タイトル
学部の壁を壊しなさい
著者 / 話者
蓮實重彥

INTERVIEW

すべてを問い直せる知性へ、リベラルアーツの本質

編集部
本日はよろしくお願いします。本号のテーマは「恋する芸術と科学」と題しまして、その根幹には知識創造における「全体性」への憧憬を込めて、お伺いしました。われわれは経済、文化、金融、芸術、経営、自然科学、エンジニアリングなど、過度の分化あるいは専門性が育つことによって、各領域が部分最適だけを追い求めた結果、全体的な創造性の凄みであったり、動物的嗅覚のようなものが社会から削ぎ落とされているのではないかと考えています。僕らのキーワードの中では「リベラルアーツ」という言葉も出ていますが、 蓮實重彥総長時代の東大がどう見ても強くなった、何か全体性の凄みを一時期的にでも帯びたのではないかとも考えているのです。
蓮實重彥(以下、蓮實)
リベラルアーツといえば、この雑誌のテーマ “Where ART and SCIENCE FALL in LOVE”は素晴らしいと思うのですが、ARTSとSCIENCESと複数形になってないのがちょっと惜しい。ハーヴァードを初めとするアメリカ合衆国の有名大学には決まってFaculty of Arts and Sciencesという組織があって、そこでリベラルアーツを学ぶことで大学生活を始めることになっているからです。
リベラルアーツとはいわゆる自由七科というもので、西欧の伝統的な意味では、文法、修辞学、そして論理学(雄弁術)です。それから、幾何、算術、音楽、天文学があり、これら7つの学問だけが大学教育の基礎と考えられていたのです。ところが、現在の大学では、人文科学、科学、この場合は、物理、化学、生物学、そして医学を含み、最後に社会科学ときますから、大学本来のリベラルアーツでは、たとえば原子炉のことは扱わない。なぜ原子炉を大学で扱うようになったかといえば、日本では大学に「工学部」という組織を明治の中期につくってしまったからにほかなりません。それは世界的に見てきわめて異例なことです。なぜマサチューセッツ工科大学が厳密には大学UniversityではなくインスティチュートInstituteと呼ばれるかといえば、本来、工学Technologyは大学で学ぶべきものとは見なされていなかったからです。工学は、アートでもサイエンスでもなかったのです。
こういうことを考える場合に、身近な例から入っていくべきでしょうから、たとえば「科学技術」という言葉をとって説明しましょう。この単語は権威ある辞書には載ってはおらず、したがって空疎な概念でしかありません。 英語で何と言うかといえば、「サイエンス・アンド・テクノロジー」と「アンド」が入る。つまり「科学」と「技術」とは明らかに別のものなんです。ところが日本語で「科学技術」と言うと、何か一つのもののように聞こえるでしょう。でも、科学と技術は違うのです。震災以降に起こったこと、とりわけ原子力発電所の事故をめぐる議論の最大の問題点は、多くの人がそれを科学技術の問題だと勘違いしたことにあります。しかし、あれは科学の問題ではない。まさに技術=テクノロジー、つまり工学の問題でした。工学というのは見切り発車することがごく普通の領域なのです。
科学というものは、何が正しいかという真理を検証するまで続きます。ところが工学は、科学に多くを負っていながらも、時代の流れにより敏感で、ある意味では社会の要請に左右されますから、とこかで見切り発車しなければならない。我々が使っている家電が10年たつと古めかしく思えるのは、10年後のことなど考えないで見切り発車して作られているからです。
原子力発電所の事故にしても、あれは科学の問題ではありません。あくまで見切り発車してしまった工学的な思考、つまり技術=テクノロジーが、見切り発車したことの当然の報いを受けているのです。中沢新一さんは、あれを科学の問題と考えておられるようですが、そうではなく、あれは、リベラルアーツからは排除されていた工学、すなわち技術=テクノロジーの問題としてとらえるべきだと思います。もちろん、核分裂という現象そのものの研究は理学部系の核物理学の問題で、これはまぎれもない科学です。しかし、それを原子力発電として応用するのは工学部系の原子力工学の問題で、それ自体としては科学ではない。理学部系の核や素粒子を扱う物理学の分野で日本は高度な研究成果をあげて国際的に高く評価されていますが、原子力工学の部門の研究水準がどれほどのものか、その分野では素人の私の耳には入ってきておりません。
