タイトル
お坊さん vs 高校生対談企画 その煩悩は正しいのか
著者 / 話者

<プロフィール>
松本紹圭
SHOUKEI MATSUMOTO
1979年生まれ。浄土真宗本願寺派光明寺僧侶。蓮花寺佛教研究所研究員。米日財団リーダーシッププログラムフェロー。東京大学文学部哲学科卒業。超宗派仏教徒のウェブサイト『彼岸寺』(higan.net)を設立し、お寺の音楽会『誰そ彼』や、お寺カフェ『神谷町オープンテラス』を運営。2010年、南インドのIndian School of BusinessでMBAを取得。著書に『お坊さん革命』(講談社)他多数。世界経済会議(ダボス会議)2013年のヤング・グローバル・リーダーズ日本代表に選出される。

高校生 よろしくお願いしまーす!
松本紹圭さん(以下、松本) まずは自分の自己紹介から。いま33歳なので、皆さんの倍ぐらい生きているのかな。北海道出身で、16歳のころは小樽市で普通に公立の高校生をしていました。田舎から外に出るために勉強して、東京に出てきたらあとは普通の大学生活です。就職活動の時期になって、どういう仕事に就こうか考えました。最近のお坊さんは世襲で、家業を継ぐ感覚の人が多いのですが、私は跡継ぎではありません。うちは寺ではなくて寺の孫だった。だから家の近所にはおじいちゃんの寺があって、本堂でよく遊んでいました。仏教の本もちょっと読んでいて、すごくいいことを言っているな、いい教えだなという記憶はずっとあって、でもいきなりお坊さんになるとは思っていなかったんです。

就職活動もしましたが「人に何かを伝える」ということに興味があって、やっぱりお寺が好きだったし、仏教というものを伝えようと思ったんです。もう一つは、これからサラリーマンになるか大学院に進学するかという普通の選択肢を考えても全然おもしろくなくて。それなら、自分でもどうなるかわからないような道に行ったほうがおもしろいなという気持ちもあって、お坊さんになったんですよね。それで「いまに至る」、ちょっと飛び過ぎですかね。好奇心旺盛なお坊さんということで(笑)。

自分もいま高校生の人がどんなことを考えているのかも興味があります。別に難しく考えなくてもいいです、ふだん考えていることとか、何かに悩んでいたり、迷っていたりとか、ありますか?

坂本正汰さん(17歳)の悩み~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
坂本 自分は高校1年生の終わりぐらいに中退して俳優を目指しています。いまは解体と内装のアルバイトをやってるんですけど、最近社長から社員にならないかと誘われていて。俳優になるのは簡単なことじゃないし、俳優がうまくいかなかったらどうしようかなと、いつも不安で。それだったら、若いうちに会社に入って経験を積んでおいたほうがいいのかなとか思ったり。でも仕事ばっかしてても、本当の自分の夢が……。今後の自分の道が何かちょっとイマイチ見えなくて。

松本 俳優のほう、それが仕事になっているかは別としても、結構やっているんですか?

坂本 そうですね、最近、結構話も来ているほうで、まあエキストラとかなんですけども、そういうのを最近は結構やっているほうなんですけど。

松本 それをやっているときはどんな感じ?

坂本 しているときは、そうですね……、うん。

松本 打ち込めている感じはある?

坂本 そうですね、まあ楽しいとは思っているんですけど……。

松本 楽しい?

坂本 楽しいですね。でも、主役の人とかも来ていて、本当にオーラが違って。本当にこんなふうになれるのかなというのがあって。もちろん演技のうまさとかもあるんですけど、やっぱり目力とかオーラが違うじゃないですか。そういうのって、どこから出てくるのかなと思って考えているんですけど。

松本 これでいいのかなという感じがあるのかな? アクセルが踏み切れないというか。

坂本 何だろうな、アクセルが踏み切れない?

松本 うん、フワッとした感じ。地に足が付いていない感じ?

坂本 そうすね、何かそんな感じもしますね。

松本 不安感?

坂本 そうですね、不安が一番あって。

松本 不安は、そういう人になれるかどうかという不安?

坂本 そうですね。なれるかというのと、なれなかったとき、最悪のときを考えたりすると、やっぱ不安になったり。

松本 じゃ、もしなれないんだったら、社員の話とか、そっちをやっておいたほうがいいんじゃないかなとか、そういうこと?

