるといった図なら他の人とも共有できるでしょうが、お話の「感じ」で何となく作っているので。例えば起承転結というのも——僕は小説に起承転結がなくても別にいいと思っていますが——物語のブロック間の関係であってキャラクターではないですよね。ある部分が他の部分とどう関係するかという構造であって、伝えにくいし本当にあるものかすら分からない。僕は100枚と言われると、そういった、幾つのブロックに分けようか、そしてブロックの間の関係を考えることが多くて、その段階で編集さんは「ここの関係はこうじゃないですか」とは言いづらい気はします(笑)。

ただ、こういう書き方が良いのかという話はありまして。書いているうちに作者の意図しなかった所へ行ってしまうのが理想であるという説には、割と賛同するので、予め考えていないことを新たに考えられるような書き方にしようとしています。なので『これはペンです』や『道化師の蝶』辺りからは、あまり「変な図」を描かなくなってきました。それが何故かは自分でも分かりません。が、その頃、小説で何が伝わっているのか、ちょっと分からなくなったんです。形式だけで伝わるのでもなく、内容だけで伝わっているのでもない何か変なものがあるようだと実感して、もう一度考えなおしてみたいと。ウラジーミル・ナボコフが僕くらいの年にフランス経由でロシアからアメリカに渡り、ロシア語作家から英語作家になったと知って、言語をガラッと切り替えるなんてできるのか?と思ったとか、妻の仕事の関係でサンフランシスコに行ったとか、言語環境を意識する機会が多かったのも関係しているのかもしれません。

自分が読みたいものを書いてきた

もともと高校生までは作文は嫌いで、長く書けませんでした。それが大学に勤務している頃、朝晩の空き時間にできることとして「じゃあ書いてみるか」と思ったんです。そうしたら、書けてしまった。その頃は本を買うお金もなく、自分で読みたいものなら、自分で書いてやれと考えてもいました。以来、朝2時間、夜2時間で1話終わる程度のものを、どこかに送るともなく毎日書いていた。一日が終わる時に明日は何を書こうかと考えるささやかな趣味として、全体の構想も、いつ終わりにするかもなく書き溜めていた感じです。それをまとめたのが『Self-Reference ENGINE』。この作品は、世界観や構想といったものはなかったのですが、自分の見ている通り、感じている通りに書こうという気持ちはあったんです。自分のしているような見方が「なかったこと」にされている気がしたので、「こういうのもあるよ」と差し出しておいた方がいいかなと。いざ差し出してみたら「これはリアリズムじゃない」とか言われて「えっ、自分が感じていたものはリアリズムじゃなかったのか」と思ったりしましたが(笑)。ちなみに今でも、自分が読みたいものを書くという気持ちはありますね。

そうやってまとめた物を何となく出版社に送った後も、朝晩に書く癖は残っていたので、他の賞にも応募してみることにしました。応募先は、僕がジャンルの区別もあまり付いていなかったのでどこでもよかった。ただ、エンターテインメント系は規定枚数が200枚とか500枚と多く、落ちた時のダメージが大きいのでやめました(笑)。それ以外にも、賞の選考はどの選者に当たるかという運の部分も大きいので、良い選者に当たるまで数を撃つには枚数の少ないジャンルにする必要がある。そう考えて純文学賞に絞って応募していました。ちょうどその頃早川書房から『Self-Reference ENGINE』を本にするので次の作品も書いてくれと言われて『Boy's Surface』を書いたり、『Self-Reference ENGINE』が出た頃に「文學界」の新人賞を頂いたりとよく分からない感じになって今に至ります。本当に偶然の重なりでここまで来ました。

僕の文章は軽いと思います。地の文章は特に。一つ一つの文が短かったり、代名詞が多かったりするんですが、これは物理や数学の翻訳教科書の影響ですね。その手の教科書は、翻訳しているのが物理や数学の専門家であって、翻訳の専門家でないから、訳文がぎこちない。癖なのでどちらかというと直したいのですが、ああいう文体でないと書けないものもやはりある。例えば何かを説明する時、読みやすさよりも可能性を埋め尽くす形を採ろうとすると、そういう書き方が向いていると思うんです。すると、さっきの話と同じで、そういう文体で小説を書いて何がいけないのかと。そして同時に、この文体では描けないものもあるのだろう、という思いもあって、その間を考えるんです。ただ、今の文体も、締め切りという時間制限の下で文体の優先度が低めだから選ばれているので、文体コンシャスの依頼、例えば五言律詩でとか四六駢儷文でという指示を頂ければ、やれるかどうかはともかく、取り組んではみると思います。

小説が「生き残る」ために

最近作品を翻訳していただいて知ったのですが、翻訳作業には決まったワークフローがほとんどないようなんです。訳者がなんか訳して終わり、みたいな形が慣習らしい。それだと単純な誤訳が心配なので確認をさせて欲しい旨申し入れたら驚かれて、逆にこっちも驚きました。見せてもらったのは英語だからまだ良かったですが、韓国語版の『道化師の蝶』などどう確認していいのか(笑)。

こうした翻訳をどう織り込んで書いていくのかも難しくて、村上春樹さんはご自身で翻訳も手がけることで世界中に通用する形を採っている。それは素晴らしいのですが、いざ自分はどうするか、となると悩ましいですね。例えば泉鏡花の作品は確かに素晴らしい。でも、日本語の情感に満ちているけれど、具体的に何が起きたのかよく分からないような彼の作品を訳すのは難しいですよね。かと言って、泉鏡花は世界に通用しないからダメと否定するのもおかしい。そうすると「他所は他所」という話になってしまうんですが、それもどこまで正しいのか……

ただ、村上春樹さん以降、世界に知られる日本人作家が出てきていないのでは、と危惧しています。次のノーベル賞候補になるような人は誰かいたほうがいい。そうしないと日本文学が世界的に存在しないことになってしまう。書き手の数は増えたはずなんですが、外への発信力が弱まっている面があるので、全員が海外を目指すべきということではないにしても、席が空いているのなら誰か座っておけとは思います。

それに、日本で携帯電話が普及した時、ケータイ小説と呼ばれる新しい形式の小説が生まれたにも関わらず、いわゆるお固い小説家の人たちは何もしなかった。つまり、文学は当時、ケータイ小説に負けたというかちょっと先を越された。今はケータイ小説が少し下火になってはいますが、小説がジャンルとして生き延びようとするのであれば、そういう新しい表現に絡まないといけないと思うんです。もちろん、小説家全員がやるべきという話ではなく、お調子者がついていくのでいいんですが、そうした方がジャンル全体が長続きして「文豪」も生き残れるはず。だから僕はなるべくついていくようにはしようと。電子書籍や電子データとしての小説、ストックではなくフローに対応した小説とはどんなものか、というのも考えています。

ただ、こういう話を編集さんにすると「そんなことまで考えないで下さい」とか言われるんですが(笑)、僕はやはりそちら側、土台を整えておこう、みたいな発想から入るので、「俺の歌を聴けぇ!」と熱情を発するのは後回しになるんですよね。