では、大学からは排除されていた技術=テクノロジーがいつごろからどのように社会に受けいれられるようになったのか。これはナポレオンからだと思っています。フランス大革命直後にできた工業学校を、皇帝のナポレオン一世が軍隊に直属するエコール・ポリテクニックEcole polytechniqueとして大規模に組織しなおしました。これはいまでも世界的に名高い工学系の高等専門学校として存在していますが、ほぼそれと同時に、それまでの大学にはなかった土木や農学や教育の専門家を養成する教育機関が整備されてゆき、そこでは大学とは異なるより公共的な専門知がかたちづくられる。MITが大学Universityと呼ばれないのはそうした歴史をふまえてのことです。ところが、明治時代の国立大学に工学部や農学部を設置した日本では、その違いが消えてしまった。そのため、工学にたいする諸科学の抑圧がきかなくなってしまった。リベラルアーツにも入っていなかった工学という学問領域はたかだか二百年の歴史しか持ってはおらず、ギリシャ以来の歴史からすれば生まれたてのごく幼いものでしかない。あるいは、人類は技術=テクノロジーをいまだ統御しきれていないといってもよい。だから、理学系の科学をはじめ、人文科学、社会科学、等々とたえず切磋琢磨していないと暴走しかねぬものなのです。MITやCaltec(カリフォルニア工科大学)などが、人文科学、社会科学系の優れた研究者を多くかかえているのは、そのためです。優れた工学者はそのことに充分意識的です。ところが、日本では、これは後進国ならではの一種の先見性と言ってもよいかとも思いますが、まったく歴史のない生まれたての工学を学部として大学の中に作ってしまった。今、日本が抱えている問題のほとんどは、大学に工学部を設置してしまったことの意味を問わずにここまで来てしまったことのツケだと思います。
工学部系の思考は、土木からコンピューターエンジニアリングにいたるまで、そのほとんどがいわば見切り発車でやってきたものです。見切り発車にはそれなりの良さがあり、公共的なインフラの整備などには不可欠です。真理にふさわしく事態が完璧に機能するまでは動かないという科学的な精神は、工学系の行動の指針とはなりがたいのです。だから、投資に見合った成果が期待できるなら、この程度でよかろうという合意の成立が行動の指針となるのはある意味で当然なのです。例えば、建築の耐震設計の基準などもそうだった。1980年ぐらいまでの耐震設計と今とでは全然違うというような見切り発車の歴史なわけで、この見切り発車は、工学系な知性からすると当然なのです。東電の人たちに、悪いことをしたという意識があまり感じられないのは、「でも、工学の世界では、どこでもこういうものだったはずだ」と思っているからかもしれません。
編集部
農業も工業もプラクティカルなもので、見切り発車してもすぐ見返りが来るもの。最近のアカデミズムを見ても、どちらかというとプラクティカルな側面に光が当たりやすいと感じます。大学ベンチャーにしても投資回収の安定を前提にしていますし、文部科学省によるCOEの選択基準も研究成果における回収サイクルも早く設定している。リベラルアーツというのは日本の大学生では「パンキョー」と呼ばれてますね。一般教養の略ですが、ある種の「すぐには役に立たない卑下した面倒くささ」がその呼称には込められているような。
蓮實
