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繰り返される諸行無常、よみがえる性的衝動

今回のザゼンボーイズの新作でもそうですし、過去のアルバム、さかのぼればNUMBER GIRLのメジャーデビューアルバムに入っている曲でも「繰り返される諸行無常」と「よみがえる性的衝動」というフレーズをセットで使っているんですが、フレーズ自体に深い意味というものはそんなになくて、当たり前のことを言っているだけなんですね。

どういうことかというと、「諸行は無常である」というのは、昔から一つの哲学としてあると思うんですけれども、それも当然のことであって、常に永久に存在するものはない。いつかはなくなってしまうものです。
その後に「性的衝動がよみがえる」と続きますが、これは何かと言うと、いわゆる本当に下品な話になりますし、それはセックスでもいいんですけれども、もっと個人的な“せんずり”ですね。シンプルに、ストレートに言ったほうがわかりやすいと思うんですが、“せんずり”の後ですね。そのときは満足するわけです。しかしながら、人によって差はあったとして、30分、1時間、2時間たった後、またムラムラしてきて、またなんか“せんずり”してしまいたくなるという、この繰り返しのことを言ってるわけですね。

それをもうちょっと大きく言うと、そういう人間の当たり前の欲求が、本能があって、男性と女性がまぐわって子どもが生まれると。子どもが生まれて、子どもが大人になって、その本能によって誰かとまぐわって、また子どもが生まれる。生まれるけど、また死んでしまうと。その次の子どもがまたムラムラきて子どもをつくる。この繰り返しという、本当に当たり前の人間というか生物の営みというか。それは動物的な本質を突いて「そういうもんだよ」って言っているニュアンスじゃなくて、要は、そうやってずっと繰り返されてきたなという。自分もその回転の中に今いるんだなという、そういうイメージがあってこのフレーズを使い始めたんですね。それで、何でそれをずっと繰り返し使い続けているかというと、今ではライブを始めるときの、もしくは曲が始まるときのイントロダクションの前口上みたいな感じになってきてますね。だから、その言葉を、フレーズを言うことで、「じゃ、おっ始まりますよ」というイメージなんですけれども。

音楽をやる理由、あるいは欲求の道筋

根本的に私が音楽をずっとやり続ける理由として、まず自分でつくった曲、つまりは自分の表現ですが、それは自己満足なんですね。本当にもう大いなる自己満足で、うぬぼれでもあるし、「自分がつくったものはなんてこんなに素晴らしいんだ」と思うわけです。しびれるギターリフができた、満足。カッコいいリズムができた、バンドでアンサンブルが決まった、気持ちいい、みたいなね。その最初の段階での満足と快感というものがあります。

そして、そこで満足していればいいものを、さらにそれを誰かに聴かせたいとやっぱり思う。物足りなくなるわけです。自分だけで満足できない。これを人にぶつけたい。もう、無理矢理にでも一方的にぶつけたいという要求ですね。いろんな人の耳の穴からズカズカと土足で入って行って、人の頭の中とか心の中を無茶苦茶にかき回してやりたいという、そういう衝動みたいなものがありまして。それで、作品をリリースしたり、人前に出てライブ演奏するわけですね。そこで、「やってやったぞ」と。「どうだ、このサウンド」と。

さらに言えば、そこだけじゃ、まだ物足りないわけです。それを受け取った人に自分のつくったものを褒めてもらいたいわけですね。いわゆる「褒めてもらう」が一番わかりやすい言い方だけれども、もうちょっと言えば、自分のしびれるような感覚と他者との感覚を共有したいわけです。いわばコミュニケーションしたいという欲求があって、それを求めてやっているんですね。でも、最終的な喜びというのは、もっと先に行って、男性よりは女性、もっと言えばOLさんとかですね。もちろん「OLさんじゃなきゃ駄目だ」じゃなくて、デパートガールでもいいんですけど、ある例としてね。個人的にしびれさせたい。「向井ちゃん、カッコいい」と言ってもらいたい、褒められたい、と。そこで、最終的な喜びが達成される。そこまで求めてやってますね。そうは達成されたことはないんですけども(笑)。要は、単純な今の道のりで、自分の欲求がそこまで届けば、自分の欲求の道筋はそこまであるということです。それを求めて音楽をやっているんですね。でも、昔から「バンドを組む理由は何ですか?」と聞かれたら、一言「もてたかったから」というのは共通しているんですよね、本当に。自己表現をしたいとか。