坂本 そうですね。そういうのを考えると、早目に手を打っておいたほうがよかったり……(笑)。

松本 早目に手か……。うーん、そうか……。でも今って、自分もそうなんですけど、何かもう決まった道がない時代に入っちゃった感じがしませんか?

坂本 ああ、しますね。

松本 早目にあきらめて、手を打っちゃったほうがいいってこと? でもそれで本当に手を打ったことになるのかな? もはや最近は、俳優より会社員のほうが安定しているとも言えないし。どう思っているの?

坂本 いや、あきらめたくはないんです、まだ17なんですけど、何だろう……、この夢にもやっぱり限りがあるわけじゃないですか、年とか。一応自分の中では20後半ぐらいまでにそういうチャンスをつかめなかったら、もう本当にあきらめようとは思っているんですけど。そこから、何か……。

松本 でも、多分何歳になっても、何でもできるんだと思うんですね、やるかやらないかの問題で。何だろう、何が不安にさせるんだろう?

坂本 不安になったのは、初めて撮影現場に行ったときに、そういう有名人とか見て、現場の空気に触れてから、何かそういう不安が出てきて。

松本 現場で感じたのは、そういうオーラ? こんな人になれるかなという?

坂本 そうですね。どうやったら……、なれなかったらどうしようと……。他の人とは、何か違うものを持っているじゃないですか、有名人みたいな人って。

松本 でも、そうでもないんじゃないかな。確かにオーラというのはある。でもそれってかなりの部分、後から育てられてくる、作られてくるものだと思うよ。そういう縁を引っ張ってくるだけの覚悟というのがあるかどうかで、その後の人生というのは変わってくるんじゃないかな。
 ちょっと仏教の話をすると、「因果の道理」という考え方があるのですが、すべての物事には、何かしらの原因があって結果が生まれる。その結果がまた次の因となって、さらにまた次の結果を生んでいくという連鎖。それですべてのあらゆるものが動いていくというふうにとらえるんです。でも、その時におもしろいのが、結果そのものに良し悪しはないということ。結果というのは今すでにあるもので、それを変えることはできません。でも、結果をどのように受けとめて次につないでいくかが大事なんです。
 有名な俳優さんだって、その人が人生で刻んできたいろんな因と結果が積み重なって、今そうなってる。つい結果を出している人を見るとひるんじゃったり、自分にできるかなとか思っちゃうんだけれども、やっぱり、いま立っているところから始めるしかない。有名な俳優さんも、いま確かに輝いているように見えるのは、過去の栄光だけによるものでしょうか? 
 成功というのは固定した状態にあるんじゃなくて、常にその瞬間、瞬間でどう生きているかというところにあるわけで。つい成功を固定したもので見てしまうのが人間なんだけれども、成功はつかめるものじゃない。
 例えば、オリンピックの選手が金メダルをつかもうとするんだけれども、もし金メダルを取った後、今度はずっとその金メダルを取ったという過去にすがって生きていくならば、それはそれで悲しいものがある。そうじゃないでしょう、輝きは。だから、そんなふうにちょっと成功を柔軟に見ていくと、もっとのびのびできるかなと思いますよ。

坂本 あ、ありがとうございます!

中村麻衣さん(16歳)の悩み~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
中村 悩みがないことが悩みなんですけど。

松本 ああ、いいじゃないですか。

中村 でも、頑張れって言われても、何に頑張ればいいのかみたいな。頑張るものがわからないです。

松本 じゃ、いま頑張っているという感じがしているのか、別に頑張っているわけでもないのか、自分としてはどういう感じ?

中村 いまは一応ダンスをやっているんですけど、その中でも先輩と揉め事があったりとか。部活なんですけど、留年して上がれない子とかは、やっぱり発表に出れないじゃないですか。最後の発表だから全員で踊りたいって思ってたんですけど、先輩たちはそういう気持ちがなくて。何か普通に「上がれないのは自分の責任なんだから、いいんじゃない?」みたいに言われて。頑張ってきたのにそれで終わるんですか? みたいな感じを言いたいんですけど言えない、みたいな感じです。先輩に言いたいことがあっても、やっぱり立場上言えないじゃないですか。

松本 そうですね。お寺でも、禅寺とか行くと本当に先輩は絶対で。寺だから神というのも変なんですけど、先輩は神のような存在で、絶対服従みたいなところがあって。高校のときって結構いろんな不条理なことはたくさんあるけど、別に社会に出てからもそうなんです。でも、それは今、まさに身をもって学んでいるところですよね。

中村 そうですね。

松本 話していると、頑張っている感じが伝わってくるんですけど。

中村 いや、頑張ってるのかな……、うん。

松本 でも、一生懸命やっているんでしょう?