そこに大きな問題がある。大学に足を踏みいれた二十歳以前の若者の教育は、大学の総力を挙げて取り組まねばなりません。そのためには、学部なんて要らないわけです。ハーヴァードにいくつ学部があると思いますか。大きな学部としてはFaculty of Arts and Sciencesがあるだけです。日本語に訳せば教養学部となりますが、そこでは、リベラルアーツ教育が行われています。大学院に進学する以前に、自分は何学部の学生だなどと思ったら、その人の人生はそこで終わってしまいます。本来の大学教育には学部など必要ではないはずなのに、たまたま日本の大学にはそれがあるから、学部にふさわしく自分を作りあげてしまう。たとえばハーヴァードのマイケル・サンデル氏の授業などはまさしくArts and Sciencesにふさわしいもので、法学部の授業としたらずいぶんと杜撰なものです。彼の専門は政治哲学で、別に法学部の教授ではない。あれは、昔の言葉で言えば一般教養にふさわしいもので、そうした授業が複数あれば、大学の学部学生にはそれで充分だと思います。
編集部
めいっぱい自由な地平で、考え方を考える教育。
蓮實
だから、4年生まではもう学部なんて要らないのです。ところが、学校教育法の第九条、第八十五条には「大学には、学部を置くことを常例とする」と書かれている。私はそれを「常例」とすべきではないと思っていますが、真に学部学生にふさわしい授業を行おうとすると法律を変えなければいけない。それは何とも厄介なことです。
編集部
東大法学部に入っても最近の典型的なパターンとしては官僚のための予備校に行ったり、広告業界に入りたい人は広告予備校に行き、うわべのコピー文法みたいなものを学ぶ。結局人生の酸いも甘いも内臓にしみ込ませないままで、就職活動を大学前半から始める人もいる状況です。東大がそうなったらおもしろいですね。9月入学なんかより全然おもしろいです。
蓮實
でも、実際には、リベラルアーツの授業を日本の大学教授はあまりやりたがらない。

編集部 なぜですか。

蓮實
それは、ほとんどの人が、研究の方が教育より高度なことだと理由もなく信じているからです。自分を教育の専門家だとは思わず、研究の専門家だと思う方が安心できるからかもしれません。自分は法学部の教授である、経済学部の教授である、文学部の教授であると思った方が、社会的にも安心できるからかもしれません。けれども、物理をやっている人が急に文学をやりたくなることだってあるわけでしょう。工学部に行った学生が、映画の仕事を一生かかってやりたいと思う場合もあるでしょう。むしろ、既成の学問領域を横断したり、越境したりする方がおもしろい知性を生むことがある。実際、私の知人であるアントワーヌ・コンパニオン教授は、世界的なフランス文学の権威ですが、彼は文学部出身ではなく、工学系のエコール・ポリテクニックの出身です。これまた知人ですが、アメリカの映画作家フレデリック・ワイズマンはイエール大学のロースクール出身の弁護士で、しかもハーバードで教鞭をとった経歴さえ持っている。ところがいまでは世界的なドキュメンタリー作家として活躍している。いま必要とされているのは、そうした領域横断的な知性だと思います。ところが、現状では、自分には専門的な研究領域があると思い込んで自分の後継者になりそうな人に閉じた話ばかりをして満足することになりがちです。自分のためになるかどうかわからないけれど、何かおもしろそうなことをいうやつがいるぞというような謎めいた教授の授業の方が、本当はおもしろいと思うんですけれどね。全部が全部、自分の後継者になる人たちだけに向けて話している授業は、やはりつまらないし、知性の伸びやかさに欠ける。まさにサンデル氏は、自分の後継者のことなど考えずに適当なことを言っているから一応はおもしろいわけです。
後継者をつくるということが、大学のみならず、多分さまざまな企業でも問題になっていると思うんですが、大体「こいつを後継者」と思って、そのために育てようとすると、ろくなことにならない。どこかで何か違う要素がぽんと入ってこないとおもしろくないでしょう。だからぼくは学部を壊したかったんです。なんでもありの時代だから好きなことをやれと。
編集部
多分今の18歳に、好きなことをやればいいじゃないかと言ったら、もしかしたら一番困る言葉かもしれないですね。それだけは言ってくれるなっていう。だから、多分学部とかがあるんだろうし、リベラルアーツと言う「でかい海」に放り込まれるよりも「足のつくプール」にいたいと思っているのではないでしょうか。
蓮實