自己表現では、山奥で、しかも誰も来ない山小屋でずっと山の風景画を描き続け、川のせせらぎ、小鳥のさえずる声を聞きながら絵を描く毎日、最高だ……で、そこで一生を終えるような人もいると思うんです。風景画を描くことに満足して、特に他者とコミュニケーションすることもなく。確かにそういう人もいるんだけれども、私はそういう人ではないんですね。一方、半年に1回ぐらい社会人バンドが何組か集って、みんなでお金を出し合って、ライブハウスを借りて、奥さんとか友達とか呼んでライブ演奏をする。「それが趣味です」と。「これが生きがいです」という人もいっぱいいらっしゃる。ですが、私はそうでない。それじゃ満足できないということですね。自分の中にあるものを曲という形にして、なおかつ相手を揺さぶりたいということです。その感覚は「びっくりさせたい」ともちょっと違う。感情を揺さぶりたいということですね。

あるいは、私がある種の音楽を使って自分の意見を伝えたいという気持ちがあれば、また違ってくるでしょう。例えば、ハードコアなベジタリアンだったとして、「肉を食べるな」という曲をつくり、「みんな菜食主義者になったほうがいいよ」という曲でバーッとライブ演奏したりね。でも、そんな自分の意見やメッセージを音楽という手段で世に放つという考え方ではないわけです、私は。

もちろんお客さんが楽しむということは大切なことで、私らも一緒に盛り上がりたいという気持ちはもちろんあります。お客さんに楽しんでもらいたいというサービスみたいな部分も、もちろんあります。ですが、確固たる何か、例えばすごいわかりやすいメッセージとか、「私はこういうことを考えている」とか、怒っている、悲しい、楽しいとか、そういうシンプルな気持ちを音楽にしたいわけではなく、非常に複雑な気持ちや感情が渦巻いているんですね。それは、私のみならず、みんなそうだと思うんです。脳内にはいろんな思考が瞬間、瞬間で巡っているはずで、そういうところにコミットしたいという気持ちが大きいですね。

アンセムへの違和感

話がちょっとずれるかもしれませんけれど、いわゆるロックフェスティバルで、みんなが本当に盛り上がるような曲、会場に1万人いたら7,000人ぐらいが一気に盛り上がれるような曲、つまりアンセムですね。それを持っているバンドは、本当に盛り上がるわけです。ですが、アンセムには私は違和感がある。自分の場合、アンセムをつくるとかそういうことはできないんです、違和感があるから。サビのところで、みんなで一斉にタオルを振り回したりしてね。夏のロックフェスティバルへ行くと、その一体感がすごいわけです。しかし、それだけの人間、1万人ぐらいの人間を一体化させるパワーというのは、同じ音楽をやる人間として、うらやましさも覚えつつ、やはり違和感がある。「こんなに一体化できるものだろうか」とどこか疑問があるんですね。

ただ、自分が観客の立場だったら、例えばヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」という曲のイントロのシンセが鳴った瞬間、私も拳を振り上げて他の観客たちと一緒に盛り上がりますよ。リスナーとしてはね。ですが、自分がステージに立ってそこから見た時に、全員同じ動きをして同じような盛り上がり方をしていたら、非常に何か奇妙な、非現実的な風景に思えるわけですね。そういう意味では、アンセムをつくることはないと思うんです。
特に我々の音楽、ザゼンボーイズの場合は、リズムも非常に複雑だったり、ちょっとぎくしゃくしていて、それぞれお客さんのビートの取り方が違うわけです。だから、バラバラな感じになるんですね。横に動いている人もいれば縦に動いている人もいる。もちろんジーッと微動だにしない人もいて。ですが、それは自然な風景だなと自分は思うんですね。

1万人を束ねるのは本当にカリスマですが、そこにも違和感がある。自分がステージに立って、目の前の人たちに「みんな俺について来い!」みたいなね。それは少し怖い感じもする。スタジアムロックなどは宗教みたいなもので、そうなるのもわかるんですが、自分がやるときは、ちょっと気持ち悪いなと思うんです。決して自分がその人たちを牽引しようとか、引っ張っていこうとか、救ってあげようとか、そういう気持ちはないんですね。