中村 やってます、一応。立ち位置とかあるじゃないですか。自分は負けず嫌いなんで、センター取りたいから一生懸命やってるんですけど、昔からずっとやってる子とかもいて、結局はその子がセンターになっちゃうんですよ。ダンスよりも経験を見るんですよ、先生とかは。「経験が長いから、じゃ、この子センターでいいよ」みたいな。「じゃ、頑張ったのに、何でセンターもらえないんですか」みたいな。それでやめちゃう子とかもいて。

松本 こういう場なので、ちょっとお坊さんの話もしてみますけど(笑)。お坊さんって出家すると、先輩、後輩というのがあって、年齢じゃなくて出家してからの期間で決まる。一番シンプルでしょう。誰も文句を言えない。でも、実力はどうなのという話になったときに、そうじゃない場合というのも当然ある。絶対私のほうができているのにという。でもそれは先輩のほうもきつくて、先輩として後輩の前に立たなきゃいけない。でもそういう中で、先輩も育てられていくんです。人生は修行なんで。学校にいるときもそうだけれども、社会に出てからもずっと修行。だから、先輩と後輩どっちの役割にもそれぞれの修行があって、そのどっちになるのかは、たまたまそのときの縁によるので、どっちが優れているということもない。それぞれがいるからこそ成り立っていくという輪があるわけです。もし自分が逆の立場で、経験も長いのに、実力的に抜かれていると思いながらも、先輩の顔をしなければいけないというのって、結構きつくないですか? それって結構な苦行なんで、まあ温かく見守ってあげたらいいんじゃないかな。

中村 はい、わかりました。

松本 まあ逆の立場になることもあるんでね。

中村 はい。ありがとうございました。

倉本胡桃さん(16歳)の悩み~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
倉本 お願いします。一つ気になるんですけど、お坊さんって何を食べているんですか? 殺生はいけないって言うじゃないですか?

松本 ちょっといま気になっているのは、今日、全然ご飯を食べるタイミングがなくて。それ自体ちょっと生活が乱れちゃっているんですけど。新幹線で来たんで、やっと時間を見つけて、さっき中華料理屋さんに入ってギョーザを食べちゃったんで、何か臭わないかなと思って……。

倉本 大丈夫です、今日、私もカレーを食べたので……、すみません。

松本 どこから話していいのかわからないんですけど、実はお釈迦様の時代も、お坊さんは肉も食べたんですよ、実は。ただ、どんな食事でも、捧げられたものはいただくということをやっています。でも自分から進んで殺生はしない。禅寺へ行くと、肉だけじゃなくて、精の出るもの、ニンニクとか刺激物はとらないとか、酒は飲まないとか、いろいろあるんです。でも日本でお坊さんの役割を考えると、例えば法事に行ったときに一緒にお酒を気さくに飲んだりすることもあります。社会に近いところで活動してくる中で緩くなってきたのかもしれません。
 でも、その質問って、僕もずっと疑問に思っていて、学生のときはかなり酒を飲んでて(笑)、お坊さんになってからも、しばらく飲んでいたんですよ。でも4年前ぐらいにインドに留学して、そのときに国際基準で見ると、お坊さんってやっぱり酒を飲まない。肉を食べない人も多い。僕は日本のお坊さんの代表で行くような格好になるわけで、これじゃちょっといかんなと、それ以来酒は飲まないことにしたんですよ。
 肉のほうは、本当にベジタリアンになりたいなと思っています。日本だと、スーパーで製品として肉が置いてある。だけどインドだと、肉屋さんに行って「肉ください」と言うと、その場で鶏の首を落とす。だから、自分が肉を買うということは1つの命を奪うことなんだというのを目の当たりにして。でも、なかなか踏み出せずにいます。