そういう若者には、「18歳で自分の選んだ学部を信じきって、それにしがみつくようなやつは大学に来るな」と言えばいいと思う。それなら単科大学なり専門学校なりに行けばよいのだから、どうかお引き取り願うと。それは反発を買うかもしれませんが、その反発にも、ある種の教育的な効果があるんじゃないでしょうか。たとえば、医学・生理学の部門での日本でただ一人のノーベル賞受賞者の利根川進博士は医学部出身ではありません。理学部の生化学科の出身で、日本にいたのでは駄目だと思ってアメリカとヨーロッパを渡り歩かれた。自分の学部など信じておられなかったのです。
自分たちがいま生きているのは、これまでにこれこれのことがあったからだという理屈を、各人がそれぞれ神話としてつくり上げたがるものです。学部というのは、そうした神話の一つかもしれません。それはそれで結構ですが、ある意味での世界を変えようとする人、あるいは自分自身を変えようとする人は、「本当にそうなのか?」と、何事に関してもたえず口にしかければいけない。オヤと思う瞬間に出会わねばならないはずです。
「本当にそうなのか?」という問いは、太古以来変わらないものなのかどうか。「本当にそうなのか?」ということを真に問うことができるのは、人間の普遍的な力だと思います。たとえば、フランス革命なり明治維新なりは、こんにちの社会の基盤を作ったと思われています。しかし、そういう系譜から来ている社会の固定観念に対して、「本当にそうなのか?」と問うことが許される社会でなければいけない。「本当にそうなのか?」と問える人が何人いるか、その人たちをどのようにつくっていくかということが重要です。ただし、どのようにつくるかというと、好きにつくるしかないというのがさっきの結論になる。そんなことのために、松下政経塾をつくったってしようがないわけですね。

他人からの証明を必要としないなにかがあるか

編集部
実は本号の隠れテーマに「新しい世界の作られ方」というタイトルを設定しているのですが、新しい世界を作る感覚って「愛」ではなく「恋」だなって編集部で話したんですね。異性にふれたときにドバッーっと広がる世界、胸の高まり、非連続な感覚に教われるような状態。蓮實重彥は表象文化構築から映画批評、そして東京大学総長と多くの知を縦断してこられましたが、ある種の「恋」性というか、言葉にはならないようなその美しい瞬間を、一貫して応援してこられたような気がしています。蓮實重彥にとっての「恋」とはなんでしょうか。
蓮實
私は、何を題材にするにせよ、「それが存在していることの色気に惹かれないものに関わりたくないし、それについて語る気もしない」と思っている人間です。理由も分からぬままに、視線の対象から不意に色気がぱーっと立ちのぼる瞬間があって、その色気というものを何とか凝視しようとして行動してきました。私の見方によってその対象が色っぽく見えるのか、それとも、私自身がそれを色っぽいと思っていたのではないのに、「あっ、そういう色っぽさもあったのか」と不意に思わせてくれるのか、そのどちらであるのかは今でもはっきりとはわからない。ただ、少なくとも、物を書いたり、物を考えたり、ものをつくったりする人たちからその色っぽさを消したら、この世界の魅力の90%くらいは減ってしまう。副学長、総長として東京大学の経営にかかわった6年間は、大学というものを色気のある生きものにしたいという思いがつねにありました。
なぜ私が政治が嫌いかというと、過去半世紀ほど、「この人は色っぽいな」と思えた政治家が日本にも世界にもほとんどいなかったからです。直接そのスピーチを耳にして例外的に色気を感じたのは、日本では村山富市元首相、合衆国ではブッシュ時代のパウエル国務長官、フランスではミッテラン元大統領に限られています。彼らが優れた政治家であったかどうか、その評価は差しひかえておきます。しかし、彼らの言葉には、否定しがたい魅力がそなわっていた。世界的に、そうした色気を漂わす構造の外部に政治が行ってしまったと思わざるを得ない。ですから「政治家に民意を託すのは、もうやめましょう」というのが今の私の正直な気持ちです。おそらく、投票したって胸はときめかないという、ある種の諦念のようなものが誰にもあらかじめあるはずです。「それなら、なぜ投票するのか? 