タイトル
建築の限りない透明化
著者 / 話者

きわめて緻密で繊細なのに、おおらか。圧倒されるほどマッシブなのに、空気のように軽やか。張り詰めた緊張感がありながら、不思議な心地よさも感じる。誰も見たことがなかった新しい風景であるはずなのに、そこには誰もが感覚的に理解できる普遍性がある。

石上氏の作品は、きわめてロジカルに、そして建築的に説明される。しかし、実際に目の前に現れる空間は、その言葉で語られているもの以上の何かである。それは確かに建築であるのだが、その質は、人を取り巻く環境のような何か、としか表現できないものだ。

石上氏のインタビューでは「都市をランドスケープと捉える」「ランドスケープのようなスケール感の建築」など、「ランドスケープ」という言葉が多く聞かれた。しかし、その言葉を曖昧に使用しているわけではないことがわかる。既存の建築や都市の概念・言葉では捉えられない何かを、ランドスケープという言葉がもつおおらかな質感に背負わせている。
緻密で、大きくて、ゆっくりとうつろう、何か。

新しい世界をつくるためには、それを捉えることのできる新しい概念が必要だ。石上氏の言葉からは、新しい概念と向き合う思考の痕跡が読み取れる。


感性とロジック

僕は、ロジックと感性というのは分けられないものだと思っています。もちろん建築で言うと、与えられたプログラム(※その建築の役割・機能のこと)に対してどうやって機能的に解決していくかということは大前提としてありますが、それはロジックだけでも感性だけでも成り立つものではありません。

特に今の時代を考えると、与えられたプログラムというものをどこまで信用していいのかどうかというジャッジをしなければダメなんじゃないかと思っています。20世紀前半の機能主義の時代のように、プログラムそのものが絶対的で、それが成り立つ時代もあったのかもしれませんが、現代はそれほど単純に建築は成り立たなくなりつつあると思っています。物事の価値観は、100年前と比べものにならないくらい多様化しているし、その変化のスピードもものすごい。そういう意味ではクライアントの条件であるプログラム自体も、明日にはその正統性を失うかもしれないし、もしかしたら今すぐにでも、クライアント自身が別の誰かに変わってしまうかもしれません。そのような、とても複雑で割りきれない状況の中で建築を考えていかなければならない。今はそういう時代なのではないかと思います。

そのとき、そういう流動性の中でも成立しうるような普遍性をどのようにつくっていけるかが、少なくとも建築においては、現代的な大きい課題だと思っています。
現代の世の中のあり方をロジカルに説明出来るような、都合の良いっしすてむは今のところないように思っています。情報は毎日雨のように降り注ぎ、また、その雨が蒸発するかのように僕らも周囲に拡散して、場合によっては消え、場合によってはまた雨として降り注ぐ、その繰り返しです。経済の状態ですら、予想はできたとしても、確定的な未来を言い当てることはできません。そういう世界に生きている僕達は、ロジックと感性を分けると言うことに意味を見出せないのでないかと思っています。

何かもっと別の、ロジックでも感性でもない、新しい価値判断の方法を身につけなければならないし、もしかしたら、そろそろ、そういう新しい価値判断の方法を知らず知らずのうちに使い始めているのかもしれません。

言葉について

僕は自分がつくった建築に対して自分の言葉でしか説明できないというのは弱いと思うのです。もしくは、自分の言葉の中でも、一つの方向からしか説明できないというのは建築にならないと思います。

もちろんアート作品として、美術館の中で作家のつくったことを読み解くこと自体がその作品の機能だとしたら、それはそれでいいのかもしれないけど、建築の場合は、少なくともそれだけでは成立しません。もちろん、建築もその作家の意図というのはどこかしらには入っていると思うし、それは読み解けるべきだとは思うのですが、やはりそれだけでは成立しないものだと思います。
建築は複数の視点が入って初めて成り立つもので、だからこそ、使われる言葉というのもプレゼンテーションする場所によって変わっていくものだと僕は思っています。

境界が多様性を生む

建築のカテゴリーを横断するっていう考え方はあまりしないです。ほかのジャンルが持っている良いところを建築に取り入れるということはあるかもしれないけど、建築という領域を超えていく、ということはあまり考えません。