倉本 じゃ、悩みの相談……。すみません。
 私は被災して東京に来ました。こっちではすごく楽しんでいるんですけど、向こうにいる人たちに申しわけない。すごくつらくて、最初は……。でも、東京の子たちはやさしくて、すごい励まされて、いま被災地を忘れている自分がいるっていうのがすごく申しわけない。帰りたいし、でももう家もないし。
 学校のみんなは向こうに残ったんですけど、東京に来たのは私1人だけなんです。家族は東京が好きで、妹たちもまだ何もわからないんで。でも中2で引っ越してきた私としては、すごいつらかったし。
だから、何だろう……、どういう気持ちでこれから生きていったらいいのかなって。生きがいとか、楽しい話をするのが申しわけないというか。いつも楽しいことがあると、故郷の仲がよかった人とかを思い出しちゃう。自分を見ていても、振り返って、過去の話をしている自分が……。だから、これからどうやって生きていったらいいのか、そういうことを思います。

松本 そうだよね……。思い出しちゃうよね。

倉本 中学校のときに、絶対この学校から離れたくないって思っていて、学校が大好きで、この仲間で卒業できたらって。でも当たり前のことができなくなったときにすごい悲しくて、多分私は明るい性格だと思われているから、悩んでることをみんなにも言えないし、私はこれでいいのかなって……。

松本 震災のときインドにいて、テレビをつけると津波の映像が流れて。それからインドでもずっとニュースでやっていて、自分もすごく心配で。日本に帰ってきてからも、本当にそこに住んでいたという立場じゃないけれども、でも絶対に忘れられないし。
 これは自分の感覚なんですけど、それ以来、いろんなものが空々しい感じがして、何か楽しげなニュースだったり、スカイツリーができましたというニュースがあっても、だから何なんだろうという気持ちが先にきちゃうというか。
 でも、やっぱり思い続けることってすごい大事なこと。でも……、当事者ではない僕が言えることでもないんだけど、それでもいいのかなというふうに思うんだよね。だって……、そうなんだもの。だから、ニュースで「復興」という言葉や、「悲しみを乗り越えよう」とかいう言葉もあったりしますけど、それは無理してすることでもないし、むしろ自然に思い続けるということで、お坊さんに限らず、祈ることしかできない自分もいる。もちろん自分のできる範囲で物理的な支援とかもしたいなと思うんですけど、たとえ何をやっても取り戻すことのできない現実もある。でもその中でもやっぱり祈り続けたいなという気持ちがあります。私も答えなんてないんですよ。悲しいときは、悲しい。でも、それでいいんじゃないかな。
 お寺の2階にカフェっぽい場所があったでしょう、あそこに「店長さん」と呼ばれているお坊さんがいて、みんなの話を聞くという活動もしています。だから、自分のそのまんまの気持ちに向き合える場としても、お寺に気軽に来てもらえたらうれしいです。

倉本 はい。ありがとうございました。

若林葵生さん(16歳)の悩み~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
若林 女の子と話すのが苦手というか、緊張しちゃうんですね、話すときにどうしても。

松本 じゃ、今日はちょうど、ちょっと練習させてもらったら?(笑)

若林 緊張して、気をつかっちゃうというか、何か一緒にいて……。例えばですよ、結婚して一緒に暮らしていて、おならとかできるとか(笑)、そういうこと本当にできるようになるのかなって。

松本 じゃ、自分から先におならしてくれるようなワイルドな奥さんが……(笑)。

若林 そうですね(笑)。はい。

松本 男性には気をつかわないの?

若林 全然気をつかわないですね。女の子とマンツーマンになると緊張しちゃうというか。

松本 男といると緊張しないでしょう。自分を無理にさらけ出してなくても、自然に普通にしていられる。でもそうじゃなくなっちゃうということは、やっぱり自分をこう見せたいというものがあるからこそ、気になって、カチコチになって、結局何か動きがぎこちなくなってきたりする。それはすごく端的に言うと、「女の子にこう見られたい」という自分があるということでしょう?

若林 そうです。どうしても何か……。

松本 どういうふうに見られたいと思っているんですか?