投票を一斉にやめましょうよ」という気持ちを否定しきれません。投票権を行使したってアメリカを見てご覧なさい。民主党と共和党という二つの政党しかないのだから、結果の単調さは目に見えている。また、地球規模でいっても、合衆国大統領が民主党であろうが共和党であろうが、ほとんど重要性を持ちません。「大統領選挙なんて退屈な儀式をいつまで本気でやってるの?」という思いが非常に強い。オバマ氏が当選したときに日本のマスメデイアは大騒ぎしましたが、民主党も共和党も合衆国を変えられないというのは明らかだったはずです。私はオバマ氏の就任演説をテレビで聞いて、暗澹たる思いに誘われました。テレビという媒体は、あらかじめ色気を排して成立している。テレビ映りがよいということは、それだけで色気を自粛しているからです。そもそもテレビのカメラ担当の技師は、だれも自分の撮っている画面が見る者の心をときめかすだろうと思ってはいない。ところが映画のキャメラマン仕事には、「えっ?」と思う瞬間が決まってまぎれこんでいるある。
編集部
メディアや体制を語る上での「色気」という言葉使いが独特ですね。
蓮實
政治からその種の色気がなくなったのは、ジョン・F・ケネディからだと思う。彼は、なぜか優れた大統領だと思われていますね。しかし、いまでもはっきり覚えていますが、ケネディが大統領選に出馬する直前、彼のインタビューがニュース映画で流れて、それを八重洲口のニュース映画専門館で見たことがあります。そのときのケネディのしゃべり方にげんなりさせられました。まだ発声法のコーチにつく以前で、ひたすら早口で平板で軽薄きわまりないしゃべり方をしており、こんな若造が大統領になったら、アメリカはもうおしまいだと思うくらいでした。しかし、あの程度の人間が、父親の権力意志を体現するためだけに必死に大統領になろうとしているといった構図をメディアが批判なく受けいれてしまった。このころから、世界の政治家に色気がなくなっていったんじゃないかなという気がしている。
ですから、私の政治不信は長い歴史を持っています。それこそケネディですから60年代の前半、もう半世紀にわたって、政治家からは色気が失われたあった。小泉純一郎氏が女性に評判がよかったとか言われていますが、あれは色気っていうものじゃあない。ある図々しさを破廉恥に貫徹したことで、テレビが期待している人物像におさまったただけです。
編集部
なるほど。でも不思議なのは、例えば政治のみならずテレビというものを見ても 、世の中の人々の人気、つまりポピュラリティをとっているわけですよね。色気は、本当は花は引きつけるわけでしょう。なぜポピュラリティをとっているものにかぎって色気を感じれなくないものが多いのか。
蓮實
それは誰もがあまり「変わりたくない」からです。「あっ、これ何だろう?」と思って未知の何かをさぐることより、テレビ画面で「ああ、この人、また同じことをやってる」と思ったほうが安心できるのではないでしょうか。テレビは、くり返しによる「慣れ」が価値を持つ変化を排したメディアです。テレビを見てて不快なのは、撮っている人たちの側に、この程度でよかろうという現状維持の精神が画面を自堕落に彩っているからです。連中は、冷笑しながら撮っているのか、それとも冷笑すら忘れて日常を維持しているだけなのか。
世の中にわからないことも多々あるのだから、すべてを易しく説明したら、そこには必然的に嘘がまぎれこむ。これはテレビだけのせいではないのかもしれませんが、いまでは平易に説明することが美徳のように思われています。しかし、それは、易しく説明できるものを易しく説明しているだけのことで、その説明によってあなたは一切変化することがないし、世界の大部分は説明されぬまま残されます。問題は、「その変わらない自分をあなたは愛せますか?」ということだと思います。みんなが、変わらない自分をどこかで愛しているんじゃないでしょうか。にもかかわらず、自分がまぎれもなく変化する瞬間がある。その変化を変化とは思わせない風土がマスメディアの周辺には立ちこめている。しかし、教育とはまさに変化を誘発する体験であるはずです。たとえば、官僚の世界を見ていると、色気なんかあっちゃまずいわけです。個人的に魅力的な人材はたくさんいるのに、組織としては色気を自粛する。それは、彼らの書く報告書にあらわれています。政治家が読みあげる答弁にもあらわれていますが、「それでいいのか?」と感じている官僚もいるはずです。でも、それは声としては響きません。
