タイトル
非連続をつくるアントルプルヌア
著者 / 話者

こんな世界の作り方が長続きするわけない

今の東京を高層ビルから見渡すと、おびただしい数のビルとアスファルトが地表を埋め尽くし、驚くほどの情報と人が飛び交っています。東京はここ20年もの間、成熟社会と言われながらも、とても成熟したようには見えません。決して消費が悪いわけではありません。が、成熟とは何かを考える段階かもしれません。
 人間は目の前にあるものがつい当たり前のように思ってしまいますが、こんな世界の作り方がいつまでも続くことはない。現在の経済のあり方が人間社会のスタンダードだったわけではない。長い歴史の視点から見れば、今の経済構造も瞬間風速なのです。

現代の定石はたかだか数百年の話

ビジネスとフィロソフィー、アートとテクノロジー、これらの分野が今はかけ離れているように見えますが、これも人間が自然を理解しやすくするために、自分たちの都合で要素還元しただけの話です。自然科学と社会科学の分離もそうです。かつては哲学の中に数学も音楽も天文学も包含されていました。産業革命が起こったのが二百年前、もう少しさかのぼって哲学者でありながら機械論的世界観を提示したデカルトの頃を契機としても五百年前。さらに、古代ギリシャは多神教でしたが、世界で一神教が主流になったのがだいたい千年前。つまり、ビジネスがほかを捨て置いて突っ走っている現代におけるさまざまな定石は、人類の数万年の歴史の中で、たかだかこの数百年程度の話なのです。

人間を自由にするものとしての学問

そもそもすべての学問が一つのプールに入っていた名残は消えていません。事実、今でも教養学は総称して「リベラル・アーツ」と呼ばれます。古代ギリシャでは、奴隷ではなくこの確立した自由人の学問として「artes liberales」があり、その基本は哲学問答をするための素養でした。その問答の前提として、数学、幾何学、天文学、音楽などを自主的に学ぶことが教養とされていました。その後キリスト教的な解釈が加えられ、中世までの学問体系は、言語に関する三学:文法、修辞、弁証法(論理学)と、数学に関わる四科:算術、幾何、天文学、音楽となり、それらを統合する上位概念が哲学ということになった。これが、現代でいう教養「リベラル・アーツ」の起源です。アメリカにおける大学の大半は、「リベラル・アーツ・カレッジ」であり、そこでは専門性を磨くより、多様な学問に触れてものの考え方を養うことが目的とされています。ハーバード大学の本校は、今も「Faculty of Arts and Sciences」で、その中に哲学、歴史学、文学、経済学、物理学などが含まれています。ロースクールやビジネススクールなどは専門職大学院で、リベラル・アーツのずっとずっと下位概念なのです。確かに、人の体と心を分けること、モノの美と機能を分けることも実は最近のことで、それらは本来一つのものだった気がします。今、産業界で活躍する人には、こうした学問同士の本来持つ多領域性に改めて着目して、直感的に大きな可能性を探ろうとしている人々が多い。スティーブ・ジョブスは「アップルは恒にテクノロジーとリベラル・アーツの接点に立とうとしてきた」と言っていました。Googleのエリック・シュミットCEOは「Googleは単なる検索の会社ではない。科学全般を人のために変換するための創造的な組織だ」と述べています。このように学問の本来の姿に戻ろうという動きをしてきた企業のプロダクトデザインあるいはサービスデザインが、結果的に強いというのは興味深い事実です。