むしろ価値観が多様になった今の時代だからこそ、それぞれの領域やカテゴリーというのが結構重要だと思うのです。
もちろん、無数にあるカテゴリーの中には、消えてゆくものもあるし、新しくあらわれてくるものもたくさんあります。その明滅は、僕達には認識出来ないような速度なのかもしれません。しかしながら、人間の生活に関わる部分や、もっとそれより根本的な自然現象など、普遍的なものは相変わらず存在し続けていくように思います。そういう部分がないと、僕たちは現代の渦を巻くような流動性の中で安心して暮らしていけない気がしています。そのような時代だからこそ、建築はそのカテゴリーを維持しなければならない気がするし、簡単にその領域を乗り越えて他のジャンルと融合し、別なものになってはならないのだと思います。
今のクリエイティビティは単に新しいものを見出すことだけではないと思っています。古いものと新しいものとを等価に、同列に扱うことの方が、新旧に優劣をつけるよりもすごく重要だと僕は感じています。新しいカテゴリーを生み出すことよりも、その等価性こそが新鮮な方向性を見出す糸口になるのではないかと思っています。
等価性の中ではカテゴリーを乗り越えることの意味すらなくなってしまうと思います。無数に並列価値観やカテゴリーのなかで、新しい関係性をつくりだすことができたら、そこにはなにか見たこともないような世界が拡がっているのかもしれません。

都市をランドスケープとして捉える

世界には、中国とかインドとか、現代化の波の中で、今まさに劇的に変化し、発展しつつある都市がたくさんあります。そういう中で、東京は現代都市として、あるレベルで成熟の域に達している状況だと思います。また、東京の場合は、少なくともパリやローマなどのように歴史的に保存されている都市ではなく、常に変化し続けている都市ですし、今後もその状況は続くでしょう。そういう意味でも、現代的です。

だからこそ、その変化の中に新しい時代の、新しい都市のあり方を取り込んで、新しい時代に見合った都市に、常に変化していかなければなりません。僕は、そう考えています。ローマのように現状を維持し続けることは、東京では不可能です。だから、間違った方向に進まないように、その都度、方向修正とあたらしい価値観を取り込む必要があるんじゃないかと思うんです。つまり、東京という街には、常に新しい都市の概念が必要です。常に新しい概念の都市を提案し続けなくてはなりません。

中国などとはもちろん課題が異なりますが、しっかり次のフェーズを考えるべきときだと思うのでっす。つまり、これから来るだろう世の中の価値観に今の東京のあり方をどうやって会わせていくかという提案をし続けなければいけないと思っているのです。

僕は、東京は都市ではないのではないかという仮説をもっています。東京の場合、いわゆる都市をはっきりとかたちづくるストラクチャーのようなものはなく、また、はっきりした規則によって、形成されているわけではありません。基本的には複数のまちが境界線なく集合して、森や草原がどこまでも続いていくかのように、建物や風景が広大な範囲でひろがっています。全体としてみると、構造がよくわからない状態です。大雑把に言うとそういう風に捉えられるのではないと思っています。マンハッタンだったら、丘みたいな地形を無視してグリッドでつくられていますよね。

なんとなく、東京は、風景の連続のおうなもので出来上がっているのではないかな。と、漠然と思っていたりします。たとえば、地名を思い浮かべても、暗闇坂、桜鼓とか、霞ヶ関とか、何か風景のようなものを連想させます。西欧の、ストリートによってはっきりと区域と区画がわけられて出来上がる都市とはだいぶ違うように感じています。

他にも例を挙げると色々ありますが、そういう意味でも僕は、東京は都市と言うよりは、ランドスケープみたいなものに近いのではないかと仮定したい。そして、その先に、未来のまちのあり方について考えられたらな、と思っています。

「都市」よりも「ランドスケープ」の方が、スケールが大きいような気がします。そこに、可能性を感じています。実際、僕達は、都市という概念では、人間の生活範囲を捉えきれなくなりつつあるのではないかと思っています。20世紀以前では、大きくは都市を単位に人間の活動を捉えられたのかもしれないけれど、現代はそのスケールを大きく超えて、もっと大きなエリア、もしくは、極端には、地球全体くらいのスケールで、僕たちの活動を捉えなければならないような状況が迫って来ていると思います。地球全体というと大げさかもしれないけれど、それでも、現状の都市という概念を超えたスケールでないと、今まさに世の中が問題としている課題に答えられない気がします。例えば、環境問題とか、高度なグローバル化とか、情報の速度と広がりとか。だからこそ、都市という概念の次の考え方が必要なのでは、と考えています。現状の都市のスケールを大きく超えるような考え方をつくりだす必要性を、僕はつよく感じています。