編集部
色気って、今は立ち上りにくい世界なんですかね。あるいはどこか他の場所で、立ち上っているんでしょうか。
蓮實
いや、立ち上りにくいということはないと思う。だれが表舞台に立つかというと、どうしても企業の経営者や政治家や官僚であったりして、色気がやっぱりあってはいけないんでしょうね。大学も企業も官僚も、報告義務だけで色気がなくなっていく。要するに会議への出席だけではなく、会議のために資料をつくることや、会議での議論を伝達することだけが仕事だと思われているかぎり、色気など匂いたちようもない。
編集部
先日、MITメディアラボ創設者のニコラス・ネグロポンテさんとお話しする機会があったのですが、彼が言うには創造性というのはほとんどの大きな組織では「4分の1」しか使われていないと。なぜなら、まず組織の実に2分の1の人数が「管理職」で、管理するための会議とかそういうものでなにもやっていない。そして、少なくとも、残りの半分がちゃんと創造性を発揮できればいいんだけど、その半分の時間を「管理されるための報告業務」にとられるから、結局4分の1だと。これを変えたいということをおっしゃっていて、博報堂でもそうですけど、大学もやっぱりそうですか。
蓮實
全く同感です。会議のための会議、これを50%軽減するだけで日本も大学も国会もかなりよくなるんじゃないですか。会議自体、そんなものは真の仕事ではないと意識して行わねばならない。国会での諸委員会の質疑応答だって、あんなもの彼らの真の仕事ではない。国会議員がしなければならないことは、立法府にふさわしく法律をつくることです。法律をつくらないで政局がらみの議論ばかりしていても意味はない。しかも、いまの国会は違憲状態なのですから、一刻も早くそれを脱するための法律作りをしなければならないはずです。
実際、いまはいたるところで創造性を発揮しまいとする議論ばかりが空転している。ただ、科学の領域には創造性がみなぎっています。特に物理学や化学の領域には、色っぽさが漂っているように思え
ます。政治を考えることよりは、大学の優れた物理学者なり、化学者なりに会っているときのほうが、「この人は色気があるな」という感じが強くします。創造性とは、まさに色気を発揮できるか否かにかかっているのです。
この10年間くらい、日本は落ち込んだとよく言われていますが、これほどたくさんの日本の科学者がノーベル賞を取ったことはかつてありませんでした。なかなかノーベル賞が取れずにいる中国や韓国が、どうして日本ばっかりとうらめしそうに文句を言っていますが、これは、日本の大学に優れたエレメントが行っていたからだと思う。科学の領域において、日本がこれほど輝いている時期はかつてなかった。この分野で、日本はきわめて元気なのです。ことによると、元気すぎるとさえいえるかもしれません。それから、映画の世界においても、国内ではあまり知られていませんが、つい最近、黒沢清監督の回顧特集上映がパリのシネマテークで行われた。それから、吉田喜重監督だって、世界の至るところでレトロスペクティヴが開催されている。たとえば、ある映画作家がカンヌやヴェネチアの国際映画祭で賞を取ることは一種の賭けであって、審査員次第でくだらない作品が受賞することもしばしばです。しかし、世界的に回顧特集上映が行われることは、賭けとは無縁の確かな評価なのです。そうした会場でレトロスペクティヴが開催されることは、真の国際的な評価を意味します。
こうして見ると、日本の科学はきわめて元気でしょう、映画も対外的に見ればきわめて元気です。サッカーだって、野球だって、男女のフィギュア・スケートだって、才能豊かな若者がかつてない活躍ぶりを見せている。高橋大輔が氷上に行きわたらせる存在の色気には、世界が魅了されている。そんな日本が元気がないなんて、間違ってもいえないはずです。
編集部
なるほど。
蓮實