若林 見られたいというか、どうしても何か格好つけちゃうというか。本当は女の子と話とかもしたいんだけど、「ふ~ん」、みたいな感じになっちゃう(笑)。何か、こう見られたいっていうか、何か……。何なんでしょうかね。

松本 多分興味があり過ぎるから、興味がないふりをしてしまう……。

若林 自然のままというんですか、自然のままになれないかなって……。

松本 でも、自然なんてないでしょう。自然ということにこだわり過ぎると、またその自然にとらわれちゃうんで。頭を空っぽにするといいですよ。
 ちょっと仏教的な話をすると、法然上人という浄土宗の偉いお坊さんが「一枚起請文」という書物の中で、「智者の振る舞いを捨てることが大事ですよ」と書いている。賢ぶりたくなるじゃないですか、誰でもそうなんですけど。でもそうじゃなくて、自分なんて何にもわかっちゃいないんだというところから始めてみる。
 自分の世界というものがあって、おれが正しいというところから始めるんじゃなくて、そもそも人はみんな違うんだ、わかり合えないんだと。だけれども、その違うというところから始めながら、重なり合う部分を探り合う感じで、一緒に探していくという感じで始めると、もうちょっと気楽になるんじゃないかな。
 僕もよく奥さんに「ふ~ん」とやっちゃうんですけど、「もっと話を聞いてよ。何にも聞いてない!」って、言われることもあるんですよ。だから、相手にまず興味を持ってあげるということ。ちょっと意識してみてはいかがでしょうか。ほかにも何か悩みはありますか?

若林 ほかにはですね、ほか……、あんまり……。楽しもうと生きていますんで、そんなにないかなという感じです。いいです、ありがとうございます。

悩み相談を終えて、高校生の感想~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

市耒 みなさんどうですか? お寺に来て、お坊さんと話をして、何か変わりましたか? 変えるのが別に目的じゃないんだけど。

坂本 人の相談に答えている回答とかを聞いてて、「ああ、なるほどな」と、いろいろ学ぶことがたくさんあって。

市耒 お坊さんだけじゃなくて、教師とか、社会のルールとか、高校とか、就職とか、いわゆる「正しい」というレールが急速に目の前に敷かれるじゃない、そのぐらいの年だと。そういうものに対してはどう思ってますか?

坂本 何か面倒くさい部分もあるじゃないですか。先生とかが言ってることは正しいっちゃ正しいですけど、何かそれにうなずけない自分がいたりとか。

倉本 私、校則がよくわかんないんです。茶髪はだめなのに、赤いと黒染めしなきゃいけないじゃないですか。

市耒 えっ、茶髪はだめなのに……、赤いと黒染め??

倉本 こういう(中村さんのような)茶髪はだめなんですけど(笑)。染めちゃいけないのに、赤毛の人は黒染めするんですよ。

市耒 ああ、なるほどね、地毛が赤い人がいるわけね。

倉本 あと、眉毛剃るなって言われるんですけど、でも、逆に言うと、何かボサボサのほうが身だしなみとしては悪いんじゃないかなっても思うんですけど。

市耒 なるほど、正しいね、それは。でも校則的には正しくないと。では、みんなの目の前で、今、一番正しい存在って誰ですか?

坂本 俺の場合は、一番正しいってなったら、先生より親かなと思う。

若林 やっぱ僕も親ですね。ずっと親の言うこと聞いて生きてきたから……。

中村 私はおじいちゃん。おじいちゃんに怒られてるときは、「ああ……」みたいになるんですけど、お父さんとかお母さんは、「何で言われなきゃいけないの?」とか思って。

市耒 おじいちゃん? それは何でなの? おじいちゃんが正しいと思わせるものは何かな?

中村 何か、おじいちゃんは誰が見ても、何か正しい道っていうか……。

市耒 正しい道に生きてるんだね。そういうご職業をされているんですか?

中村 何の仕事かちょっとわかんないですが(笑)。でも、汽車とかつくったりする仕事。

市耒 汽車をつくってる??

中村 汽車のちっちゃいバージョンみたいな? こんぐらい(30㎝ぐらい)のやつを勝手につくってきたりとか。ハサミとかも勝手につくってきたりするんですよ。何か「すごいな」みたいな。

市耒 ああ、職人さんですか。

中村 いや、わかんない(笑)。けど多分。(笑)

市耒 じゃ、一番「おもしろい!」って思うことを聞かせて。人でもいいし、物でもいいし、瞬間でも。何かある?

坂本 俺は、楽しいのは、友達とチャリで知らないところに行くこと!

若林 やっぱり1人で遠出する……こと。1人で遠出して、帰って寝るまで。自転車でいろんなとこに、海とか1人で行ったりとかして。帰ってきて寝る瞬間っていうのが、何か「うわーっ!」みたいな、何か「今日もいいことしたな」みたいな(笑)。何か「1人で行ったな」っていう感じで……。

市耒 チャリで遠くに、知らない場所に行く。最高だよね。そういう職業があるといいよね(笑)。他には?