ステージでの共感

私の違和感はお客さんが集団化しすぎると顔が見えなくなることにあるかもしれないですね。ただ、人気が出ると、それは見えませんよね、やっぱり。これはある種の複雑な、ちょっと屈折した気持ちで、いわゆる顔が見えないと嫌なんだけど、もっとセールス、動員を増やしたくないのかと言われれば、そうでもない。やっぱりお客さんに来てもらいたいですしね。今まで、そんな、自分たちのワンマンライブで1万人とかの規模でやったことがないからわからないですけれど。そこは多分、非常に小さいところから始まったミュージシャンにとって、どんどん大きくなるにつれてお客さんの顔が見えにくくなっていくというのはジレンマの一つだと思うんですけども。でも、やっぱり、ちょっと顔が見える距離感がいいなとは思いますね。

落語の高座はだいたい大きくても300人ぐらいのキャパシティなんだそうで、最近は落語ブームみたいな感じになって2,000~3,000人のホールでやることもあるらしいですね。落語家の立川志らく師匠はやっぱり生声が届かない距離感で落語をやるのは違うんじゃないかみたいなことをおっしゃっていて。それは物理的に自分の生声がサウンドシステムに乗っけないと届かないという問題もあるんでしょうけど、でも、確かにそれは理解できるような気がしますね。

歌詞のつくり方

いろんなところにいる誰かにつながりたいという気持ちはあっても、具体的に感情をこのように揺さぶりたいとか、我々のこのフレーズでこういう気持ちになってほしいということはないわけです。ただ、新作の「ポテトサラダ」の“ポテトサラダが食いてえ”というフレーズで、真っ正面から受けとめて「ポテトサラダが食べたいのね」と言われて、ポテトサラダを差し入れしてもらっても、ちょっと不思議なことになりますし、当然そういうことではないんですね。その“ポテトサラダが食いてえ”というフレーズで、私自身もそこに含まれる感情が一体何なのか全然わからなくて、それを聞いた人にもいろんな受けとめ方があると思うんです。そのフレーズを、ビートを、歌声を聴いたときに、何か思うことが、感じることがあればいいなと思うんです。いろんな人たちが、いろんな感じ方で。私はそれを求めますね。

自分は歌詞づくりを長年やってきてますが、脳内言語をそのまま本当に羅列したら、病気の人みたいな文字面になるわけですよ。それをある種、技術によって一つの形にするのは、これまでのキャリアで培ったものがあります。それは説明臭くないというよりは、なるべく自分にとって嘘臭くない言葉でつくりあげたいという気持ちですね。やっぱり思ってもないようなことを言ってしまうときの、あの何か申しわけない感じというか、そういうのはなるべく排除していきます。そうなると、どんどんシンプルになっていくんですね。

“ポテトサラダが食いてえ”というのも、「そのままじゃないか」と自分でも突っ込みを入れたくなるけれど、「そう思いついたんだからそれで行こうか」みたいな。その言葉だけじゃなくてバンドサウンドですから、そこに絡み合う感覚だったり、ドラムビート、もしくは私の歌、これらが全部一つに重なり合ったときに、なんかこう「わかるな。この感覚、詳しくはよくわからんけど、なんかわかるな」みたいな。「しびれるな」……そういうことですね。

歌い方

歌のスタイルは結構変わってきてますね。今までも自分の歌詞ができて、それを発声したときに自分としてベストな乗っかり方をする声のはり方を見つけてきたと思うんです。自分なりに、自分として違和感がない、ある人にとっては非常に違和感のあるボーカルかもしれないですけど、すごい耳にこびりつくように、「ポテトサラダが食いてえ」と連呼するわけです。それを女性が、例えばソプラノの女性ボーカリストが「ポテトサラダが食いてえ」って連呼したら、それはそれでおもしろいかもしれないですけれど、やっぱり乗っからないと思うんですね。自分の言葉を違和感なく表現できるスタイルを探していて、その「違和感なく」という基準も言葉では表現しきれないものなんですけどね。