スケール感

このプロジェクトは、敷地が野球場の隣にあります。野球場から球がいっぱい飛んでくるので、もともと広場としては使えない場所だったんです。そこに大きな屋根をかけて、野球のボールを防ぎつつ、カフェ兼多目的広場をつくるというプロジェクトです。

広場は半屋外的な空間になるので、建築的な空間のスケールを超えた、もっと風景のようなスケール感でゆったりとした建築をつくりたいと考えています。建築って柱とか梁とかが出てくると、なかにいると大体そのスケールがわかってしまうのです。柱を配置するなら、大体5mとか7mスパンで飛ばさなきゃいけないとか、それぐらい飛ばしたら、梁の大きさがこのくらいになるとか、それくらい飛ばしたら、張りの厚みが60センチくらいになるとか、建築のスケール感が空間の大きさから大体決まってしまいます。

このプロジェクトでは、ランドスケープに近いぐらいのスケール感で建築をつくりたいと考えています。だとすると、やはり柱が邪魔なんじゃないかと。ですので、100mぐらいのスパンの大屋根をつくろうと考えました。柱が完全にない開放的な大空間をつくろうとしています。

でも、例えば飛行機の格納庫とか、大きな機械を入れる工場とか、工業的な建築だったら100mスパン柱なしの建築は実際にあるんです。100m柱がないとなると、梁は3mとか4mとかの巨大なものになってしまいます。天井高も30mとか40mとかすごく高いものが一般的です。そういうものはメガストラクチャーと呼ばれていて、人間のスケールを超えた構造体です。では、どうして人間のスケールを超えてるのか。それは、機械とか飛行機とか、人間スケールじゃないものを念頭につくられているからです。

しかしこのプロジェクトでは、人が心地よく過ごす建築をつくるわけですから、同じ100mのスパンの無柱の大屋根でつくられたメガストラクチャー的な空間であっても、人間が感じられるスケール感は重要だと思っていました。同時に、風景のような空間をつくりだすことがコンセプトなので、人間のスケールを超えたランドスケープ的なスケール感も必要です。

具体的には、9ミリの鉄板にテンションを入れて、無柱の極薄の大屋根をつくり出します。100mスパンの無柱の大屋根でありながら9ミリという極薄の屋根になります。また、100mの無柱の大空間でありながら、天井の高さは2.3mほどで、これは住宅の天井の高さと同じくらいです。水平方向には、草原のようなスケール感の空間が広がり、垂直方向は、住宅のような親密なスケール感の空間になります。巨大なスケールと極小のスケールが混ざりあう事で、この建物の中には、今まで見たことのないような、「空間」とも「風景」とも区別しがたいような、不思議な空間が出来上がります。

一般的には、建築って、動かないように見えて、実は常に動いているんです。どんなに小さな住宅であっても、一日の中で、温度によって少し寸法が変わったり、風に吹かれて揺れたりします。その動きは、メガストラクチャーの建築物になるとすごく大きくなります。例えば、東京ドームは、天井高は60mほどありますが、一日で天井の高さは1mほど上下します。でも、天井が人間から遠く離れた高い部分にあるので、その動きは、ほとんど気づきません。

この建物の場合も、100mスパンの無柱空間というメガストラクチャーなので、大きく建物が挙動し変化します。だいたい、一日で60-70cm前後は、天井高が変わります。つまり、天井の高さは2.3mと住宅並みに低く設定していますので、一日のなかで、天井が2.3mから3mくらいまで、変化することになります。東京ドームのように、天井高の変化で60mと61mの差はあまり感じられないかもしれませんが、2.3mと3mの違いはかなり大きくて、当然、そこに滞在する人たちは、その違いを認識出来ます。今日は天井が高いね。とか、今日はちょうどいいくらいかな。とか、そういう具合です。

例えば雲とかも天気や季節によって、垂れ下がってくるときがあるし、逆に少し空を高く感じられるときもあります。それと同じように、この建物も、できるだけ大きい平面で、できるだけ薄く平たい空間にしていくことで、天気が変わるように、そのスケールが空間に反映され、人間の感覚に影響するようになっています。この建物は、来年には出来上がる予定です。