自然は克服するものではなく、学ぶもの

同じようにこの数百年の要素還元主義が犯した最大の犯罪は、自然を「学ぶもの」から「克服するもの」と勘違いしたことです。人類が化学を通じて作り出したプラスティックやポリマーは確かに優れた側面をもっています。しかし、それらを自然に帰すにはとんでもない環境破壊と時間とコストが伴います。プラスティックがもつ防水性は優れていますが、一方で、蓮の葉や水鳥がもつ防水性も素晴らしい。しかも、それらはいとも簡単に自然に帰すことが出来るのです。プラスティックという要素還元から生まれた知識ではなく、蓮の葉や水鳥のもつ親和的な構造をベースとした防水素材を人類は考えることも出来たのです。最近では、バイオミメティックス(生体模倣技術)やバイオミミクリー(生体応用技術)と呼ばれる学問領域が注目を集めるようになりましたが、それは自然を克服するという思い上がった知識体系ではなく、この素晴らしい自然から学び、新たなイノベーションのヒントにして行こうという考え方でっす。もし、こうした考えをもっと早く取り入れていれば、人類は違った道を歩んだかもしれません。
 漢方も同じです。患部を取り除く、病を化学物質で治療する西洋医学に対して、人間が本来持っている治癒力や免疫力を内部から高める東洋の医学を、なんだか古めかしい呪術のように勘違いしたことも大きな過ちでした。少なくともこの両者は排他的な関係にあるのではなく、相互補完的なものだと考えるべきだったのです。

人類ウィルス説

人類を宇宙から降ってきたウィルスを起源としていると論じる研究者さえいます。地球に存在する生命体の中で、人類だけが環境破壊を限度を超えて繰り返しているからです。人間以外のどんなに獰猛な動物でも、限度を超えて殺戮や捕食を繰りかえすことはありません。何故、人間だけが必要以上に絶滅種を創り出し、地球を傷つけ続けるのだろうか。原子力利用もまさにその典型例といえるでしょう。プルトニウムという半減期2万4000年もかかる超有害物質を、何の最終処理手段ももたず生成し続け、目先の利益を追い続けるというのは、生物界の摂理を超えた異常現象です。こうした常軌を逸した行動に人間が走るのは、人間が宿主を抹殺するまで攻撃を緩めないウィルスを起源としているからだという主張です。ウィルスは人や動物の体に寄生しなければ生きていけませんが、同時に増殖過程で宿主を重篤な病に陥れ死に至らせるケースがあります。宿主が死んでしまえば元も子もないのに、ウィルスはその性として攻撃を止めることが出来ないのです。確かに、今の人類を見ているとウィルスのような気がしないこともありません。宿主である地球にこれほどのダメージを与え続ける生物としての人類にウィルスとしての恐怖を覚えるのは、僕だけでしょうか。

過去を超える勇気

そういう意味においても、これまでの考え方や学問の大系に大きな変化が来ています。美意識や悦楽は経済的・経営的合理性の下位概念ではなく上位概念なのです。われわれは働くために生きているのではなく、生きて人生を謳歌するために働いているのです。再生可能エネルギーの開発も、結局は自然界にないものを利用する技術から、自然界にあるものをうまく利用する技術への移行です。こうした転換はなにも自然科学に限ったことではありません。
 少し横道にそれますが、現代のビジネス教育の最高峰に立つハーバード・ビジネススクールは1908年に創立されましたが、100周年を迎えた2008年にその教育手法に大きな変更を加えたといわれています。同スクールは、素人を法律家に育てるハーバード・ロースクールの判例研究(ケース・スタディ)を手本にケースを使ってリベラル・アーツを学んできた学生をプロのビジネスマンに育てることで名声を博してきました。いわゆるビジネス・ケースメソッドでっす。しかし、創立100年を迎えてその教育手法を自己否定し、フィールドワーク―アクション・ラーニング―論理思考を重視したものに転換しました。過去のビジネス事例を数多くシミュレーションして経営管理手法を導きだしていく方法から、自ら考え、自ら動く、創発的な方向へと大きく舵を切ったのです。これだけ、変化の激しい現代にあって、まだ誰も見たことがないイノベーションを起こすには、過去に答えを求めるだけでは解決にはならない。トップスクールがこれだけ成功してきた教育モデルを捨て去れるところに、アメリカの大学の強さを感じます。