中村 一番おもしろいのですか、「シンデレラ」を見ることです。

市耒 シンデレラを見ること? DVD?

中村 DVDなんですけど。

市耒 最近のやつですか? 「シンデレラ」って何回かディズニーで作られてると思うんだけど。

中村 いや、たぶん古い、一番古いやつっていうか、お母さんが何か買ってきてくれて、「これ見て、あんたも掃除しなさい」とか言って渡されて(笑)。

倉本 私は、テストが終わった次の日から遊びまくること(笑)。テストで何か制限されてて、その次の日から試験休みなんで……。解放されて遊びまくることを考えることとか。

市耒 みんな、ありがとう。どうやら今日の質問では、「正しい」と「おもしろい」ということがかなり対になって出てきましたね。「親」ということに対して、「親から離れる」とか。「学校」ということに対して「テストが終わって遊びまくる」とか。やっぱりそういう時期なのかな。今日はみなさん、そして松本さん、本当にありがとうございました。

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松本紹圭さんインタビュー

(高校生の悩み相談をひととおり終えて、茶室内には熱気が残っている。高校生に残ってもらったまま、松本紹圭さんへのインタビューを開始した。)

市耒 それでは第二部ということで、よろしくお願いいたします。まずは、ひとりひとりへの親身なご講話を、本当にありがとうございます。後ろで拝聴させていただきましたが、ご経歴自体が全く新しい種類のお坊さんであると同時に、本当に分かりやすいというか、まさにご自分の言葉で話してらっしゃる。

松本 そうですね。なるべく袈裟をまとわない自然な言葉でお話しようとしているのと、なによりも人生へのご相談の答えって私にはないんですね。答えはご質問者の中にある。だから私は一緒に並走していくようなものなのです。

市耒 いきなりですけど、松本さんご自身には、悩みはないんでしょうか。

松本 そうですね、最近はだいぶ軽くなってきました。正直に申し上げますと、高校生のころは実は、自意識過剰で、一番になりたいとか人からよく見られたいと思っていました。仏教は好きなんだけれども、これだけ自意識が強いと、仏道で仏教から得られることを一生体得できないんじゃないかと考えたこともあります。それと重なりますが、昔から、死ぬのが怖かった。小さいころは、「死んだらどうなるんだろう? どこに行くんだろう?」とか、会えなくなる悲しさをずっと感じていました。
みなさんもそうかも知れませんが、人にとって不安で一番大きいのは、「自分を失う」ことではないでしょうか。自分というものが、みんななにかしらあると思っていますから、それが無くなることはすごく怖いことで。何かしらの手段で「これが自分なんだ!」というものを打ち立てたいし、保ちたいと思っている。だけど、そこにこだわっていると、自分と外界の「壁」がどんどん高くなって、壁が高くなると自分が守られるから安全な気がするのですが、実は孤独が増していくんですよね。
でも壁を取り払ったら、自分なんて何も無くなってしまうのではないかというとそうではなくて、むしろ自分が溶けて、一気に世界とフラットにつながっていける。仏教では「自分へのとらわれをなくそう」と言うのですが、こだわりを捨てて、捨てて、捨てきったところで自由になっていく。多くの人は、お金を持ったり、物を持ったり、たくさん手に入れていくことで自由度が高まると思っているのですが、実はそのほうが不自由で、蓄積したものにとらわれてしまうんですよね。

市耒 一般的に、お寺とかお坊さんというと、「いつも正しくて、崇高で、ちょっと近寄り難い」ちょっと教科書的な印象を人々は持っていると思うんです。あと世間で「先生」と呼ばれたり、特権階級で安定している職業の方々、学校の先生、お坊さん、お役人、弁護士、という面々は、大変失礼ですけど、今回の特集「言っていることは正しいんですけど、面白くない」ということの代表にも感じられるような気もするんですね。それはなぜかということを突き詰めると、それは「自分の言葉で話さない」からだと思います。まるで経典を暗唱して繰り返されているような印象を受けるとき、若者は先生に、住民はお役人に、人は住職に対して、機械的な印象を感じてしまうのではないでしょうか。