ザゼンボーイズのサウンドに乗っかったときの歌ということで、そのバンドサウンドと相まって、おのずと歌い方も決まっていくと思います。私はソロでも活動していて、ライブでのギターの弾き語りなんですが、全く違うボーカリゼーション(発声)です。それは曲の違いではなくて、アプローチの違いですね。ザゼンボーイズの曲を弾き語りでもやりますし。でも、どちらにせよ、自分がつくった曲で、自分のつくった言葉ですから、私の中では区別というその方法、アウトプットの方法は違っても、その根本にあるものは同じなんです。

ザゼンボーイズのサウンドの中で、しっとりと歌っても、かき消されてしまって、全然テンションを感じられないですからね。やっぱり歌もそのバンドのサウンドの上に乗っかって、バンドサウンドを構成しているわけです。

バンドサウンドの構築法

バンドサウンドの構築のエッセンスはメンバーが4人いて、4つの楽器があって、それぞれの役割をちゃんと全うさせるということですね。どのサウンドも同じぐらい重要であると。いわゆる、伴奏になっちゃいかんわけですね。歌手がいて、バックのBGMみたいな感じになってはいけない。もっと、本当に一つ一つが非常に個性を持ったもので、あるいは、それぞれがいろんな方向を向いてバラバラになることもあるんだけども、最終的には合致して、そこで非常に力強いダイナミズムみたいなものが生まれる……。それがやっぱりバンドサウンドの理想ですから、それを目指してやっているわけです。

もちろんその理想は偶然に左右されるのではなく、それぞれが意識を持ってないとダメなものだと思いますね。名うてのジャズミージシャンが集まって、一発音を出し合って即興でセッションしよう、ジャムセッションしようって、それはそれでカッコいいんですが、ザゼンボーイズはそういうことでなく、一人一人が息を合わせる、あるいは呼吸を合わせることを意識しなければならない。

リズムを4人一斉に構築しているような感覚もありますね。ハーモニーもそうです。いわゆるベース音があって、ベースのコードがあって、キーのコードに対して、フォーマットがあるわけですね。そのフォーマットは残しつつも、音階がどんどん外れていってディスコードするぎりぎりのところで、なんかえらく不思議なハーモニーが生まれたりする。それは、試行錯誤してずっとやってきましたね。

ギターサウンドは、6本の鉄の弦が張ってあって、一本一本の鉄の弦が激しく震える振動、それをギターアンプで増幅させて鳴らす……エレキギターというのはそういうものなんですが、それをいかに鋭く鳴らすかということですね。鋭いジャキーンとしたサウンドが好きなわけです。それは、いわゆるギターアンプでひずませるのではなく、小説家で言ったら筆圧が強いみたいなものですか、自分が弦をかき鳴らすときのあのパワーでひずませる。そういうサウンドが好みですから、そんなギターの弾き方をしています。これはギブソンの335だとたぶんできないわけです。自分にとってはね。ずっとテレキャスターなので、たぶん弾けと言われても弾けないと思います。

歌と同じように、自分の感情の揺れ動きがそのまま手から直結して弦に振動が伝わって、ギターアンプからガーッと出る。ギターサウンドはそういうイメージですね。

歌の役割

七尾旅人が言うには「歌というのは最古のメディアである」と。そして、「言葉より先のコミュニケーションメディアではないか」、「まず一番最初に歌が生まれた。そこから始まった」と言っていたので、すごいなるほどなと思って。そんなうまいことを言えたらいいなと思って、今ここで言ってしまったんですけど、これはパクリだからダメです(笑)。

バンドサウンド、特にザゼンボーイズのバンドサウンドは、ドラム、ギター、ベースそして歌の全てによって構成され、それぞれが同じぐらい重要なものであると考えているんですが、では、歌は楽器かと言ったら、楽器ではない。歌は生身から出るものであり、最も肉体的なもので、やはり楽器とは言えないですね。ですが、一番ダイレクトに、ストレートに表現することができるものだと思います。

歌はメロディーじゃなくても歌になり得ますから、何でも歌になるんですね。そして人間の声って、同じ波形はないわけですよ。人それぞれ全く違うわけです。似ている声はあると思いますが、絶対に同じものはない。同じ言葉の発声でも声には細かい揺らぎがものすごくいっぱいあるわけですね。その揺らぎにいろんな感情が見え隠れすると思うんです。その揺らぎを持っているからこそ、人は声によってコミュニケーションできると思うんですね。