投資家は助手席に座らなければいけない

日本もこれまでうまくいってきた成功モデルを否定して、新しいモデルに移行しなければならない時期に来ていると思います。たとえばiPhone、Facebook、Google……などなど、今僕らの生活に非連続的なワクワク感をもたらしているのは、実はみな最近生まれたビジネスばかりです。ちょっと前まで世界経済を牽引していたインテル、マイクロソフト、オラクル、シスコシステムズなども、比較的新しいビジネスでした。それに比べると、日本のビジネス界における新陳代謝はあまりにも遅い。いまでにガス、電気といった公共財事業や銀行、さらには自動車などが時価総額の上位に君臨しています。経済は既存大企業ばかりではなく、新しい企業が続々と生まれでることでダイナミックに成長します。もし、日本の戦後が相変わらず三井、三菱、住友といった財閥企業や鐘紡、東洋紡、日清紡といった戦前日本経済を主導した繊維産業にずっと牽引されていたらどうなったでしょう。やはり、川崎製鉄、ホンダ、ソニー、京セラ、日本電産などが続々と生まれたことで、日本の戦後は大きく発展しました。さらに、最近の日本の生活を実に便利にしてくれているコンビニや宅配便も新しく起業された業態変化を起こしたものでした。しかし、アメリカに比べてなぜこれほど新陳代謝が遅くなったのでしょうか?
 アメリカの新興企業の多くがシリコンバレーで生まれていることから、シリコンバレーにおける起業の仕組み、すなわちベンチャー・ビジネスやベンチャー・キャピタルに注目が集まってきました。なかでも、荒唐無稽な若者の斬新なアイディアに何億円も投資する、ベンチャー・キャピタルの存在は際だって面白い。YouTubeやFacebookといった「どうしてこれがビジネスになるんだろうか」と思うようなアイディアの原型に巨額の投資を行うことが、それまでの常識からいえば考えにくかったからです。そうするなかで、日本ではベンチャー・キャピタリストの「目利き」に賞賛が寄せられるようになってきました。しかし、少し冷めた見方のようですが、僕は、彼らは決して目利きだとは思いませんし、シリコンバレーだけがベンチャーの聖地だとも思いません。シリコンバレーとは場所の名前ではなくシステムの名前であり、ベンチャー・キャピタリストは「目利き」ではなく「同伴者」だと考えることがことの本質だと思うのです。数ある中でこれはというベンチャー企業を見抜くというのは、幼稚園児が100人いて、どの子がハンサムあるいは美人になるかを予測するようなものです。だから目利きなどいって囃し立てる人もいますが、そんなことは不可能です。時代環境や育ち方でハンサム・美人の要素も変わりますし、その基準ですら刻々変化する。ベンチャー・キャピタリストとは美人を予測するのではなく、「この子を美人にする」と決めて彼らと並走していく人たちなのです。彼らは時には、美の基準でさえ、自ら創ってしまう。交渉テーブルの向こう側に座って感想を述べているのではなく、テーブルを乗り越えてプレイヤーが運転する車の助手席に同乗する人たちなのです。

転んだやつを笑わない

当然、助手席の乗ってもうまく行かないこともあります。しかし、この失敗が企業家にも投資家にも素晴らしい学習の場となる。シリコンバレーの投資家は、同じビジネスプランだったら、過去に失敗した人間に投資するといわれています。例えば、これからカーレースに賭けるに当たって、かつてレースに出て事故の経験を持つドライバーと、今回初めてレースに出るドライバーだったら、どちらに賭けるでしょう。もちろん過去の事故内容にもよりますが、たいていは、失敗という経験を積んだ人の方がうまくいく確率は高いのです。つまり、失敗とは、損失ではなく資産である。僕は「転んだやつを笑わない」という言葉が好きです。転んだのは「歩こう」「走ろう」としたから転んだのであって、座っていればその人は絶対に転ばない。しかし座っていて、何か進歩があるのでしょうか?転んだやつがいるからこそ、われわれは常に新しい次元に到達してきたのです。座っているだけの人間に、転んだやつを笑う資格など、全くない。日本にもそろそろこのような価値観とシステムを定着させないと、新しいものはますます生まれなくなっていくのではないでしょうか。