松本 そうですね。歴史を振り返ると、例えば鎌倉新仏教の時代は比叡山があって、がっちりしたヒエラルキーの中で、官僧という公務員的なお坊さんがたくさんいたんですね。出家というよりは、もう本当に官僚という感じの。でもそこから、「もうこれじゃだめだ」と言って、山を下りていったお坊さんたちがいて、親鸞さんや法然さん、道元さんなどが現れて新仏教が生まれてきた。そういう時代を自分の感覚で見つめる目線を、聖職の人たちがあらためて持つことで、宗教のダイナミズムがもう一度生まれてきたわけですね。

市耒 僕が今回松本紹圭さんにお願いしたのも、まさにそういう仏教という松本さんのお言葉を借りれば「世界でもっとも充実した壮大なストーリーコンテンツ」を踏襲しながらも、常に自分の目でご判断され、自分でお話しているところです。誤解をおそれずに言うと、さきほど述べましたいわゆる「固い」と言われる職業の方々は、やはり「過去から来た正しさにすがっている」という部分を性質上持っていると思うんですね。でも、いわゆる「正しい」ということは下手をすると「自分で考えない」ということにつながったり、「思考が自由じゃない部分」もあるんじゃないかというので、今回の特集では「正しさと面白さ」についていろんな側面であたってみているんですよ。

松本 僕は、最近「出家」ということに興味があります。出家というのも仏教でいわゆる言われている「形だけの意味」ではなく、「出家、本来の意味」を問いたいと考えています。多くのお坊さんは、家がお寺で、お寺の息子として育てられて、仏教系の大学に行って、お寺に戻って跡を継ぐ。「出家どころか一度も家を出ていないじゃないか」という場合もあるんですね。「寺」という居心地の良い家にずっと居続けているんですよ。ふつうの社会人よりも覚悟が足りないというか。自ら選択をして「おれはこの道を行くんだ!」という、出家のプロセスをまったく経ていないんですね。

市耒 シッダールタも、祖国を離れ、極限まで放浪することで視野を拡張したと言われてますよね。でも今のお坊さんには「出家」という言葉だけが残って形骸化していると。

松本 そう。「出家」を仏教の中ではなく、社会の中での意味的で再定義すると、「みんなが共有している価値観から勇気を持ってずれる」ということ。「家」というのを「社会」に拡張すると、つまり、そこから飛び出るということですね。だけれども、完全にずれてしまうと、「変な人」になるんですよ。ずれているけど何か大事なことを言っている、ちゃんと社会と接続しながら既存の社会に価値観としてインパクトを与え続ける人。それがこれからの時代のお坊さんなのではないかなと考えています。そういう意味では、お坊さんだけでなく、むしろ産業界やアカデミズムの世界、スポーツの世界にも、この「出家」という考えはあてはまると思うんです。

市耒 松本さんご自身、北海道から上京されて東大の哲学。そして仏門にご出家され、さらに途中でインドにMBAのご留学もされて、そういう意味で「創造的な出家」を繰り返されていますね。

松本 自分の強い軸を持ちながら、視野を広げる体験を持つことで、ある種のダブルスタンダードを行ったり来たりできるかということだと思うんです。僕自身、目の前のものを見つめながら、どっかで視点がズームアウトしたモノの見方を見つけたいと考えて生きてきました。

市耒 今の世の中に関してはいかがでしょうか。どうしてもニュースは景気や政治の話しが多いですね。仏教という教えを現代の中でどうとらえていますか。

松本 いままでの資本主義なんかがそろそろ行き詰まって、「こんな社会は嫌だな」と思うんですが、「次のシステムは何だろう?」と考えてもしょうがないと感じています。そもそも仕組みの問題ではなく、人間の意識の問題ではないでしょうか。「ある仕組みがあって、いまは行き詰まってるけど、別の新たな仕組みがくれば、急にバラ色の社会になる」という発想自体が、システム偏重な考えであり、危ない。そうではなく、まず自分から変わっていかないと何も始まらないんだ、と。そしてそういった目覚めをひとりひとりの方に与えるお手伝いができないかなと考えました。そのときにお坊さんは、仏教の考え方を世間の人々にインストールしていくのではなくて、仏教というこれまでの歴史で多くの人々の憂いや喜びを吸収しながら受け継がれてきた「目覚め」のツールとして活用していく。仏教のアーカイヴ全体が、個人と世界の在り方を考え直す上で、完成度がきわめて高いと考えています。