ところが、それを元気と言う人々はむしろ少数派で、円高で輸出がのびないから「元気ない」という考えが、奇妙に共有されている。それに対しては、「何言ってんだ。こんな日本が元気だった時代が今まであったの?」と問い返すべきなんです。円高だって、相対的に「円」が信頼されていることの証拠なのですから、それを積極的にとらえねばならない。
編集部
僕らの根底にあるもう一つの疑問で、人間の本質と文明の進化についてお伺いしたいんですけど、養老孟司さんの下にずっといた布施英利さんという解剖学者で、藝大で教えていらっしゃる先生が言うには脳や身体を研究していると5万年ぐらい脳も身体もあまり変わらないんじゃないかと。つまり、僕らが生理的に持つ感情、恋をするとか、最初にわき毛が生えたときの思春期の迷いとか、親への反抗とかも、実はあまり変わらないのではないかと。
一方で、文明だけは、ある種の投企性を持って進化をずっとしている。僕ら新しいものを見るとドキドキするし、なにか非連続なものに触れたいという欲求があるのではないかと考えているんです。そこで、人間の本質と文明の進化という変わるものと変わらないもの、これらは乖離すればいいのか、たぐり寄せればいいのか、殴ればいいのか、ハグすればいいのか、そこの感じというのをどう捉えればよいのでしょうか。
蓮實
文明が進化しているかどうかはともかく、ある1人の人間が、この瞬間に自分は間違いなく変化したという神話を持てないと生きていけない。たとえば、フランス人の多くは、フランス革命があったから自分たちは生きて行けるのだと思っている。しかし、あんなに陰惨なテロルの後に、よく平気で生きていけるねと思う人がいても不思議ではない。昨日までの仲間の首を平気でぼんぼんと切り落としちゃったわけですから。しかし、フランス大革命があったので、我々は今、共和国を生きており、それが今ある文明を支えているということを、フランスはほとんど国家的に教育しているわけです。しかし、私は、フランス革命というものをどうしても全面的に肯定できない。それを肯定できない私は、文明の進化以前の心性の持ち主なのか、それとも文明の進化以降の判断力の持ち主なのか。
日本の場合、不思議なことに、テレビでほとんど薩長連合と新撰組の時代が明治以降の我々の生活を安定させたというかのような錯覚が流れとして作られている。それに坂本龍馬が加わりと、構図はほぼ完璧なものとなるかのようです。それはそれでいいと思います、その人たちがそう思っているなら。しかし、「本当かな?」ということを当然、個人でも集団でも考えなければいけない。フランス革命がつくった文明が絶対ではないように、あの寺田屋騒動の時期のことがあったから、今我々が文明的に進歩したんだと思っている人がいたら、「本当かな?」ということを突きつけなきゃいけない。現代の文明とは、多かれ少なかれ常識化された神話です。それをどれだけ疑えるかということが大事なのではないでしょうか。
編集部
恋の話から大きく迂回しましたが、これだけ広い「色気」を蓮實先生の言葉で定義するとどうなるのでしょうか。
蓮實
やはり、その人が存在しているということの、他人による説明を超えたあり方ではないでしょうか。ある人がそこにまぎれもなくいるということを、他人は何らかの形でいつでも説明したがります。主体と客体を安易に分断した上での、他人による支持や、他人による証明がある人を存在させているのだと考えられている。しかし、そんな証明書もなく、いかなる説明も必要とせず、ある人が、性別、国籍、年齢を超えて、そこにいるということが見えてしまう瞬間がある。その人が存在していることの色気を前にすると、もはや証明書は要りません。他人による説明も必要ありません。あなたは、まぎれもなく存在していますね、というしかない瞬間がそれです。さらにいうなら、それは「あなたは不気味なまでにそこにいますね」という驚きかもしれない。あるいは、脅えかもしれない。そのように存在していることの色気さえあれば、名前なんか覚えてもらう必要などありません。それは、まぎれもなく存在しているんだから。名刺なんか交換する必要ないですね、そのような人とは。あなたは、そのような人を前にして、何度驚き、何度脅えたか。その脅えと驚きとが、自分のまわりの世界の表情を変えてしまうのです。