アントルプルヌア(起業家)がもたらす富

シリコンバレーの仕組みが素晴らしいのは、ローリスク・ハイリターンを実現したことです。え?ベンチャーはハイリスク・ハイリターンではないのですか?とよく聞かれますが、それは投資家の話です。実際にビジネスをおこす人々(我々は彼らをアントルプルヌア=企業家と呼びます)があまりに大きなハイリスクに晒されていては、そこにチャレンジする才能がいなくなります。シリコンバレーの素晴らしいところは「システムとして彼らのリスクを低減した」ところです。支えているのは豊富なベンチャー・キャピタルの存在です。
 先程述べたようにベンチャー・キャピタルは融資ではなく投資であり、彼らは助手席に乗る同乗者です。だから、失敗しても投資金を返せとはいいません。このベンチャー・キャピタルが豊富だということは、企業家にとってはこのゲームへのエントリーリスクが極めて低いということです。加えて、シリコンバレーには上場しやすく透明性が高いために資金流通量の多いナスダックという優れた上場市場があります。facebookは少し度を超していますが、20代の若者が8兆円もの時価総額を実現出来るマーケットなのです。このハイリターンにチャレンジする若者に、豊富なローリスクマネーが取り揃えてあれば、チャレンジが起こらないわけがないのです。
 こんなことは日本では不可能でしょうか。僕はそんなことはないと考えます。アメリカでもそうでしたが、1970年代に年金基金の大改革があって基金の一部をリスクマネーとして投資していいという判断が下されたのです。日本には200兆円を超える郵貯や簡保の資金がほとんど無駄金になって死んでいます。この5パーセントでもリスクマネーに回せば日本に活力は甦ると思います。要は、世界から学ぶという姿勢の問題なのです。
 ちなみに、いわゆるアントルプルヌアは「起業家」と表記されることが多いですが、僕は本来の意味からすれば事業を興すだけではなく、「社会に変革をもたらすイノベーションを企てる」という意味で、「企業家」のほうがふさわしいと考えています。

クレイジー・アントルプルヌア

さきほど、日本でイノベーションが生まれにくい環境的な要因を述べましたが、もちろん日本にもその斬新さに敬意を表して“クレイジー・アントルプルヌア”と呼びたい企業家が過去には存在します。そのうちの一人が、日本が誇る技術者であり経営者、川崎製鉄初代社長の西山弥太郎です。
 戦前の“鉄の街”といえば、八幡や釜石など、原料である鉄鉱石が取れる場所が主でした。それを西山は戦後、製鉄所を東京や大阪などの大都市周辺に建設しました。つまり、鉱山中心の地理配置から、消費される場所に近いところに“鉄の街”を作ったわけです。ここで西山が起こしたパラダイムシフトは、「日本は狭く資源にも乏しいから、世界中から原料を輸入しよう」ということでした。輸入するなら、消費地である大都市に製鉄所があるのは極めて合理的です。いずれ来る国際競争に勝つために、最新鋭製鉄所を都市に建て、抜本的な近代化に注力した。その後も「鉄は木材よりも安くなる、安くしてみせる」という信念をもって、彼は戦後日本に大きな繁栄をもたらしたのです。