市耒 「欲」というものは、どう考えればよいでしょうか? 僕には欲があります。

松本 欲は誰にでもあって、お坊さんにも当然あります。いい欲だったら健全なんですよ。ただ最近、自分自身が変わってきたところがあって。別に何か悟りに近づいたわけじゃないのですが、ちょっと欲の絶対量は減ってきたと思います。震災の前は、やはり僕自身もふくめて、この社会の仕組みにもっともっと依存していたと思うんです。その枠の中でみんな「あれが欲しい、これが欲しい」「だれそれには負けたくない」「だれそれよりいい車に乗りたい」といったどんぐりの背比べに陥ってしまうのですが、一回ちょっと退いてみると、「何だこれ、ばかばかしいな」と、本当にどうでもよくなってきますよね。「そんなことをしている場合じゃないだろう」という「視点が俯瞰になる感じ」が震災で強烈に自分の中に生まれた。では、いま何をすべきかというと、少なくとも自分の置かれた立場において自分のできる範囲で、人の心の支えになることができたらなと思っています。自分が人の支えになるというのはおこがましいですが、それでもできる限り貢献したいという自分があります。

市耒 欲の中にも「利他」と「利己」がありますよね。「利他」が完全に100%ではなくて、他人のためにやっていることに自己実現を感じるとか、やはり「利己」とシンクロしている部分があるといいなとは、感じているんです。震災における人助けは本当に大事だし、そういう気持ちがこの国の素晴らしさの根幹にはあるんだろうけど、震災以降のマスメディアは、傾向として利他的な雰囲気の押しつけが強かった。一方で、自己実現が忘れられるのは少し心配なんです。「周りがなんて言おうと、こんな造形をつくってみたい」「僕はこういう生きたいんだ」。「僕は」「私は」ということを考えている若者がどんどんいた方がいいと思います。全てが均等になって「クリエイティビティの共産主義」みたいになるのはすこし怖いというか。そういうところをどう整理すればいいのかを考えて、少し悩んでいたのですが。

松本 まさにそうで、利他が集団的で押しつけがましくなると、それはそれでやはり気持ち悪いんですね。仏教で強調しているのも、利他の重要性はもちろんなのですが、大事なのは「自利利他」ということ。「自らを利すると同時に他を利する」。すなわち自利と利他がイコールであるということです。幸せがどこから来るかというと、自分からは来ないというか、やはり人との関わり合いの中でしか生まれない。例えば、ボランティアをやっている人たちに対して、「本当に100%、無私の気持ちでやってるの?」と訊きたくなるメンタリティーもあるかもしれない。ただ、よくよく考えてみると、それはどちらでもよい話で、やっているということ自体が尊い。私利私欲でやっていてもいいわけですよね、実際に人を助けていたら。実際のところ、そういう突っ込みをするのは何もやってない人で、やってみると相手も自分も笑顔になっていくのが分かりますよね。なによりも行動が尊いのです。しあわせは、お金とは違って、あっちに笑顔一つ花咲けばこっちにも笑顔が咲いてくるという、お互いに増やし合えるもの。自利と利他の幸せが循環して広がっていけば、その順番は自由でいいと思うのです。

市耒 松本さんがなさっているこういったメッセージ発信やお寺の現代的再構築が、これからの社会の一つの大きな軸になるかもしれませんね。まさに仏教という歴史的価値を換骨奪胎しているような。

松本 ありがとうございます。現代の若い人が、いまの社会について、この日本という国について、どのように感じているのかに私は興味があります。だからどんどんお寺にお話しに来てほしい。私も、今の社会を見ると「正直、嫌だな」と思うところもたくさんあって、「壊したい部分」もある。「何でこうなっちゃうの?」とあきらめたくなる気持ちも出てきたりもします。でも、そういう中で、「何でこうなっちゃうの?」というあきらめからもう一段違うレイヤーで考えられる「ずれた視点」を、お坊さんやお寺という存在に託したいなという気持ちがあるんです。託したいなんて言うと、自分もお坊さんなので変なのですが、プレーヤーでもいながら、託したいという気持ちがあるから「場」をプロデュースして、そういう輪を広げようということをやっている。文化や経済や生き方の悩みが、自由奔放に語られる。そういう場としてのお寺があれば、社会にも、新たな考え方が加わってよいのではないでしょうか。