非連続は連続から生まれる

西山が行ったのは、過去の製鉄の歴史から見ると明らかに現状の延長ではない、まったく非連続的な一手でした。戦後の混沌とする中、彼のアイディアは日銀総裁をはじめ周囲から猛反対されました。でも、成し遂げられたのはなぜなのでしょうか。
 それは、ひとえに知識の蓄積でした。ともすれば、その様子は荒唐無稽、無謀されには滑稽にすら見えるかもしれない。しかし、実は深い経験と知識に裏付けられた大胆な行動だったというところが重要だったのです。これが僕が敬意を込めて“クレイジー”と言うゆえんでもあるのです。時代をつくる企業家は常識や定石に捉われません。西山も、鉄鉱石や石炭のあるところに工場建設をする原料立地が当たり前だった時代にそれを前提としなかった。しかし、この非常識は、戦中の技術者兼経営者としての、厳しくも深い経験と知識から生まれたことだったのです。
 この事実を踏まえて、僕らの周りを改めて見てみると、クレイジー・アントルプルヌアが、単なる一瞬の思いつきからイノベーションを起こした例はきわめて少ない。彼らの多くが長い知識探索と経験の連続上に、非連続を生み出している事実に気づく。僕達の心を揺さぶった昨年のスティーブ・ジョブスの伝奇には、彼がいかに数々の失敗や経験を糧に独自の世界を築いていったかが綴られていた。蓄積、失敗、知識、経験が重要なのです。規定の考え方にロックインされすぎてしまうとイノベーションは生まれない。ロックインとは、たとえば、日本では自動車は左側通行でそれが常識ですが、世界的に見ると右側通行のほうがずっと多い。冷静に考えれば、これには特に合理的な理由はなく、日本でイギリスに倣って、たまたま左を走ると決めたからそうなっただけのことです。ですが、一度始まると右側を走るのはどんどん難しくなってく。車が増え、信号が整備され、ルールが決まると、左側通行はますますロックインされ、合理性を生み出していく。ルールが決まった理由に合理性はないのに、ルールが決まるとそれに従うことに合理性が生まれてしまうのです。この現象を”経路依存とロックイン”と言います。このロックインされた状況から逃れるのはきわめて難しい。ルールに抵抗することが非合理だからです。でもその連続性の裏にこそイノベーションのチャンスが眠っている。その根本のルールが決まった背景には合理性などないと気がつけばやりようはあるのです。今ある常識の前提から疑うことが大切です。
 例えば、これまでの都市の造り方は、オフィス街は都心に、住まいは郊外で、人々は通勤するというものでした。しかし、職住を分けて、人々が遠距離をコミュート(通勤)するという概念が生まれたのも、ほんの百年ほど前のシカゴで始まったことなのです。果たして、自分の靴底が浮いてしまうほどの今の通勤ラッシュを、好ましいと思っている人がいるでしょうか。でもそれは変えられないだろうと、頭のどこかで思考停止していないか。都市の造り方、地方分散のあり方、仕事と人生のあり方など、現代社会のすべてが仮の姿なのだから、もっと創造的に根底を見つめるべきではないでしょうか。

81マスの将棋盤にもイノベーションは生まれる

そうはいってもロックインされた視野を乗り越えて、新たな一歩を踏み出すことは想像しにくいことです。課題山積みの現状の中で一体何から手を付ければいいのか。固定化された現代社会では、どのようにイノベーションが生まれるのか。普通に考えるとちょっと絶望的な気持ちになりますが、そんな時に僕は、最近のイノベーターのエピソードを思い出します。それは、現代将棋にまったく新しいイノベーションをもたらした羽生名人の言葉。彼は勝つために、定石(将棋では囲碁石と駒を区別するために「定跡」を用いますが広義な一般性を含めるためここでは「定石」とさせていただきます)を勉強しただけでなく、過去の歴史的対局を徹底的に研究するそうです。そして、すでに数百年経ってしまった将棋の歴史でも、まだまだ新しい可能性であふれているといいます。新たなイノベーションを生み出すのは、ロジックで詰め上げた左脳的発想ではなく、「こうしたら美しい」「これは楽しい」といった右脳的発想だといっています。9×9のたった81のマス目で500年以上にもわたって繰り広げられた蓄積の上でも、まったく新しく美しい一手がひらめくそうです。
 81マスしかない将棋で、いまだにイノベーションが起こるのだから、この広い日本や世界のマス目の中で、イノベーションが生まれないわけがない。人生は一度きりしかない。チャレンジできるのは今しかない。